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桜、咲いた 
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 多分、恋をしている。
 “ガラにもなく”などという修飾語で飾ってしまうほど、よもやまさか自分がこんな風に他人を好きになってしまう日が来るなんて思ってもみなかった。
 更にその相手がお人好しで、呑気な顔をして隣で笑っている友人だなんて、我ながら“信じられない”を通り越して理不尽さまで感じてしまう。
 けれどそれはまぎれもない真実なのだ。
 思いに気付いてから長い時間を過ごしてきても変わらない気持ち。
 そう・・・確かに自分は彼の事が好きなのだ。
 手放したくないと思うほど。
 側に居ろと願うほど。
 例え彼が知りたいと思っている事を口にする事が出来ずにいても、そしてそれを知って尚、彼が今まで同じように隣にいてくれるのかと弱くなってしまうほどらしくもない恋をしている。
 想いを告げなくても・・。
 ただ振り向いた時に隣で笑っていてくれればいいと祈るような。
 
 
 そんな恋をしている・・・・
 
 
 
 
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「ああ?何だって!?」
 うららかなという言葉がピッタリとくるようなそんな昼下がり、京都・北白川にある下宿の一室で英都大学社会学部助教授である火村英生は『や』のつく自由業の人間も真っ青な声を上げて手にした電話に向かって口を開いていた。
「何をふざけた事ぬかしてるんだ?大体原稿は上がったのかよ。確か長編がどうのって騒いでいたのは今月の頭だっただろう?」
 眉間に皺を寄せて火村は広げていた本をパタリと閉じると代わりに机の上に出しっぱなしにしてあったキャメルのパッケージから幾分くたびれたような煙草を取り出して火を点けた。
「落とした?おいおい、それなら尚更そんな事をしている場合じゃないだろう?今頃神経性胃炎になっているかもしれない担当者の為に少しでも書こうっていうのが普通じゃないのか?そんな事をしているとお前の数少ない読者からも呆れて見捨てられるぞ」
 ふぅと白い煙を吐き出して火村は「数少ないは余計なお世話や!!」と怒鳴り声の聞こえてくる受話器を
耳から遠ざけた。
 そう、電話は大阪在住の推理小説作家・有栖川有栖からのものだった。
 「なぁ、花見に行こう」などと呑気な誘いの電話に春休みと言えど学年末と新年度の残務と事務のゴタゴタで火村は相変わらず多忙を極めていた。
 今日はたまたま下宿で仕事をしていただけで、どこかの作家と同じように現実逃避をしているわけではないのだ。
『だってほら、やっぱり桜は日本人の心やろ』
 のほほんとした顔さえ浮かんでくるような言葉に火村は思わず眉間の皺を深いものにした。
「生憎生粋の日本人じゃないんでね」
『えっ!!君ってハーフとかクォーターとか異人の血が混じってたんか!?』
「・・・・・・・」
 素っ頓狂なその声にこめかみの辺りがヒリヒリとする。大体今時“異人”はないだろう。
 思いながら口には出さず、火村は長くなった灰をトンと灰皿の上に落として「信じるな、バカ」と呆れたように口を開いた。
『あー、びっくりした。ったく・・だから花見』
 グルリと回って戻ってきた話題に胸の中でついた大きな溜め息。
「い・か・な・い」
『子供みたいな言い方すんな』
「子供はお前だろう?ここからだって裏のうちの桜の木が見えるし、大学だって出来るぜ?」
『・・・情緒が無さ過ぎる』
「作家先生と違ってリアリストなんでね。花に情緒もロマンも哀愁も見い出せないんだよ。じゃあな」
 そう言って電話を切ろうとした火村の行動が見えているかのように有栖は「待った!!切るな!!!」と受話器の向こうから大声を上げた。
「・・・・何だよ」
『わかった』
「・・何がだよ」
 時々火村は有栖が文筆業者である事を疑いたくなってしまう。自分が納得している事に対して主語とか述語とか何もかもすっ飛ばしてしまうのは学生時代からずっと変わらない有栖の癖だ。
『だから・・情緒はいいから、付き合うて』
「・・は・・?」
『ちょっと・・話したい事があるねん』
「話したい事?」
『ビールは持って行くから裏のうちの桜で花見をしよう』
 それは花見という名目は使っているけれど珍しく煮詰まったような、けれどどこかで何かを決心したような不思議な声だった。こんな風に有栖が言い出す事はあまり、というよりも今までの長い付き合いの中ではほとんどない。
 一体何の話がしたいというのか。
『火村?』
 耳を打つ怖ず怖ずとした有栖の声。
 胸の中に落ちる2度目の溜め息。
「・・・・あと2日もすれば満開になるぜ、多分」
 瞬間、受話器の向こうからひどく嬉しそうな気配が伝わってきて何故か火村は少しだけ機嫌を下げた。
『じゃあ、明後日。夕方くらいからなら大丈夫か?』
「ああ」
『したら、夜桜見物楽しみにしとるわ』
 切れた電話。
「・・・・・何なんだ、一体」
 結局ほとんど吸わないまますっかり短くなってしまったキャメルを灰皿で揉み消して火村は湧き上がってくる不安とも苛立ちとも付かない気持ちを抱えたままガシャガシャと白髪交じりの髪を掻き回した。
 
 
 
 
   
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「すっかり春ですねぇ」
 窓の外を見てのどこかのほほんとした助手の言葉に火村は相づちも打たず、顔も上げずに広げた資料に向かっていた。
 けれどそんな事には慣れているとでも言うように昨年の秋口から助手として火村の所に来る事になった西村彰生は「これだと入学式の前に全部散っちゃいそうですね」とひどく残念そうな声を出した。
「葉桜の下で花見なんて嫌やなぁ」
 ボソリと今度は完全に呟きなった独り言に火村は資料から顔を上げて窓を振り返った。
 目に映る青い空と臼紅色の花を咲かせた木々。
 その途端うんざりとしたような気持ちになって火村はキャメルを取り出して火を点けた。
「全くどいつもこいつも花見だ何だってどうしてそんなに騒ぐんだろうな」
「えー、だって桜が咲くと花見をしなきゃいけないような気分になりませんか?」
「一向に」
「あー・・・まぁ人それぞれですからね。それにしてもどいつもこいつもって先生、そんなに花見に誘われてるんですか?」
 しまった。多分そんな表情を浮かべてしまったのだろう、眼鏡を押し上げるようにして人なつこい表情を浮かべた西村は次の瞬間「ああ」と合点がいったような声を出した。
「有栖川先生ですね。先生花見とかそう言うの好きそうですもんね」
 何でもない事のようにそう言う助手に火村は思わず胸の中で苦笑を浮かべた。
 西村という男はのほほんとしたその外見に合わず彼は頭の回転が早くズバズバとものを言う人間だった。 ついつい漏らしてしまった一言から有栖とのやりとりまで知られてしまったような気がして火村はキャメルをふかしながら苦いような気持ちを噛み締める。
 けれど次の瞬間、火村の脳裏に一つの試みが浮かんできた。
 たとえば、そうたとえばの話、友人から話したい事があると言われたら何を想像するか。この有能な助手は何を思い浮かべるだろう。
 こんな事を考える事自体自分らしくないと思うのだが、それでもこの2日間のグルグルと回る思考から抜け出したくて火村は人差し指を唇にあてて浮かんでしまった試みを実行する手立てを考え始める。
「そう言えば長編の新刊が出るって前に雑誌のインタビューで有栖川先生言ってたんですけどどうなったんでしょう?」
 西村は火村の言うところの、有栖の“貴重な読者”の一人である。火村が有栖の友人である事を知り、実際有栖がこの研究室を訪れた時は「大ファンです!!」と言って有栖のみならず火村さえも驚かせた経歴を持っていた。
「・・・現在進行形で現実逃避してるみたいだぜ」
「ああ、やっぱり。何かこの前いらした時そんな感じがしたんですよね。じゃあ夏は無理かなぁ・・・」
 ひどく残念そうな西村に火村は持っていたペンとコロンと机の上に転がしてゆっくりと口を開いた。
「ところで話は逸れるが、友人から話したい事があるって切り出されたら何を思い浮かべる?」
「は?」
「たとえばの話。どんな事を想像する?」
 いきなりの火村らしからぬ仮定の話題に西村は僅かに眉を寄せた。
「・・有栖川先生から何か相談を受けたんですか?」
 本当に鋭い所をついてくる。
「いや。ちょっと別件で。会って話すって言うんで会おうか会うまいか思案中なんだ」
 けれどその問いに今度は完璧なポーカーフェイスでキャメルを燻らせる火村に西村は少しだけ考えるようにしてずれた眼鏡を押し上げた。
「無難な所では仕事関係の悩みとか、あとは金銭面とかですかねぇ。または火村先生にって言うのを考えると何か事件的なもの絡みっていうのも考えられるし」
 挙げられる仮定を火村は一つずつ胸の中で打ち消した。どれも有栖というキーワードを入れると今ひとつ現実味がない。
「友人・・なんですよね。親しい?」
「そこそこに」
「じゃあ、あれかな」
「あれ?」
 短くなったキャメルを灰皿に押しつけて火村は微かに眉を寄せた。
「ええ。私の知り合いも話したい事があると言われて何事かと行ったら結婚するんやって言われて婚約者を紹介されたあげく幹事を任されたって笑ってました」
「結婚?」
「電話やのうてちゃんと会って紹介したかったんやけどいざとなると照れ臭くてそんな呼びだし方をしたみたいですね。もっともデキちゃった婚やったから余計だったのかもしれませんけど」
「・・・・・・・」
「火村先生?」
「ああ・・。そうか、そう言う可能性もあるのか。じゃあまぁ驚かされないように気を付けて約束を取り付ける事にするよ」
 そう言うと「ありがとう」と口にして火村は新たなキャメルを取り出しながら再び広げてあった資料に目を落とした。
 有能な助手はそれでこの話題が終わった事を察して新たに借りたい資料のメモと返却すべき本を抱え上げる。
「図書館に行って来ます。何か買ってきますか、先生」
「ああ・・・いや、いい。食事は気分転換に出るから」「判りました。じゃあ行ってきます」
 開けられて、閉じられたドア。
 その音を聞きながら銜えたキャメルに火を点けて火村は思わず溜め息を漏らした。
 まさかこんな答えが返ってくるとは思わなかった。
 今まで聞いた中でそれはひどくしっくりと火村の中に落ちてきた。
『電話やのうてちゃんと会って紹介したかったんやけどいざとなると照れ臭くてそんな呼びだし方をしたみたいですね。もっともデキちゃった婚やったから余計だったのかもしれませんけど』
 聞いたばかりの西村の話が甦る。
「・・・・・っ・・」
 らしくない事はすべきではない。
 これではこの2日間よりもひどい精神状態になってしまった。
“話したい事があるねん”
 そう・・・。もう何度甦ったのか判らない有栖の声。
 けれどそれと同じくらい火村はこの2日間後悔に似た思いを感じていたのだ。
 一体何事があったのだろうか。
 何か困った事なんだろうか。
 それとも頼み事の類のものなのだろうか。
 こんな事ならあの電話を受けた日にこれから来いと言ってしまえば良かったと思った。
 人間は考えないようにしようとすればするほど考えてしまうもので、更に考え始めてしまうとどうも良い事よりも悪い事に思考は行きがちになる。
 確かにあの瞬間は有栖の言う『話』に対して気になる思いと裏腹に、聞きたくないと思う自分がいたのだ。 だからついつい2日もすれば等と言ってしまい、思った通り有栖は2日後に来る事になった。
 けれどその2日は火村が思っていた以上に火村自身の精神状態を最悪にした。そうして更に現在は泥沼状態になっている。
「こんな仮定もあるなんて思ってもみなかったな」
 苦い表情でキャメルを燻らせて火村は眉間に派手な皺を寄せた。
 好きだと告げるつもりはなかった。
 いつかはこんな日が来ると思っていなかった訳でなかった。
 けれど、でも、だけど・・・・。
「・・・ったくこれでくだらない話だったらぶん殴ってやる」
 有栖が聞いたらあまりに理不尽さに驚いてしまいそうな事を口にして火村は再び短くなってしまったキャメルを満杯状態の灰皿に押しつけた。
 そうして中毒患者のように新たなそれに火を点けて。
「・・・・肺ガンになったらお前のせいだ」
 責任転換極まれり。
 それを自覚しながらも消えない苛立ちに顔を顰めて火村は白い煙を思い切り吐き出した。
 
 
 
 
 
 
 
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「こんばんわー」
「いらっしゃい、有栖川さん。火村さんは2階に居てはりますよ」
「有り難うございます。あ、これ、桜餅です」
「あらあら気を遣わんといて」
「今日は2階から花見をさせて貰うので」
「まぁここから花見やの?」
 階下から聞こえてくる大家とのやりとりに打ち込んでいた文書を保存してノートパソコンをパタリと閉じた。その音を聞いて側で寝ていた飼い猫がピクンと身体を起きあがらせる。
「何だ、小次郎。うるさいのが来たのが判ったのか?」 火村の問いに小次郎と呼ばれた猫はニャーと一声鳴くと大きく体を伸ばしてスタスタし部屋を出て行ってしまった。
「あ、小次郎久しぶりやな。元気にしとったか?」
 トントンと階段を登ってくる音に続いて聞こえてきたいつもと変わりない有栖の声に火村は本日3箱目のキャメルに手を伸ばした。その途端開いた扉。
「お邪魔」
「よぉ」
 入ってきたのは声と同様いつもと代わりのない有栖だった。それにホッとしたような、けれどこの2日間自分だけが振り回されていたようなそんな気がして火村は銜えたままのキャメルにカチリと火を点けた。
「・・・いつも以上に凄いな。燻煙でもしとるんか、先生」
「どこかの誰かさんのように自主的に締め切りが延ばせないんでついつい煙草に手が伸びるんだ」
「そんなん過剰喫煙の理由にならへんで。ったくこれから花見をしようってぇのに」
 言いながら有栖は部屋を横切るとガラリと窓を開けた。ふわりと吹き込んでくる春の風。
「もう6時も過ぎとるのにまだこんなに明るいなんて随分日が伸びたなぁ」
「どこの山奥から出てきたんだよ。それともお前もしかすると冬眠でもしてたのか」
 ユラユラと煙草をふかしながらそう言う火村に有栖はムッとして「そんな事あるか」と口を尖らせた。
 確かに有栖の言う通り6時も回っているのに外はまだ明るさを残している。これからどんどん日が伸びて夏へと季節を変えてゆくのだ。
「ああ、ほんまや。満開まではもう少しやけど綺麗やなぁ」
 一瞬何の事を言っているのか、小さく眉を寄せた火村は次の瞬間、有栖が花見に来たのだという事を思い出した。
「バカにしてたけどこれはこれでオツやな。こんな眺めを独り占めにしとるなんていい身分やないか」
「バカ言え。お前みたいに毎日花見で浮かれていられるか」
「せやからそう言う事言うなって言うとるやろ?ほんまに日本人の心ってもんが判らない奴やな」
 ブツブツと文句を言いながら有栖は持っていたビニール袋の中から缶ビールを取り出すとポンと火村に放って寄越した。それを慌てて左手で受け止めて、右手で持っていた、少しだけ灰の零れ落ちてしまったキャメルを火村は灰皿の上で押し潰した。
「よし。今日は心ゆくまで花見をしよう」
「何がよしだ。飯も食わずにいきなりこれかよ」
「つまみは適当に買うてきたで。あとはあり合わせのもんでいいから」
「俺が作るのか?」
「俺がそんなもん作れる筈ないやん」
 当然のようにそう言って有栖は再び外に視線を移してしまった。
 プシュッと音を立てて開けられたプルトップ。
 「そしたら乾杯」と自分だけ缶を掲げて有栖はビールに口を付ける。
 それを見つめる火村の口から思わず溜め息が漏れ落ちた。
 一体何の話をしに来たのか。
 とりあえず有栖はすぐさま本題に入るつもりはないらしい。ビールを傾けるその横顔に思い出される西村が言葉。
『電話やのうてちゃんと会って紹介したかったんやけどいざとなると照れ臭くてそんな呼びだし方をしたみたいですね。もっともデキちゃった婚やったから余計だったのかもしれませんけど』
 けれど今の有栖を見る限りではいきなり婚約者の紹介という事はなさそうだった。
 それならば一体有栖は何を話に来たのだろう。
 この2日間気付くと考えていた疑問がむくむくと火村の胸の中に湧き上がってきた。
 いっそあの時火村が感じた『何か』が間違いで、本当は花見が目的で話は名目であればいい。そんな気持ちさえ湧いてきて火村は苦い笑いを零した。
「・・火村?」
「何だよ」
「飲まんのか?」
 振り向いた有栖の視線が手の中に持ったままの缶ビールに向けられているのを見て火村は「ああ」とだけ気のない返事を返した。
「腹が減っとるんか?」
「お前と一緒にするんじゃねぇよ」
「何やそれ、人を食欲魔人みたいに。ええよ。飲まんのやったら勝手にするから」
 そう言うと有栖は先刻のビニール袋の中からさきイカだの柿の種だのを取り出してバリバリと袋の口を開け始めた。それを見て火村は小さくな溜め息を付く。
「アリス」
「何や?君も食べるんか?」
「話ってなんだ?」
「・・・ああ・・・うん・・」
 元々あれやこれやと悩むのはあまり性に合わなかった。どちらかと言えばはっきりと白黒をつけたいタイプなのだと火村は視線を外してしまった有栖川さん真っ直ぐに見つめた。
「アリス」
「・・・・・飲んでから話す」
「飲まなきゃ話せないような内容なのか?言っておくけど金銭面の相談なら当てにはならないと思うぜ」
 そう言って火村は持っていたビールの振るトップを開けた。
「・・・そんなんやない」
 けれど思っていた通り有栖はその仮定を否定する。
「じゃあ何だ?」
「うん・・・」
「何だよ、何かやらかしたって言うなら警察に行くくらいは付き合ってやるぜ?」
「勝手に人の事を犯罪者にするな!ちゃうわ。そんなんと違う・・」
「じゃあ何だよ」
「・・・・」
 チラリと向けられて再び外された視線。
 そうして訪れた沈黙に耐えきれなくなったのは結局有栖自身だった。
「・・・あのな・・」
「ああ」
「この前おかんがいきなり写真を持ってきたんや」
「写真?」
「・・・見合い写真」
「・・・へぇ・・」
 瞬間鼓動がドクンと音を立てて鳴ったような気がした。
「そら親として気になるんわ判るんやけど・・」
「まぁな。お互いいい年だしな」
 胸の中に湧き上がる何かを抑えるようにそう言った火村に有栖は微かに眉を寄せた。
「やっぱりそうなんやろか?」
「何だ?」
「君もそう思うか?結婚して一人前とかほんまにそうなんやろか」
「・・俺の意見を聞いても参考にはならないだろう?」
「・・・君の意見を聞きたいんや」
 真っ直ぐに見つめてくる眼差しからフイと視線を逸らして火村は手の中のビールをゆっくりと口にした。「結婚・・するんか?」
「何言ってんだよ。結婚するのはお前の方だろう?」
「ちゃうわ」
「アリス?」
「俺は・・・だって・・」
「・・・・だって何だよ」
 苛々としたような火村の声に有栖は切なげに眉を寄せるといきなり「帰る」と立ち上がった。
「おい!何だよ」
「うるさい!君がそんなに友達甲斐のない薄情な奴やと思わなかった」
「何だって?」
「俺かてこんな話切り出したんやから言うてくれてもええやないか!それとも全部決まってからって事なんか?そりゃ俺には関係ないって言われればその通りなんやけど、でも、別に祝福しないとかそんな事言うつもりはないし、そら何か淋しいけどでもおめでとう位ちゃんと言えるし、親友やって思うてたのに!」
 いきなり捲したてるようにそう言われて火村は湧き上がっていた苛々とした気持ちも吹き飛んで思わず訝しげな表情を浮かべてしまった。
「・・・何を言ってるんだ・・」
「もういい」
「アリス」
「いいったらいい。淋しいとか、めでたいのにショック受けたような気がしたのは俺の勝手やから。今度会う時はちゃんとおめでとうって言えるから。そうしたらちゃんと君の口から報告して、紹介してくれな」
「・・・おい・・」
「これ全部やる。飲んでくれ」 
 言うが早いかまだビールの入ったビニール袋を火村に押しつけると有栖は足早に歩き出した。
 それに訳が分からず一瞬だけ呆けたようにして、次の瞬間火村は慌てて有栖の腕を掴んで引き留めた。
「待てよ」
「離せ!」
「訳が分からない事並べ立てて帰るつもりか!?」
「訳が分からないって訳が分からないのは君の方やろ?」
「ふざけるな!何のつもりか知らないけどな、言いたい事だけ言って帰るってえのはどういうつもりだ。大体何で俺がお前におめでとうって言われなきゃならないんだよ。見合いの事なら俺がお前におめでとうって言うのが筋だろう!?」
「何で俺がしてもいない見合いでおめでとうって言われなあかんねん!嫌味か!!」
「・・・してない?」
「当たり前や!俺は今のところ結婚する予定はない」
 きっぱりとそう言い切る有栖に火村は再び訝しげな表情を浮かべながらゆっくりと口を開いた。
「おい・・・じゃあ見合いをしたのは誰なんだ?」
 どうも話が噛み合わない。
 というよりもおかしい。
「誰って・・・・君やろ?」
「俺はしてないし、するつもりはない」
「え?だって・・・」
 怒りから困惑に変わった有栖の表情。
 それを見つめながら火村は痛み出したこめかみをそっと押さえた。
「そのガセネタをいつ、どこで掴まされたんだ?」
「・・え・・ガセって・・でも森教授の姪御さんと見合いの話があるって聞いたんや」
「ああ、そんな話があった事はあったな」
 言いながら火村は掴んでいた有栖の腕を放して先刻ドカリとその場に腰を下ろした。それを見て有栖も又その目の前に腰を下ろす。
「でもすぐに断った」
「断った?」
「結婚をする気もないのに見合いするなんてそんな暇があるくらいなら温泉にでも行った方がいいに決まってる」
「・・温泉って・そんな・・だっていい話だし多分断り切れずに受けるだろうって・・」
「誰に聞いたんだ。勝手に決めつけるなよ」
 ムッとしながら火村はおそらく話の出所だろう人間の顔を幾人か思い浮かべた。その中には今日火村自身も振り回されたあの助手の顔もある。
 この礼はいつかきっちり返してやろう。
 そんな事を考えている火村の気持ちも知らず有栖はパニックを起こし書けたまま言葉を続けた。
「だって・・受けたらもうトントン拍子の筈だって。それに助教授って立場を考えたら結婚は必要な事だって」
「必要か必要じゃないかは俺が決める事だ。人の人生を勝手に決めるな。大体俺にだって好みも選ぶ権利もある」
「・・・・失礼な奴やな」
「お前に言われたくないね」
 一瞬の沈黙。
 やがて吹き出すように笑い出した有栖に火村も又「どっちが失礼なんだと」笑みを零す。
「何だ・・俺・・何かその話聞いた時ショックで、でも話が来たらちゃんとおめでとうって言ってやろうって思って。けどそんな君はそんな素振りを見せないし」
「先を越されたとか思ってショックだったのか?」
 キャメルを取り出しながら火村はニヤリと笑った。
「うーん・・それもそうかもしれへんけど何かそういうのとはちょっと違って・・・こんなんおかしいんやけど悲しいような淋しいような・・もうどこか一緒に行ったり、行き来する事も無くなって行くんかなぁとか・・こんな事考えるのは俺だけなんかなぁとか思うて・・・ああ何言うてるんやろ。あの別に変な意味やないんやで」
 言えば言うほど墓穴補掘ってゆくというような有栖に火村は持っていたキャメルを思わずポロリと落としてしまった。それを見て有栖はますます慌てたように言葉を紡ぐ。
「ああ、だからその・・・飲もう!今夜は飲んで飲んで飲みまくろう!!」
 落ちていた袋の中からビールを一本取り出すと有栖はガシッと音がするほどの勢いで火村に手渡してそそくさと先程陣取っていた窓際へと移動をした。
 その様子を見つめながら火村はフワリと笑みを浮かべた。
「別に変な意味でも構わないぜ?」
「火村?」
 小さなその言葉は、けれど有栖の耳にははっきりと届いていた。
 驚いたように振り返る顔。
 その肩越しに見える宵闇に浮かぶ隣家の桜花。
 そして・・・・。
「・・・・」
 近づいてそのままゆっくりと掠めるように触れた唇はビールの味がした。
 見開かれた有栖の瞳の中にはひどく嬉しそうな自分の顔が映っている。
「・・・ひ・・むら?」
 桜、咲いた・・・
 驚きに赤く染まったその顔は、今が盛りと咲くあの花よりも綺麗だとそんな事を言ったら目の前の大切な大切な友人は笑うだろうか。
 それとも、馬鹿な事を言うなと怒鳴るだろうか。
「いい花見が出来たな」
「え・・?」
 まだ赤い顔で有栖は微かに眉を寄せた。
 それを見つめて火村はその身体をそっとそっと引き寄せる。
「ひひひひ火村!?」
 腕の中で上げられた慌てた声。
 けれどその手を今更放すつもりはないと火村は思い始めていた。
 何より淋しいと言ったのは有栖自身なのだ。
 例えそれが有栖にとって子供の独占欲に近いような感情であっても、それでもそこから始めればいい。
 おそらく、きっと、勝算はある。
 だから・・・・。
「好きだって言ったら信じるか?」
「!!!」
 それは言うつもりのない言葉だった。
 けれど有栖にその気があるならば何も言わずにいる必要はないのだと火村は抱き寄せている腕に少しだけ力を込める。
「お前が好きだって言ったら信じるか?アリス」
 春の夜風がフワリと有栖の頬を撫でた。
「嘘・・」
「生憎、嘘はつけない質なんだ」
 そう言うと火村は目の前で綺麗な薄紅色に染まったその顔にもう一度ひどくひどく優しい口づけを落としてフワリと笑った。
「信じろよ」
咲いた、咲いた、桜が咲いた。
「お前が好きだ。だから結婚するつもりはない」
「・・・・」
「ちなみに俺はお前の結婚が決まったら阻止するぞ」
「・・・・・っ・・」
「覚悟しておけ」
 ニヤリと笑った火村に次の瞬間有栖は赤い顔のまま怖ず怖ずとその背中に手を回した。
「アホ・・」
 掠れた小さな小さな声。
 コトンと肩口に乗せられた頭。
「・・・信じてやる」
 こうして薄紅色の春の花を見下ろしながら、二人は『友人』から『恋人』へ一歩を踏み出したのだった。


桜が咲いたので、季節に合わせて。一応続編もありますが、青葉の季節ものなのでその頃に(笑)