SayYou SayMe 4


「アーリス!久しぶり!」
 トンと肩を叩かれて、僕はゆっくりと振り返る。
 これだけはどうしても落としたくないと言う講義の補講。そんな事がない限り会う機会のない日常。けれど今はそれが少しだけ有り難い。そんな己のマイナス思考にフッと溜め息を付くと目の前の顔が小さく眉を寄せた。
「何よ、ご挨拶ね。いきなり溜め息はないんじゃない?それが久しぶりに会った仲間に対する態度?」
「・・・・悪かった。久しぶり、マリア。相変わらず綺麗やね」
「・・・・・・・・・・・・・とっても棒読みのご挨拶有り難う。5日経ってもまだ二日酔いが抜けないのかしら?」
 ストンと隣に腰を下ろしての麻里亜の台詞に、僕はドキリとして顔を上げた。それに少しだけ呆れたように麻里亜が笑う。
「あれから江神さんのうちに行って馬鹿騒ぎしたんですってね。ひどいわ、私だけ除け者にして」
「・・・・・え・・いや・・・・」
 だってそれは・・・・・目的が・・・・その・・・
「お茶と間違えてスコッチを一気飲みして倒れたんですってね。自業自得ね、アリス」
「・・・・・・誰に訊いたんや?」
「さっきモチさんから。いやにアリスの事を心配するんで問いつめたの」 
 ケロリとそういう彼女に胸の中で望月に合掌して、僕はふぅと小さく溜め息をついた。どうやらさすがの望月もAV云々の下りは避けたらしい。もっともそれでも相当情けない事には変わりはない。
 けれど、今、僕が引きずっているものは全く別のところにあった。
 思い出すのも恥ずかしい・・・というよりも、どうしていいのか判らない記憶と感情。
 それは多分、誰にも、そう・・・・きっと江神さんにだって判りはしないだろう。
“何されてもいい”
 酔っていたのだ。確かに酔っていた。
 そうでなければあんな風にしつこく尋ねる事は出来なかったし、何よりあんな風に言う事は出来なかった。
(・・・・・・どう考えてもあれは俺が誘ったんやろなぁ・・・・・・)
 細部に渡って細かく、とまではいかないけれど、確かに僕は覚えていた。
 肌を滑った大きな手も。
 耳元で囁くように呼ばれた名前も。
 重ねた絡めた指も。
 幾度も交わした口づけも・・・・・・・・。

“・・・・・・あ・・・・あぁ・・・や・・”
“アリス・・・”
“・・そこ・・や・・・・・っ・・・・う・・・”
“・・・・ここか?”
“!!あかん・・・・っ・・さわらんといて・・・あぁ!”
“・・・・アリス・・・”
“・・・ん・・江神・・・さ・・”
 まるであの日に見たビデオの中の女優の様だった自分。
 触れられて・・・追いつめられて・・・泣いて・・・あやされて・・・墜とされて・・・甘やかされる・・・・・・
(ほんまにシャレにならんよなぁ・・・・)
 AVを見て、酔って、ぶっ倒れて、尊敬して止まない先輩を誘って、コトに至る。
 別に自分はホモではない。断じて違うと宣言できる。けれど・・・・・
(覚えていても・・・・・嫌悪感ないんやもんなぁ・・・・・・)
「・・・リス・・アリス・・・ちょっとアリスったらアリス!!会話中に自分の世界に入らないでよ!」
 怒ったような麻里亜の声に、僕はハッとして小さく「スマン」と口を開いた。
「本当に身体の調子良くないんじゃないの?」
 流石に心配そうな口調になった麻里亜に僕は小さく笑って首を横に振った。
「大丈夫や。もっともしばらくは酒は見たくないけどな」
 その答えにホッとしたように笑って、麻里亜は「そうね」と頷いた。
 タイミング良く入ってきた教授に周りでガタガタと椅子に座る音が響く。階段教室の後ろから3列目。高校の授業とは違って当てられる心配のない講義は多少不謹慎だが考え事をするには丁度いい。
 あの日の翌朝、まるで何事もなかったかのように僕はパジャマ代わりのスウェットスーツを着ていた。おそらく・・・というか二人しか居なかったのだから、江神さんが着替えさせてくれたのだろう。
 ぼんやりとしたまま布団から起きあがるとやはり何事もないような顔をして江神さんが朝食を食べていたいた。
 それがあまりにもいつも通りだったから混同したのだ。その事が夢か現実にあった事なのか判らなくなって、あまりにも間が抜けているのだが−−−普段だったら当たり前なのだが−−−僕はいつもと変わりなく「おはようございます」と頭を下げて挨拶をしてしまったのだ。そしてその瞬間、少しだけ苦い笑みを浮かべた江神さんを僕は見た。その微笑みの理由が怖くて聞けない・・・・。
 多分江神さんは僕が酔っていて、その事を綺麗さっぱり忘れていると思ったのだろう。
 けれど今更どの面下げてあの日にあった事は現実ですよね等と聞けるのか。
 大体どう思い返しても僕が誘っているのだ。それに江神さんだって男の後輩と寝てしまったなんて思い出したくないかもしれないし、第一“寝た”事を確認してどうするというのだ。
(・・・・・忘れたふりして・・忘れるしかないやろなぁ・・・・・)
 ノートの上ではグルグルと不規則な円形が踊っている。
(大体男を抱いたなんて・・・・・普通思い出したくもないよなぁ・・・・・)
 ズキリと痛んだ胸と同時に脳裏に甦るあの微笑み。きっとあの苦い笑いはそう言う事なのだろう。
普通の男ならば誰だってあのビデオの女優のように可愛い女の子の方がいいに決まっている。だから僕が覚えていないらしい事に江神さんはホッとしたに違いない。考えるのが嫌だったあの微笑みはもしかしたらそれ以上に、あんな事をさせた僕に対する嫌悪だったのかもしれない。だから怖くて会う事も訊く事も出来ない。
 考えれば考えるほど自分自身が傷つくだけで、僕はあまりにも自虐的な思考をストップさせた。
 とにかく、今日が終わればとりあえずは春休みに突入である。その後は最終のレポートの提出日や、その為の若干の資料集めやら、来年度の履修登録等はあるが、会おうと思わなければ会わずに済む。
 モチさんの情報によれば江神さんが今年も卒業するつもりはないらしいので、このまま別れてしまうという事はない。だから、その間に自分の気持ちの整理をつけてしまおう。笑うなかれ、こんな風にグルグルと自虐的に回っていても、僕はまだ−−何をどうしても−−彼のそばにいたいのだ。 
 マイナス思考で前向きにそう固く決心した僕の予定は、けれどその40分後に脆くも崩れ落ちる事になった。
 講義が終わって校舎を出た途端、いつぞやの“可愛い院生の彼女”に言付けを頼まれてしまったのだ−−−−−・・・。



 夕暮れ近い細い路地。
 少しずつ日は伸びてきているけれど、それでもまだ冬をの日入りは早い。
“アリスガワアリスさん?”
 聞き慣れない声に振り返った途端瞳に映ったその日顔に、僕は思わず声を失ってしまった。それを見て彼女はクスリと笑う−−−−−−−−−−−−−。

「良かった。よく江神さんと一緒に居るからそうやと思うてたんやけど、やっぱり間違えたら恥ずかしいな思うてちょっとドキドキしたんよ」
 サラリと揺れた真っ直ぐの長い髪。
「あ、ごめんなさい、一人で喋って。私、岡本っていいます。初対面の人にこんな事頼むの失礼なんわよく判っているんやけど、これ、江神さんに渡して貰えますか?この前借りたんやけど、返す機会がなくて。もしかしてと思うたんやけど今日も会えなかったの。このまま春まで借りっぱなし言うのも嫌やし、郵送するにも住所が判らなくて。推理研の人やったら休みの間にも会うんやないかしら思うて見かけた途端声をかけてしもうたの。驚かせてごめんなさいね」
「・・・いえ・・・・」
「それで・・あの・・・・・・駄目かしら・・?」
 戸惑った様な表情のまま彼女は小さく首を傾けた。
「あ、いえ・・・・あの・・・・でも・・」
「・・・・はい?」
「休みの間は会わないんですか?」
「え?」
 一瞬何を言われているのか判らないと言った黒い瞳に僕は苦いクスリを飲むようにその言葉を口にする。
「付き合うてるんやないですか・・・・・・?」
 僕の声は自分自身でも驚くほど冷たい、硬い声だった。
 けれど彼女はそんな事は全く気にならないようで、フワリとどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて口を開く。
「嫌やわ。どこからそんな話が出たの?うち彼氏が居るんよ。そんなん耳に入ったら怒られてしまうわ」
「え・・・?」
「というわけで、資料は返して貰える?そんな噂があるなら尚更会えへんもん」
 耳を擽るような彼女の言葉はひどく綺麗で、優しい声だった−−−−−−−−−



 すでに来慣れた道を殊更ゆっくりと僕は歩く。
  明かりの灯りだした路地。どこかでガタガタと雨戸を閉める音がする。
  どうすればいいのか全然決まっていなかった。彼女に会う前にした『決心』はとにかく時間が必要で、肝心の気持ちに整理が全くついていない。
 けれど自分の手元に、例え江神さんの彼女ではない判っても、江神さんに渡すべく頼まれたものを置いておく気になれなくて、そして何よりも本当は江神さんに会いたくて、僕は5日ぶりのその道を歩いて行く。
 見上げた窓には明かりが灯っていた。
 それにほっと息をついて、けれど少しだけ緊張して、僕はトントンと階段を上がって見慣れたドアの前で一つ深呼吸をした。そうしてトントンと小さくドアを叩く。
 聞こえてくる「はい」という返事。ついでカチャリと開いたドア。
「・・・アリス?」
 少しだけ驚いたような顔に僕はペコリと頭を下げた。
「・・・・・こんばんわ。あの・・・ええですか?」
「・・あ・・・・ああ。ええよ。入り」
 フワリと浮かんだいつもと代わらぬ微笑み。それに励まされるようにして、僕は5日ぶりに江神さんの部屋に足を踏み入れた。

後もう少し(T^T)