そんなつもりはなかった。
偶然通りかかった可愛らしいケーキ屋の店先に出された白いワゴン。
そこに並べられていた小さな包みが目に止まって、次の瞬間ハートマークに囲まれた“St.Valentine”の文字が飛び込んできた。
そうして・・・・気付いたら買っていたのだ。
手のひらの中に収まってしまうような、綺麗にラッピングをされた小さな箱。
よもや自分が一生のうちでこんなものを買う日が来るとは思わなかった。けれど・・・・・でも・・・・・・
「・・・驚くやろか・・・・」
脳裏に浮かんだ穏やかな微笑み。
何度かキスを交わした事のある年上の恋人は自分がこれを渡したらどんな顔をするだろうか。
ポツリと落ちた呟きに、思わず赤くなってしまった顔を隠すように俯いて、僕、有栖川有栖はジャケットのポケットにそれをしまい込むと歩く足を速めた。「・・・江神さん・・・これ・・どないしはったんですか?」
来慣れた西陣の下宿。例によって例のごとく、本を借りるべくそこを訪れていた僕は「夕食を食べてからゆっくり探したらええよ」という言葉に甘え切って、言葉通りに夕食を食べた後、部屋のそこここに積まれている本の山に挑んだのだ。
そうして見つけた当初の目的の本以外のもの。
この部屋の中では異質とも言えるようなそれに何だろうと気付いてはいたがそれがなんなのか考える所まではいかなかった。
というか、部屋の中にあっても、それが彼・・『江神さん』こと、この部屋の主である江神二郎の物であるとは思えなかったのだ。
それ・・・・・・・・本とCDとレコードに囲まれた部屋の隅に無造作に置かれたパステルピンクのペーパーバック。
けれど今はその外見よりも中身の方が重大だった。
「うん?」
キャビンを銜えて江神さんはゆっくりと僕の方を振り返った。
「見つからんか?その辺にあった筈なんやけどな・・」
だがしかし、返ってきた言葉はあまりにも的を外れていて、僕は少しだけ困ったような、焦れた様な気持ちになってもう一度口を開く。
「いえ・・・本やなくて・・・」
言いながらチラリと走らせた視線。それに気付いて江神さんは部屋の隅に置かれたファンシーな紙袋に視線を移した。
「ああ、貰うたんや」
よく見れば綺麗にラッピングされた箱が幾つも入っているのが判る。包みの柄や多少形が異なってもその中身は大体見当がつく。
それなのに江神さんは判らなかったのだろうか。それとも、判っていて受け取ったのだろうか。
「それって・・・・」
言いにくそうに口にすると何でもない事のように「チョコレートやないか?」と返ってくる答え。
途端に僕の眉間に皺が寄せられる。
「・・・・知ってはって貰ったんですか?」
「何をや?」
長くなった灰がトンと灰皿の上に落とされる。
「アリス?」
不思議そうに呼ばれた名前。
「チョコやって知ってて受け取ったんですね?」
自然声が不機嫌になってしまったのは仕方がない事だろう。けれど江神さんは何故突然そんな風になってしまったのか全く判らないと言うように、吸いかけのキャビンを灰皿の上に置いて僕の方を向き直った。
「どないしたんや?確かバレンタインとか言うヤツやろ?何でかよぉ判らんけど、チョコレートを渡す日やなかったか?義理とか、本命とか言うて。明日は土曜日やし、俺は講義はあれへんし、本来の日は日曜やからって言うてたから今日渡しに来たんやろ」
それくらいの推理は僕でも出来ます、江神さん。
ただなんでバレンタインのチョコを受け取ったのか。それの方が問題なんです。
大体何でこの人がバレンタインデー何て言うものを知っているのか。
僕は少なからずその事にもショックを受けていた。
何て言うか、こういう言い方も失礼だが、江神さんはそういう事とは無縁で、もしかしたら知らないのではないかとさえ思っていたのだ。まぁ、案の定詳しくは判っていない様だけれど・・・・・
けれど、それでも何でも、何故受け取るのかと思ってしまった自分が嫌だと思ってしまう。
しかも、どうやら今の言い方だとおそらく、多分、きっとチョコレートを貰うのは今回が初めてではないだろう。
「アリス?どないしたんや?」
黙り込んでしまった僕に江神さんはゆっくりと近づいてきた。
「アリス?」
名前を口にして覗き込んでくる顔。
「・・・・・・・・誰に貰うたんです?」
尋ねても仕方のない事を、軽い自己嫌悪と共に口にして、そうしてその次の瞬間、返ってきた答えに僕はやっぱり訊くんじゃなかったと後悔をした。
「誰って・・・・・同じゼミの子とか、ノートを貸した事のある子とか、図書館の・・・何でそんなんが知りたいんや?」
それはもっともな問いだと僕も思った。
けれど、でも、一応キスだけでも自分たちは恋人同士の筈なのだ。その恋人がそんなにいくつものチョコレートを貰っていていい気がする訳がないのだという事をなぜこの頭の良い一が判らないのだろう。
「江神さんは、バレンタインにチョコレートを贈る意味を知ってはるんですか?」
「意味って・・・」
困らせているという自覚はあった。
「好きやて告白されとるんですよ・・・」
「アリス」
“そんなんやない”と付け加えた江神さんの顔から僕はそっと視線を外した。
そうして最後の意地で『それでも貰ったんわ事実でしょう?』という言葉を胸の中に飲み込む。
「義理チョコとか言われとるもんや」
「けど嫌や」
義理だろうと何だろうと受け取らないでほしい。
どう考えても我が儘としか言いようのない事を考えて僕は昨日衝動的に買ってしまったチョコレートの事を思い出していた。
それは今ハンガーに掛けられているジャケットのポケットの中に入っている。
今日渡すよりも、やっぱりバレンタインデー当日の方がいいだろうか等と思いつつ持ってきてしまった始めて買ったバレンタインのチョコレート。
何となく、もう渡す事は出来ないなと思っていた僕の耳に信じられない言葉が飛び込んできた。
「義理でも良ければ持っていくか?」
「え・・・・・」
思わず反射的に上げた顔。そうして瞳に映った江神さんはどこか宥める様な色を含んだ微笑みを浮かべていた。
「俺は甘いもんはあんまり食べへんから、良かったら持って行くか?」
ガサリと袋に伸ばされた手。その瞬間僕は慌てて立ち上がった。
「アリス?」
「帰る」
「アリス!?」
「帰ります」
バサバサと荷物をまとめる僕の手を江神さんが驚いたように掴んだ。
「どないしたんや?」
「チ・・チョコレートなんていりません」
「アリス」
「嫌や、放して!」
「・・・・何を怒っとるんや・・」
「!!怒ってません!全然、これっぽっちも、怒ってない!!」
どう見ても怒っているとしか思えない口調でそう言い捨てて、掴まれた腕をふりほどくようにしながら、僕は渡せなかったチョコレートの入っているジャケットを手に江神さんの下宿を飛び出した。「・・・・アホや・・・」
夕べから幾度繰り返したか判らない言葉。一晩どっぷりと自己嫌悪の海に浸り、僕は課題の提出をするべく大学にやってきて、そのまま学生会館のラウンジの机に懐いているのだった。
『・・・何を怒っとるんや・・』
脳裏に甦る驚いたような顔。
それは当然だろう。
いきなり理不尽な事を言い出した後輩が怒っているとしか思えない口調で怒っていないと怒鳴って部屋を飛び出したのだ。これで驚かない人間がいたら天然記念物ものだと思う。
「・・・・今度どんな顔して会ったらええねん・・・」
ポツリと零れ落ちた呟きに、僕はコロンと顔の向きを変えた。勿論そうしたからと言って良い考えが浮かぶわけではない。
「・・・・・やっぱり謝るしかないやろぅなぁ・・・」
けれどその時にどうしたのだと訊かれれば、どう答えていいのか判らない。
ジャケットのポケットの中には結局そのままになっているチョコレートが入っている。
(まさか渡そうと思っていたのに先を越されて口惜しかったとかいうわけにもいかんし、あんまりモテるから焼き餅を焼いたんですじゃ恥の上塗りやし・・・・)
漏れ落ちた何度目か判らない溜め息。
本当はそうではないのだ。
勿論そう言う気持ちもあったけれど、飛び出したのはあの言葉のせいだ。
『義理でも良ければ持っていくか?』
江神さんはそれが自分にとってはその程度の物なのだと伝えたかったのかもしれない。
或いは実際に義理チョコと言われるものだったのかもしれない。
けれどでも、義理であろうと何であろうと、それは江神さんのために用意された物であるという事実は変わらない。
それに、もしも・・・・・勿論、江神さんにかぎってそんな事はないと思うけれど、もしも自分が渡したものまでもそんな風に扱われてしまったら・・・絶対に立ち直れないと思ってしまったのだ。
「アホすぎや・・・」
そう言って僕は再びテーブルの上で顔の向きを変えた。
とにかく・・・・・そう。とにかく謝ろう。
そして理由を聞かれたら情けないけれどごまかそう。
多分ごまかされる様な人ではないけれど、それを問いつめてくるような人でもない。
「・・・・一日考えてひねり出した答えがこれって言うのも情けないな・・・」
小さく呟いて僕はゆっくりと硬い気のテーブルから顔を上げると、そのままゆっくりと椅子から立ち上がった。そうして気持ち同様重い足を引きずるようにしてラウンジを出て、目の前の階段を下りてゆく。その瞬間ーーーーーー
「!!!」
下から上がってくる人影に僕は思わず息を飲んだ。
信じられないと言うように見開いた瞳の中でフワリと微笑う顔。
「・・・なん・・で」
だって、今日は彼の取っている講義はない日なのだ。
だから当然バイトが入っている筈で・・・なのに・・・・
「どこかのアホが怒って忘れもんをするから届けに来たんや」
言いながらトントンと階段を上がって、一つだけ下の段で立ち止まった身体。
「・・・バイト・・・」
「これから行く。ほら、本。借りに来て忘れるヤツがあるか」
「・・・・すみま・・せん・・」
おずおずと出した手の上に置かれたハードカバー。
そして・・・・。
「それから、これな」
渡された本の上にポンと重ねて置かれたのは、何の変哲もない一枚の板チョコだった。
「え・・がみ・さん?」
トクンと鼓動が鳴る。
「言うておくけど貰いもんやないで」
「・・・・・・・」
何も言えずに呆然としてしまった僕に江神さんは少しだけ困ったような表情を浮かべてもう一度口を開いた。
「昨日は悪かった。義理でも何でも貰いもんをやるなんて言うて。何でかよぉ判らんけど日本におけるバレンタインデーは、義理チョコは社交儀礼で、ほんまは好きな奴にチョコを贈る日なんやろ?」
「・・・・・・・・」
その意味は正しいようにも、少しだけ違っているようにも思えたが、今の僕にとってはそれはどうでもいい事だった。
この人がどこでどんな風にその知識を得たのか、それがおかしくて、嬉しくて、そしてなぜか切ないような気さえして、僕はクシャリと顔を歪めた。
「受け取ってくれるか?」
顔が、熱く、赤くなってゆくのが判る。そうして目尻にジワリと浮かんでくる涙。
「・・・・・有り難く戴きます」
言った途端、僕はここが学生会館の階段であると言う事を忘れて思わず目の前の身体に抱きついてしまった。
「アリス!?」
慌てた声と、同時にしっかりと受け止めてくれる腕の暖かさが嬉しくて。
「大好き・・」
ポケットに入っている衝動買いのそれはどうやらやっぱり渡せそうもないけれど、代わりに手にした何の変哲もない、けれど、きっと世界一甘いチョコレートに握りしめながら、僕はだからバレンタインの小道具はチョコレートなのかもしれない等と埒もない事を考えた。
「・・・・・渡す場所の選択を間違えたな・・」
抱き留められたまま耳元で苦笑混じりの声がする。
そうして次の瞬間、掠めるように落とされた口づけに、これ以上はないと言うほど顔を赤く染めながら。
「・・・ホワイトデーは期待していてくださいね」
「アリス?」
覗き込んでくる少しだけ驚いたような顔。
それにこの言葉はあまりにも意味深だったかと僕は慌てて抱きついていた身体から離れて、口を開き掛けて・・・・
「あの・・・」
「ホワイトデーって何や?」
「!!!!!」
やっぱり江神さんは江神さんだった。
お約束のようなそのオチに、大声で笑い出したい気持ちを必死で抑えつつ、僕はにっこりと音がつくような笑みを浮かべながら「本命だけにお返しをする日です」と答えたのだった。