step by step

 酔ったアリスを寝室まで担いでいった。俺も相当酔ってはいたが潰れるほどではない。
アリスの奴は上機嫌で俺に肩を預けたまま鼻歌などを歌っている。いまいましくなってベッドに投げ出してやろうとした瞬間、アリスの両腕が俺の首に絡み付いてきて、そのまま二人、ベッドに沈み込む。アリスを押し倒した形で。
「ふにゃあ…」
 酔ったアリスの顔が真下にある。だらしなくはだけたシャツからほんのり色づいた素肌が覗いている。シラフでも相当ヤバイ状況だ。まして今、俺は酔っている。
「アリス…」
「うに?」
 理性がブッ飛んだ瞬間だった。

*****

 朝起きたら、火村の姿はなかった。
 まだはっきりと覚醒していない状態で夕べの事をふりかえってみる。あれは現実?それとも夢? 時々夢と現実を混同してしまう私だが、痕跡は身体中に赤い印となって
残っているし、なにより身体が重い。局部的にひどい痛みも感じている。それでも、やはり今一つ実感がない。本当に私は火村と? 火村も私も夕べは相当酔っ払っていた。いつもの調子で軽口を叩き合い、あと潰れて眠るだけ、のはずだった。それが…。
 私は作家だから、何事も経験だと割り切れる。いつかこういう体験が役立つ事もあるだろう。しかし現役の大学の先生、火村のショックはどうだろう。酔った勢いで親友とベッドインしてしまったなどと笑い話にもならない。と思っていたら電話が鳴った。
「起きてたか?」
火村だった。なんとなく、くすぐったい。
「今起きたとこや。君が出ていったん、ちっとも気ぃつかんかった」
 電話の向こうで苦笑するのが解った。隣にいるのが私だと知って愕然となり、慌てて出ていったであろう助教授の姿を想像して、火村には気の毒だが少し笑えた。
「大丈夫か?」
「何が?」
「おまえだよ。壊れてやしないか」
 私を心配して電話をくれたのか。すまん、親友。笑って悪かった。
「君の方こそ大丈夫か? …酔った勢いで妙な事になってしもたけど、ま、すんだことはしょうがないわ。無かった事にしてお互い平穏な日常生活に戻ろうや」
「…なんで無かった事にするんだよ」
 無かった事にしたくはないのか?
「いや、過去の過ちをいつまでも引き摺るのは、精神衛生上よくないやろし…」
「今夜、行ってもいいか?」
「何か忘れもんか?」
「おい、アリス」
 火村の口調が苛立ってきた。
「心配せんでも俺は口外せえへんし、君との友情には何の差し障りも…」
「話にならん。締め切り控えた仕事は無いな?」
「脱稿したばかりや。それがどうしたん? あ、フィールドワークか」
「もういい。話は後だ。疲れた」
 心底疲れたような声に、責任の一端はある私は心の底から同情した。
「帰って寝た方がええんやないか?」
 私の労りの言葉に返事もよこさず、一方的に電話が切られる。なんなんだ、いったい。人が心配してやっているのに。電話を放り出し、怠惰にベッドに寝転がりながら今の会話を振り返ってみる。どうも話が噛み合っていない。センセイもかなり混乱しているとみた。さすがの火村も今度ばかりは勝手がちがったらしい。 悪いとは思いながらも、ついつい口元が緩んでしまう。まあこれくらいは許されるだろう。少なくとも火村にはこの身体の痛みは無いはずなのだから。
「よっこらしょ」と爺むさい掛け声をかけて、私は名残惜しいベッドを後にした。

*****

 満ち足りた朝だった。傍らにはアリスが無邪気な顔で眠っていた。
 研究室で無性に声が聞きたくなって電話に手を伸ばした。その電話を、叩き付けるようにして切る。アリス。俺をからかっているつもりか? この俺にこんな情けない思いをさせてくれた礼はたっぷりしてやる。無かった事にしてくれと泣いて頼んだって知るものか。
 あれこれと復讐の方法を考えているうちに午後の時間は跳ぶように過ぎた。
「あ、すみません」
 アリスの部屋から女が出てきた。予想もしなかった事態に一瞬目を疑う。素早く相手の顔と表札を確かめる。有栖川有栖。間違いない。アリスの部屋だ。すると、この女は?
「あの、失礼ですけれど、火村先生ですか」
 俺の名前を知っているからにはアリスの知り合いに違いない。この女は誰だ? なぜアリスの部屋から出てきた? 今まで何をしていたんだ?
「…貴方は?」
「わたしは隣に住んでいます…」
「ああ、カナリアの」
 女は笑った。とりあえず俺の知っている女だ。名前は聞いたが覚えていない。玄関先で見知らぬ同士が会話をしているというのに、アリスの奴は出てこない。奥へ呼びかけようとしてカナリアの女に止められた。
「今、眠ったところなんです。有栖川さん、風邪気味のようで熱が有るんです」
 女を追い返した後でベッドルームに行ってみる。アリスが寝ていた。顔が赤い。
「…ん? 火村?」
 起き上がろうとするのを制して枕元に腰掛ける。
「悪い。昼過ぎまでは何ともなかったんやけど」
「風邪だって? おまえでも風邪ひくんだな」
「悪かったな。君もうつらんうちに帰った方がええんやないか」
 それは俺に帰れということか?
「ふん、お邪魔だったようだな。せいぜい彼女に介抱してもらうがいいさ」
 軽口や憎まれ口だけは簡単に出てくる。本当に言いたい事は別にあるのに。
「病人にそういう皮肉は酷やぞ」
「…カナリアの彼女が来てたぜ」
「ああ」
 そんな笑顔をあの女にも見せたのか? 女はどんな顔でそれを見ていたんだ?
「また預かったんや。そん時、吐いてもうてな。悪かったなあ。帰るに帰れんようになってしもたんやないかな。あとであやまっとかんな」
 熱のせいか重そうに瞼が落ちてくる。
「君も、せっかく来てくれたのにお茶も出せんで悪いな」
「…勝手知ったおまえの家だ。欲しけりゃ自分でする。それより素直に寝ちまえ。俺がついててやるからさ」
 俺相手に他人行儀に茶など出さなくていい。俺にはそんなもの必要ない。
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
 この笑顔を俺だけのものにしたい。そう思うのは過ぎた望みだろうか。
「あ、君の忘れもん、捜しけど見つからんかったで。何やったんや?」
 おまえだよ。俺がここへ残してきたのはおまえなんだ。
「そっちも心配するな。さあ、もういいから寝ろ」
「うん。ごめんな、火村」
 何が、と言いかけて苦笑する。アリスはすでに小さな寝息をたてていた。
 枕元でアリスの顔を見ていると、研究室であれこれ考えていた復讐の事などすっかり忘れている自分に気が付いた。アリス、おまえがいてくれればいい。ずっと一緒にいられたらと思う反面、そうする事で本性を知られるのを恐れている俺がいる。
「アリス…」
 そっと額にふれてみる。少し熱い。
「俺達、これからどうなるんだろうな」


「まさかこんなことになるとは思わんかった」
 声に出すつもりの無かった独白だった。
「何が?」
 寝ているとばかり思っていた火村が聞き止める。
「君と俺とのことや」
 火村の顔を見ずに意識的に投げやりな口調で答えた。天上を仰いだ視線が助教授の端正な顔に妨げられる。暗くて表情はよく見えない。
「後悔してるのか?」
 後悔? そうなのだろうか。ちょっと違うような気もする。
「…満足できなかった?」
 こっ、こいつ。何を言うてるんや?
「あほなこと言うな!」
 顔が火照っているのが自分でも分かる。シーツを引き寄せようとして阻まれた。
「心配してるんだぜ。俺だけいい思いしてたんじゃないかって」
「…ええ思いしてたんか?」
「アブソルートリー」
 …殴ってやろうか。そういうことをシラッと言うな。冗談にしか聞こえん。
「拗ねるなよ。よかったって言ってるんじゃないか」
「聞きとうない!」
 横を向いた私の上に助教授の重みがのしかかり、耳元に唇を押し付けてくる。
「あ…」
 人の弱点を、情け容赦なく執拗に責め立てる男だ。
「やめろって」
「なあ、アリス。もう一回、いいか?」
「なに?」
 火村は返事も聞かずに私を抱きしめ、舌先で唇の間を割ってくる。
「おい、ちょっと…待て!」
「じらすなよ」
「そんなんやないわ。聞きたい事がある」
「済んだら聞いてやる」
「あほう。今や今! でないと君とは絶交や」
 眉間に皺を寄せた渋面の火村が顔を上げた。
「あのな…」
 火村は仏頂面のまま。しかしこれだけは確かめておかなければ。
「俺は誰かの身代わりなんか?」
 助教授は片眉を吊り上げる。
「なんだって? どういう意味だ」
「せやから、君は誰か他の人の身代わりを俺で間に合わせてるんか?」
「おい、アリス」
「それとも単に性欲の処理か? 誰でもええから手近なところで俺と…」
「おまえは俺を殺す気か?」
「…真面目に答えてくれや」
「そんな唇を尖らせたまま俺を見るんじゃねえよ。まったく、おまえって奴は。ここまで意志の疎通に苦労させられるとはね」
「せやから、はっきりさせようて言うてるんやないか」
「はっきりしてるじゃねえか。俺はおまえがいいんだよ!」
「一人でするよりいいって事か?」
「頼むからボケもいいかげんにしてくれ」
 私はムッとなった。
「何がボケや。俺は真剣に聞いてるんや」
「俺はおまえ以上に真剣で深刻だ!」
 だんだん腹が立ってきた。人が真面目に聞いているのに。火村とこういう関係になるとは思ってもみなかったから、私は自分の立場を正確に把握しておきたいのだ。特定の人物の代用品なのか、単なるオモチャなのかではそれなりに覚悟というか、気持ちの持ちようも変わってくる。中途半端なままではお互い具合が悪かろうと思ったのに。
 黙って火村を睨みつけていると、助教授の首がカクンと下がった。
「あのなあ、アリス。おまえは俺が信用できないのか。俺はアリス以外とはこんな事したいとは思わない。誰の代わりでもない。おまえでなきゃ駄目だ。反応しないんだよ」
「けど俺、男やぞ。君はホモやったんか?」
「惚れた相手がたまたま男だったってことさ」
「おっ、誰や? それは」
 長く深い溜め息の後、助教授は大袈裟に天上を仰いでみせた。
「なんでこんな奴に惚れたんだか。俺は自分が可哀相になってきたぜ」
「なにっ?」
 衝撃の告白に脳みそが沸き立つ。つまり、この助教授は私にしか発情しないと言っているのか? 大いに疑わしい発言だが、それはともかく…しかし、我々はこの数年間、清く正しい友情を培ってきたのであって  …こんなコトしてて清くも正しくもないか…しかし、恋情もしくは欲情などというものが二人の間に芽生える事などありえないはずで…。
「あんまり考えるな。爆発しちまうぞ。許容量の小さいアタマなんだから」
「誰のせいやねん!」
「おまえは嫌なのか。俺とこうなることが」
 嫌というか、よくわからないというのが正直なところだ。
「少しはよかったか?」
 体温が一気に上昇した。頬から火が出そうになり、狼狽してしまう。
「あほう。そ、そんなこと、口に出して言うな!」
「はっきり言わなきゃ有栖川有栖先生、理解できないじゃねぇか」
「…俺の理解と常識を超える展開やったんや」
 火村はフンと鼻をならした。
「話は終わったんだな」
「え?」
「続きをやろうぜ」
 見かけよりずっと逞しい火村の腕が私を巻き込んでくる。
「ちょっ、ちょっと待て! まだ心の準備が…っ!」
「そんなもん後だ。俺はもう限界近くまできてる」
「ちょっと、タンマやタンマ!」
「めでたく相互理解したことだし、今度はおまえも間違いなく満足させてやるよ」
「いらんわ、阿呆! いややって、俺、ホンマに、まだ気持ちの整理が…」
「俺にはおまえだけだって何度言わせれば気が済むんだ?」
「言葉なんか信用できん。いつもそれでバカをみてるんや」
「ほう。そんなにいろんな奴に言われた事があるのか」
 言われた事だけは何度かある。しかし、未だに独身だという事実がその顛末を物語っていた。女性にならどれほど裏切られようが失恋という哀しくも美しい言葉で片づけられるが、火村相手にもし本気にでもなって、「俺、今度結婚するんだ」などと言われたら、いったい誰が私の自己崩壊を防いでくれるのか。殊恋愛、そして失恋に関する限り、私は非常に臆病なのだ。過去の数々の苦い経験のせいで。…チクショウ。
「あっ、何するんや? ひむらのアホウ!」
「おまえよりマシだ」
「うわぁっ! やめろって!」
こいつ、なんでこんなに元気なんや。同い年のはずやのに。
「待てって…今日は講義があるんやないのかっ!」
「休講にする」
「あっさり言うな! 仮にも助教授がガッコさぼってすることかぁ…っ!」

*****

「火村、ホンマに俺の事好きなんかなぁ」
 火村が帰ってしまってから私はずっとそのことを考えている。考えても考えても答えは出ない。人の心なんて簡単にわかるものではない。それでは私の方はというと…。
「俺は火村の事、嫌いやないよな」
 自分自身に問い掛けてみる。もちろん嫌いではない。いくら何でも嫌いな相手とベッドをともにすることはない。初めての時と違ってそれほど酔ってもいなかったし、そんな雰囲気になっても嫌な気はしなかった。じゃあ好きなのか? たぷん好きなのだろう。
「俺、火村の事好きなんか」
 言葉にしてしまうとたちまち顔が火照ってきた。信じられないくらい頬が熱い。耳鳴り
がすると思ったら、自分の心臓の音だった。動悸が激しくて眩暈がしそうだ。ちょっと待ってくれ。こんなのは中学の時の初恋、ファーストキス以来だ。
「でもでも、火村はホンマに俺の事好きなんやろか」
 さっきはそう言ってくれた。でも今は? 明日は? その先は?
「火村にフラれたら、今度こそ立ち直られへんかも…」
 落ち込みかけたところで電話が鳴った。
「俺だ」
 電話を持つ指に力が入る。動悸は一層早まり、うまく息が出来ない。まるで酸欠の金魚みたいだ。
「ひっ、ひむら…、俺、君に…言うの忘れとったんやけど…」
「俺も言い忘れた事がある」
心臓が止まるかと思った。何を言うつもりだ? さっきのことは冗談だとでも?
「まだちゃんと言ってなかった。おまえの事だから、言わなきゃ解らないと思ってな。いいかアリス、よく聞けよ」
 心臓の音は高まるばかり。耳の中もジンジンする。喉がカラカラに渇いていた。
「おまえが好きだ。愛してる」
「…ひむらぁ」
 火村がどんな顔で言ったのかは解らない。けれども私の様子は火村には解ったらしい。
「なんだよアリス、泣いてんのか? 決死の覚悟で告白したんだぜ。何か言ってくれ」
 少し不安そうな火村の声に慌てて洟を啜る。
「俺も…俺も君の事好きや。ずっと、ずっと前から好きやったと思う」
 火村の返事はなかった。しばらくの沈黙の後、不安に耐えられなくなった私の耳に聞こえたのは、火村のちょっといつもとは様子が違う声。
「ばーか。今頃気づいたのかよ」
「え…」
「…ったく、おまえって、ホントに鈍すぎるよな」

 昨日までとは違う火村と私がそこにいた。

おしまい


たまき様有り難うございました♪
お初ネタアーンド2度目って言うシチュエーションは燃えますよねぇぇ。うふふ。
やっぱりアリシストとしては助教授にまわって戴かないと。
そのうち、そのうち私も恩返ししますです。