SweetHeart


 冬にしては珍しい、暖かな日。 外の気温とは反比例するような気持ちを抱えて、私、大阪在住の推理小説作家・有栖川有栖は受話器を握りしめていた。
『・・・・・・・それで?』
 耳に当てたそこから聞こえてくる、お世辞にも機嫌がいいとは言えない声。
 自業自得は判ってはいても、もう少し思いやりというか、気遣いというか、せめて普段と変わらぬ声を出してほしい。
 そんな私の微妙な心の襞が判るはずもなく、電話の相手ーーー只今ご機嫌急降下中のーーー英都大学社会学部助教授・火村英生氏は先程と同じトーンで同じ言葉を繰り返す。
『それでどうするつもりなんだ?アリス』
“せやから今言うたやないか!”と言う言葉を飲み込んで、私は受話器を握り直すと零れ落ちそうな溜め息を押し殺しながらゆっくりと口を開いた。
「・・ほんまに悪いと思うてるほんまに・・ほんまに・・・・」
『その言葉は聞き飽きた。悪いと思ってどうするんだと訊いているんだ』
 思わずうっとつまった答え。それに火村は私が先程押し殺した溜め息をこれでもかという程わざとらしく大きくついて言葉を続けた。
『毎回毎回、本当に進歩のない事をしてくれるよな、アリス。確か今回の事もお前から言いだした事じゃなかったか?その頃には原稿も上がってのんびりしているから祝日を使って温泉にでも行こう。決めの言葉は“雪見酒なんてええなぁ”だったよな?』
「・・・胡散臭い関西弁を使うんやない」
『話を逸らすな』
「・・・・・・・・・・」
 こうなってくるともう私には反論の余地がない。火村の言う通り原稿は上がっている筈だと豪語して小旅行に誘ったのは私なのだ。
 そうして出発2日前に原稿が上がりそうもないからキャンセルをしてくれと泣きついているのも紛れもない事実であって・・・・・。
『無理に無理を重ねて調整した俺の休暇をどうしてくれるんだ?』
「ひ・・・・一人で行くか?」
『・・・本気で言っているなら俺にも考えがある』
「冗談や!ほ・・ほんまにあと少しなんや。けど・・どう徹夜してもあと2日で上がりそうもないねん・・」
『・・・・・・・・・・』
 黙ったままの受話器から“それはあと少しとは言わないだろう”という火村の声が聞こえてきそうな気がした。けれどその言葉を実際に聞く前に、私は再び口を開いていた。
「前日とか、当日のドタキャンよりはマシやと思うて電話したんや!ほんまにスマン!堪忍してくれ!」
意地とかプライドとか、そんなものはこの際一気に燃えないゴミにでも捨て去って、私は受話器を握りしめたままガバリと頭を下げた。
 訪れる沈黙。もしかして電話は切れてしまっているのではないかという不安に駆られて私はおずおずと口を彼の名を呼んでみた。
「ひ・・火村?」
『・・・・・・・・・』
「絶対にこの埋め合わせはするから!』
『・・・・・・・・・』
「・・・何とか言えや・・・」
『・・・・・・・・・』
「火村ぁ・・・」
 完全に白旗を掲げた私の耳にやがて溜め息混じりの助教授の声が聞こえてきた。
『・・それで、いつ終わる予定なんだ?その“あと少し”は』
「!!最終は金曜日の最終便。土曜の朝イチで届けば何とかしてくれるって」
『筆の遅い作家の担当は生きた心地がしねぇな』
何とでも言え。
「と・・とにかく週末には自由の身や。そうや、旅行ずらすか?」
『週末の予約が今から取れるか、バカ。大体運良く取れても又すぐにキャンセルの連絡をし直すなんて俺はまっぴらだからな』
「・・それはない・・・・筈や・・」
そう。あったら困るのだ。と言うよりもあってはならない。それ程ギリギリなのだ。
『週末ねぇ・・・・』
 聞こえてきた声に、キャメルを手にしたまま何かを考えているような火村の顔が脳裏に浮かんだ。
そして・・・・・・・・・・。
『来いよ』
「へ?」
『週末には晴れて自由の身なんだろう?手土産を持って詫びでも入れに来い。ただし』
「ただし?」
『手土産は“その日に持ってくるべき物”を持ってこいよ』
「持ってくるべき物?」
『そう。正確には1日早いがそこはご愛嬌ってヤツだ』
「・・1日早いぃ??」
 ますます判らない。原稿の上がった週末に詫びを入れに行くのはいいーーーー百歩譲って手土産を持参するのも仕方がないと思うーーーーけれど、でも1日早いけれど持ってゆくべき物というのは何なのか。
 私の困惑顔が見えているかのように、電話の向こうでは何故かは判らないが機嫌急上昇中の助教授がひどく楽しげに言葉を繋ぐ。
『推理小説作家の先生にはあまりに簡単な推理だろうけど、そいつを持ってくれば今回の愚行は水に流してやるさ』
 ニヤニヤ笑いが見えるようなその言葉に私は思わず眉間の皺を深くした。
「あのなぁ・・・・・・・・一体何やねん」
『ちゃんと考えろよ。それから万が一にでもこれ以上終わらねぇなんてつまらない事を言ってきやがったら』
 不自然に途切れた言葉。
 人間というのはどうして怖い物見たさというか、無意味に好奇心が旺盛な生き物なのだろう。
「・・・・・言ったら・?」
 よせばいいのに問い返した私に火村は躊躇なく口を開いた。
『いまお前が抱えて唸っているそのフロッピーを初期化しながらその横で足腰立たなくしてやるさ』
「!!!!!!」
 どうやって等とは訊くだけ野暮というものだ。
“じゃあな”という短い言葉を残して切れた電話。
 口にしていた恐ろしい言葉は、多分、キレたあの男ならばやりかねない。
それは悲しいけれどよく判っていた。
「うううう・・・・死んでもやらな・・・」
 唸るようにそう言って私は持っていた受話器を置くと書斎に足を向け、ふと壁に掛かっていたカレンダーに目をやった。
「週末がなんだっちゅうねん・・・・」
 原稿を上げた週末と言う事は、土曜にそれを持って来いという事だろう。更に1日早い等と言っていたのだから日曜日に何かがあるのだ。
「日曜って何かあったっけ?」
 言いながら2月のカレンダーの上に滑らせた指。赤い数字の下には小さな文字が入っていた。
 けれどそれは大安だとか、友引だとかそういう類の物ではなくて・・・・・
「・・・・・嘘やろ?」
そこには間違うことなく【St..Valentine'sday】と記されている。
「・・・・・・何を考えてんねん、あいつは・・・」
 そんな筈はない。
 けれどそれしか考えられない。
 確かに火村は“あまりに簡単な推理”と言ったのだ。もともこれが推理になるのかどうかははなはだ怪しいが・・・・
「アホか・・・」
 まるでそこに火村が居るかのように私はすでに置いた受話器を睨みつけた。
 そして・・・・。
「・・・・仕事しよ・・」
 赤くなる顔を持て余すようにして私はようやく“あともう少し”のそれに向かったのだった。

「・・・・・やっぱりこれなんやろうなぁ・・・」
“持ってくるべき物を持って”
 もう耳に何度も甦った言葉。
「間違うてたら洒落にならんしな」
 そう。いくら“恋人同士”というような間柄でも、いい年をした男が何でバレンタインデーに男にチョコレートを渡さなければならないのか。これでのこのこと持っていって「本気で持ってくるとは思わなかったぜ」等と言われたらちょっと立ち直れない。大体、これを買うのも本当に、本当に!!大変だったのだ。
 締め切り明けというのに奇跡的に午前中に目を覚ました私は、結局寝直すことも出来ずに、それならば梅田のデパートで目的のブツを手に入れて少し早いが火村の下宿に行こうとマンションを出た。
とにかく一刻も早く渡す物を渡してすっきりさせたかった。というか・・・それをいつまでも買わずにいるのも、持っているのもどちらにしても非常に精神衛生上良くないと思ったのだ。
 だがしかし、私はバレンタインデーを甘く見ていた。
 デパートの地下。バレンタインデー特設会場と銘打たれたそこは赤と白とピンクと金等々の華やかな色に溢れていた。
 そしてその色以上に溢れかえる人は、当たり前だが女性なのだ。
 【戦場】まさにその言葉が一番似合うかもしれないそこに自分は本当に向かわなければならないのか。
 一瞬明○の板チョコとか、不二○のハートチョコレートでもいいかという思いが胸の中を駆け抜けた。けれど一応これは贈り物で、しかも旅行をキャンセルしたという詫びの品物なのだ。多分、おそらく、きっと・・・そういうわけにはいかないだろう。
「・・・・・みんなこんな所を潜り抜けて贈ってきてるんか」
 作家という職業の副産物というか、有り難い事に結構その日に合わせてチョコレートを貰う事がある。
 もう少し認識を変えて戴こう。
 心の中でそう誓って、私は女性でごった返すフロアーに足を踏み入れて、そうしてようやくブツを手に入れたのだ。
 本当に涙なしでは語れない。
 綺麗にラッピングが施されたチョコレートはすでに冗談では済まされない域に入った代物だった。
「・・・・・ほんまに・・なんでこんなんが欲しいんかなぁ・・・」
 呟きながら微かに赤くなってしまった顔をブンと横に振って、私は見慣れた門をくぐった。
 当初の予定では下宿で待つつもりだったのだが、ついた時間は思っていたよりも早く、これを持ったまま下宿で待つよりも大学に行ってさっさと渡してしまった方がいいと思ったのだ。
「今なら研究室に居るやろ・・」
 勿論火村の講義の予定など判らなかったけれど、勝手知ったるなんとやらで私は迷うことなく廊下を進む。万が一講義で不在ならば部屋か、もしくは図書館ででも待っていればいいのだ。それくらいの時間ならば待っていられる気がする。
 見えてきた扉。かかった名前の札は不在のそれを表して裏返っていたが、ドアには鍵が締まっていなかった。これならば時間をおかずに戻ってくるつもりなのだろう。いつも人には鍵をかけろだのチェーンをしろだの言っているが自分だって同じようなことをしているではないか。
 開いたドアから部屋に入って、私は染みついたようなキャメルの香りに思わず苦笑を浮かべた。
 そしてーーーーーー・・。
「・・・・・・・・あれ・・?」
 相変わらず雑然とした机の向こう。主の居ない椅子に置かれた見慣れない紙袋に私は目を奪われた。否、正確にはそこから覗く紙包みに、だ。
 そう・・・・それはつい今し方見かけた物ではなかったか?
「・・・何や・・これ・・・・」
 ドクンドクンと鼓動が早まる。
 大きすぎる好奇心は身を滅ぼすしと言ったのは誰だったか。
「・・・・・・・・・・」
 近寄って覗き込んだそこにあったのは、無造作に放り込まれたチョコレートたちだった。
 包みだけで判る。間違う筈がない。つい先程まで私はそれらが溢れかえっているような場所にいたのだから。そして何より私が持っているものと同じ包みがそこにある。
「・・・俺から貰わんでも十分あるやないか」
 一つや二つではない数のバレンタインチョコレート。
 ポツリと零れ落ちた言葉が何だかふてくされた子供のように聞こえてクシャリと顔が歪む。
「・・・アホんだら」
 疲れがどっと押しよせてくる気がした。
 言っておくが私は修羅場明けなのだ。
 机の上に転がっているペン。それを取って散らばるメモを一枚拝借すると、サラサラと走り書きをする。
「・・・・・知るか・・・ボケ・・!」
 そうして次の瞬間クルリと踵を返して、私はバタンとドアを閉じた。

 いつの間に眠ってしまったのか、遠くで聞こえていた何かが、鳴り続けるインターフォンだと気付いて私は慌ててソファの上から飛び起きた。
 京都から帰ってきてコロリとソファに転がった時はまだ明るかった。
 けれど今はリビングの中も、窓の外も真っ暗で、自分がどれほど眠りこけていてのかも定かではない。キョロキョロとしている間も苛立つように鳴り続けるインターフォン。とにかく一番にする事は、あの音を止めにゆく事だ。もとい、 その前に電気を点けなければ・・・
「はいはい・・誰やほんまに・・」
 パッと明るくなった部屋に目を細めて私は玄関へと急ぐ。そうしてそのままいつもの癖で確認もしないままドアを開けて・・・
「!!!!」
 そこに見えた、不機嫌をあらわにした男に私は思わず開けたドアをそのまま閉じようとして見事に失敗をした。
「アリス」
 呼ばれた名前。
 同時にドアを引っ張られ、あろう事かその反動で私は目の前の仁王立ちの男にぶつかってしまった。
 ヒリヒリと痛む額。
「これき何だ?」
 差し出されたのは、不機嫌の固まりになっている彼、火村英生の研究室に私が置いてきたメモだった。
「えー・・・・っと・・・メモかな・・」
 ひくりと引きつる顔で言った途端、そのまま今度は玄関に押し込まれて今度はしたたか鼻を打つ。そうしてその次の瞬間、ガチャリと鍵の締まる音が聞こえてきた。
「・・・火村・・?」
「手間かけさせやがって。うちに来る筈じゃなかったのか?」
「・・・・・・せやって・・・」
「で?約束の物は?まさか本気でこう思っているんじゃねぇだろうな」
 びらびらと鼻先で振られた走り書きのメモ。

【詫びの品の選択を間違えた。歯痛止めの薬と歯磨きセットは後日送る。有栖川】

「・・・・・・・・」
「アリス」
「・・・・・・・・・・・・・いっばい貰ってたやろ」
 ああ・・これではチョコレートを持って行ったのだと白状している様なものではないか。
 けれど日けらはそれが当たり前だと言うように短く口を開いた。
「関係ない」
「あるわ、ボケ!!」
「へぇ・・焼き餅を焼いてくださるわけだ。有栖川先生は」
「・・・・・・・・」
 口惜しい・・・絶対に口惜しい・・・・
「早く出せよ」
「・・・・・・・・・」
「出さねぇなら約束の反故と見なして、ここでするぜ?」
「!!!!!」
「どうする?アリス?」
 ニヤニヤと笑う顔。
「・・・・・・取ってくるから放せ」
「いい子だな」
その言葉を聞きながら私は深い深い溜め息を落とした。

「味わって食えよ!味わって!!」
「うるせぇぞ」
「せやかてほんまに殺人的に混んでたんやからな!!」
「ふーん・・」
「買うのもめっちゃ恥ずかしかったし」
「そりゃ大変だったな、ご苦労さん」
 誠意が足りない。
 これぽっちもそう思っていない口調で箱の中のトリュフをつまみ上げた火村に私はむっとしたまま更に言葉を続けた。
「口惜しいから、一番並んでいる店で買うてきたんや」
 威張ったようにそう言った私に火村は一瞬だけ動きを止め、ついで溜め息をつく。どこまでも失礼な男だ。
「なぁ」
「ああ?」
「早く食べろ」
「・・・・・・・・」
「うまいか?なぁ、どうや??」
「・・・・・・・・・・・」
 無言のまま、パクリとそれを口に入れた火村に私は思わず身を乗り出すようにして口を開いた。
何しろこんなにこんなにこんなに大変な思いをして買ったのだ。これで不味ければ詐欺である。
「おい、火村、どうなんや!うまいのかまずいのか訊いとるんやから何とか言う・・」
 その瞬間伸びた手。
 えっ?と思う間もなく、肩を抱かれて重なった唇に時間が止まる。
「・・・・・・・・・・・・・っ・・・」
 そして・・・。
「甘いな」
「!!!この・・・アホ!!!」

 St..Valentine'sdayーーーーーーーーーーー

 菓子メーカーの商法と判っていてもチョコレートを手にしたくなる日。
 短い言葉を口にして、ニヤリと笑った男に、私は真っ赤になってしまった顔をフイと背けたのだった。