アリスに先に酔われた夜の話 1

 先に・・・・
「かんぱーい!!」
 酔われてしまった。
「あれぇ?江神さん、全然飲んでへんやないですかぁ」
 言いながらビールの瓶を持って、よろける様にトンとぶつかってきた身体。それに“いつもだったら・・ と心の中で溜め息を落としつつ、英都大学文学部4回生の江神二郎はバランスの崩れ掛けた身体を支えるようにして元に戻した。
「あ、すみません・・はい、ビール」
 それでもビールの瓶は離さずににっこりと笑う顔。
 再び落ちた溜め息。
 そう。いつもだったらこうなる前に適当な所でうまく止めていたのだが、今日はそれを見誤った。気付いたら7つ年下の後輩はすっかりハイテンションになって出来上がってしまっていたのだ。
「・・俺はもうええよ」
 どうやって連れて帰ろうか、やはりこうなるとおぶってゆくしかないだろうか。そう考えた江神の前で後輩−−法学部2回生の有栖川有栖−−は眉間に派手な皺を寄せた。
「えー・・何でですかぁ?全然減ってませんよぉ。江神さんちぃとも酔うてへんやないですかぁ・・」
「・・・・・・・・」
 ここで自分まで酔ってしまったら、二人で道端で野宿するしかない事を今の有栖が考えられる筈がない。
 無言のままキャビンを取り出した江神に有栖は小さく唇を尖らせた。そして。
「!!・アリス!つぐんやない!」
「せやってー・・江神さん飲んでくれへんからぁ・・」
「もういらんて言うたやろ・・っ!やからって自分のグラス
につぐんやない・・!」
「・・やってぇ・・もったいないやないですかぁ・・」
 妙に間延びした言葉にヒリヒリと痛む頭。
 前期試験も終わり、今日はバイトがないと言った江神をひどく嬉しそうな顔して「それなら飲みに行きませんか?」と誘ったのは有栖だった。突然決まった飲み会に同じサークルのメンバーたちは−−といっても残り3名なのだが−−生憎予定があると言って来られなかったのが、この状況を招いた一因でもあると江神はキャビンを燻らせながら思う。
「ほんまに・・・江神さんもみんなも付き合い悪いー・・」
「・・・一緒に飲んどるやろ?」
 テーブルに懐く様にして漏れ落ちた言葉に江神は思わず苦笑に近い笑みを浮かべながらクシャリとその髪をかき回した。
「せやって・・もういらんて言うたやないですかぁ・・」
「いらんもんはしゃあないやろ?それに俺だけやなくてアリスももう終いや」
「江神さん・・?」
「帰るぞ。ほら、立って」
「・・・・もう・・お開きですかぁ・・?バイトないって言うたのにー・・」
 上目づかいで見つめてくる瞳にもう一度零れた苦い笑み。
 過去にもこんな風に江神自身が酔う前に有栖がすっかり出来上がってしまった事があった。
 その時にも思ったのだ。
 普段もそうだが、酔うと更に拍車をかけて、有栖は警戒心がなくなる。
 だから、適当な所でストップをかけてきたのだ。
 けれど・・・。
「泊めてやるから、帰ろう」
「江神さん?」
「こんなんで帰されへんわ。どうしてもこれ以上飲みたい言うんやったら、下宿で飲ませたる」
 言うが早いか江神は短くなったキャビンを灰皿に押しつけて伝票を持って立ち上がった。
 無防備で、無邪気な後輩は、一刻も早く寝かし付けてしまうに限る。そうでなければ・・・。
「・・・・・どこかでつまみ買うていってもええですか?」
「・・ほんまに飲む気なんか?」
「・・・・・嘘やったんですかぁ・・!?」
 顔中に“嘘つき”と書いたような有栖に江神は微かに肩を落とす。こうなったら好きなだけ飲ませて潰してしまおう。幸い明日のバイトは午後である。
「好きなだけ飲んだらええよ。ほら、行くで」
 泣く子と有栖には勝てない。
 織田や、望月等が聞いていたら“甘すぎる!!”と言われてしまうような台詞を口にして、江神はようやく帰る体制に入った有栖に手を貸しながら、胸の奥で何度目か判らなくなった溜め息をついた。


「はい、これが江神さんの分」
 テーブルの上に喜々として置かれた缶ビール。
 どうせ歩いているうちに酔いが回り、下宿に着く頃には撃沈寸前だろうと思っていた江神の予想は見事に外れた。途中のコンビニで約束通りにつまみとビールを購入した有栖はふらふらとしながらも上機嫌で下宿に辿り着き、そのまま約束通りに酒盛りの準備を始めた。−−−といってもその辺の本の山を動かして、テーブルの上に買ってきたものを広げただけなのだが。
「・・・・ほんまに大丈夫か?」
「全然平気ですよぉ。ちゃんと歩いて来れたでしょう?頭の中めっちゃクリアーですもん」
 プシュッと音を立てて開けられたビール。
 これでもロング缶を買うのだけは阻止したのだ。
「江神さん、乾杯」
「あ・・ああ・・・せやけど何に乾杯するんや?試験終了の乾杯は片手はしたで?」
「う〜ん・・・あっ・・じゃあ、江神さんのバイトがないのにかんぱぁい!!」
「アホ、バイトがなかったら食っていけへんわ」
「ええやないですかぁ、こんなのほんまに久しぶりなんですから。ミステリーの話しましょう?何からしようかな」
「・・・・・・・」
 クスクスと笑う声と、ひどく嬉しそうな、これ以上はないほど無防備な有栖の顔から江神はそっと視線を外して目の前のビールを口にした。
 その途端。
「−−−−−−!」
 カタンと何かが倒れた音と慌てたような有栖の声に江神は慌てて視線を戻した。
「すみません!手が当って・・・何か拭くもの・・」
 テーブルの上にジワリと広がるビールの染み。
 軽く揺れて零れただけなのかさほどの量でもない液体に、けれど有栖はひどく狼狽している。
「アリス、大した事あれへんよ。ほら」
 立ち上がってタオルを取り、それでトントンと押さえれば消えてしまったそれにクシャリと歪められた顔。
「すみません・・」
「何情け無い顔しとるんや。もう綺麗になったやろ?飲むんやないのか?」
「・・・・・・怒ってはります?」
「アリス?」
「せやって江神さん、目ぇ逸らすし・・」
「・・・・・・・」
「怒らんといて下さい」
「怒ってへんよ。それより飲まんのやったらもう寝た方が」
「怒ってはるでしょ・・」
「・・アリス?」
「嫌や・・怒らんといて下さい」
「・・・何や、いつから絡み上戸か泣き上戸になったんや?もう酔っぱらいは早よ眠ってしまえ」
「・・・・・・・」
 真っ直に見つめてくる、うっすらと涙の浮かんだ瞳から江神は再びゆっくりと視線を外すと目の前のビールを退かすべく手を伸ばした。
「アリス!?」
 けれどその瞬間、有栖の手が江神の手を掴む。
「やっぱり怒ってる!」
「・・・アリス・・」
「何で?どうしてですか?一緒に飲むのほんまは嫌やったんですか?今日も無理して付き合うてくれたんですか?」
「・・・そないな事誰も言うてへんやろ。ほら、もう手ぇ離し。布団敷いたるから寝て・」
「嫌や!・・・嫌や・・ちゃんと言うまで離しません」
「・・・・・せやから・・怒ってへんて言うとるやないか。他に何を言えばええんや?」
「・・・嘘つき・・」
「アリス?」
「・・・・今日の江神さんおかしいですもん。ほんまは迷惑やったんですか?ほんまは・・」
「・・・・・・誰もそないな事言うてへん。離せ。離さんと今度はほんまに怒るで?」
「・・やっぱり怒ってはるやないですかぁ・・」
「・・・・っ・!」
 ポロポロと瞳から零れ落ちた涙に江神は思わず胸の中で盛大な溜め息を落とした。
「怒らんって言うまで・・離さへんもん・・」
「・・・・・もう怒ってない」
「・・・・・・・・」
「アリス・・」
「・・・・・・・・」
「アリス・・離し」
「・・・・・・・・」
「アリス・・!・・」
「・・・・・嫌・・」
「・・・っ・・!」
 その瞬間、江神は掴まれていた手を自分の方へグイと引き寄せた。テーブルの向こうから不意をつかれて腕の中に倒れ込んできた身体を抱き締めて、やるせない思いに目を眇る。
「・・アリス・・」
「・・・っん・・!」
 奪う様にして合わせただけの唇に、腕の中の身体が一瞬だけビクリと震えた。
 ドクンドクンと騒ぐ鼓動。
 クタリと力が抜けた有栖をそっと離して。
「・・・え・・がみ・・さん・・?」
「・・言う事きかん罰や。酔っぱらいは大人しく眠り」
 言った途端、ほとんど手をつけていない缶ビールを持って江神はさっさと立ち上がった。
 多分、きっと、朝になれば有栖は今日の事を覚えていないだろう。それを見越しての行動ではないが、抑えが効かなかったのは事実だ。
 胸に広がる苦い思い。
 が、しかし・・・。
「!!アリス!?」
 その瞬間、背中にしがみついてきた身体に江神はらしくもない声を上げる事になった。
「アリス!何・」
「・・・・・今の罰なんですか?」
 背中越しに聞こえきた小さな声。
「・・・・・・・・そうや」
「それやったら罰になりませんよ」
「アリス?」
 聞こえてきた言葉の意味が判らずに振り返った途端ぶつかるように重なってきた唇に、江神は持っていた缶を思わず落としそうになる。
「・・ア・・リス・・?」
「お返しです。こんなん全然嫌やないから、罰になんかなりませんもん」
 どこか拗ねたようなその言葉に江神は苦い笑みを零した。
 これだから酔っぱらいにはかなわないのだ。
 絶対に・・・・かなわない。
 前方に視線を戻して、らしくもなく顔を俯かせて。
「・・・そんな顔して見たらあかんよ」
「江神さん?」
「・・・・そんな風に言うたらあかん」
「・・・・・」
 背中にしがみつくようにしていた手がゆっくりと外された。
 ゴトンとシンクの中に置いた途端倒れたビール缶から淡い琥珀色の液体が流れ出す。
「・・どうして?」
「・・・・・・」
「何でですか?」
「・・・・・・」
 言葉を変えただけの同じ問いかけに江神はゆっくりと有栖に向き直った。
 判らない、知らない、という事が罪になりうると言う事を有栖は知らないのだ。
 だからこんな風にまっすぐに見つめて、無防備な顔を向けられるのだ。
 落ちた沈黙。見つめ合った瞳。
 先に動いたのはどちらだったのか。
「−−−−−−−−」
 再び重なった唇は、ビールの味のする口付けに変わった。
「・・・・江・・神さん・・酔うてはります・・?」
「・・アリスほどやない」
 そう・・一応は飲んでいたのだ。全くシラフという訳ではない。勿論、酔っていると言えるものでもないから、この行動を酔いのせいにする事は出来ない。
「・・・・良かった」
「アリス・・?」
 フワリと浮かんだ微笑みと漏れ落ちるような小さな言葉がどういう意味なのか。
 けれどそれを考える事は江神には出来なかった。
 オズオズと背中に回された有栖の腕に次の瞬間、江神はその身体を抱き締めていた。


ホーホホホホホ・・・。“酔われた夜”というタイトルよりも“手を出しちゃった夜”というタイトルの方が近いかもみたいな話・・・(*^^*ゞ
何か若いよね、な江神さんは如何でしょ?いや勿論若いんだけどさ。