タダより高いものはない 2

「・・・何で・・・」
一体私が何をしたというのか。
そう思った瞬間、私は本気で泣き出したくなってしまった。
本当に朝は機嫌が良かったのだ。
久しぶりにかかってきた火村からの電話も、正直に言ってしまえばフィールドであろうがなかろうが嬉しかった。
口では是伝いに言えない自身があるけれど(そんな自身があっても仕方がないが)会いたかったのだ。
それなのに・・・・・
(痴漢に遭うて、尋問されて、昼間から、しかもこんな所で押し倒されて・・・絶対に厄日や!!!)
確かに奢ってやると気前よく言ってくれて人間に対して八つ当たりをしてしまったのは事実だけれど、この仕打ちはあまりと言えばあまりなのではないだろうか?
「・・・アリス」
探るような呼びかけに私はブンブンと子供のように首を横に振った。
それに「チッ」と焦れた様な舌打ちが聞こえて、火村は半分だけ捲っていたセーターを一気ら首から引き抜くとあろう事かまとめ上げていた私の手を拘束する道具へしてしまった。
「!火村!!」
はだけたシャツの間から滑り込んだ手が聞き耳を持たないという様に乱暴に肌の上を滑る。
何も言わずに重ねられた唇。
そして胸の突起に長い指が触れた。
「・・や・・っ・・嫌や・・!!」
「じゃあ、言えよ」
不機嫌極まりない様子でぶっきらぼうにそう言って、火村はもう一方の手を背中から腰へと辿り始めた。
そして・・・・
「!!!!」
その途端ピクリと震えた身体に火村の手もピタリと止まる。
「・・アリス?」
不審といくばくかの驚きに彩られた眼差しが私を見下ろす。
その視線が耐えきれずにフイと顔を背けると火村は又少しだけ腰から下に当てた手を動かした。
再び身体が微かに震えた。
そう・・・・私は触れられて甦った記憶に驚いて、そして自分が怒りだけではなくその事がショックだったのだと今更ながら気付いていた。
確かに腹が立ったのだ。何も言えなくて、殴ることも出来ずに腹立たしかった。
けれどその中で、私はその手に・・・・例え服の上からでも見も知らない男に触れられたのだという事にひどい嫌悪感とショックを感じていたのだ。
「・・・・・・こっちを向けよ、アリス」
ヒヤリとするような冷たさを含んだ声に、私は勿論顔を向ける事は出来なかった。
「・・・嫌や」
「何があった?」
「・・・・・・・・何も」
「じゃあ、言い換えよう。何をされた?」
「!!!!」
どうしてこの男はこの短い間にそれに気付いてしまうのだろう。
思わず絶句してしまった私をまるでフィールドワークの時のような眼差しが見つめてくる。
「・・何って・・・・何・・・」
その瞬間、火村はいきなり私の身体の上から退くと、そのまま胸ぐらを掴み上げてきた。
「!!火村!!!」
「言わねぇならこのまま突っ込むぞ」
「!!!!」
二度目の絶句。
低い地を這うようなその声に私は先程とは違う意味で身体を震わせた。
キレたこの男ならばやりかねない。
長年の付き合いでそれは容易に想像できる。
「・・・・・・・・・・・ち・・・」
「ちぃぃ!?」
きっと“ヤ”のつく自由業の人間でももう少し穏やかに話すだろう勢いで聞き返す助教授に、私は完全に白旗を掲げた。
「・・・痴漢に遭うたんや・・・」
「どこで?」
「電車・・」
「・・・・何で電車なんかで来たんだ」
「車検に出してて車ないねん」
「・・・・・」
帰ってきた答えが気に入らないとでも言うように火村は胸ぐらを掴んでいた手を乱暴に放すとそのまま黙り込んでしまった。
訪れた、ひどく気まずい・・・・・・・気まずい沈黙。
「・・・・・・・・火村?」
それに耐えきれずに名前を呼んだ私に、火村の視線が向けられた。
「・・・・・・・・せやから言いたくなかったんや・・・」
「立てよ」
「・・・・・へ?」
「聞こえなかったのか?立てよ、ほら」
いきなり飛んだ話題にねけれどこれ以上逆らう気も起きず、私は差し出されたその手に、未だセーターで拘束されたままの両手を差し出した。
一体これからどうなってしまうのか、不安がないわけではない。
「・・・・・・・・ったく・・とんでもない事に巻き込まれやがって・・・」
が、しかし、ボソボソと聞こえてきたその声は言葉よりも起こった様子ではなかった。
思わず胸の中でほぉっとついた息。
そして私はこんな事ならはじめから言ってしまえば良かったと思い始めていた。
言って、グチグチと大っぴらに(?)当たり散らしてしまえば良かった。
だが、しかし・・・・・・・・・・・
私は『火村英生』という人間を甘く見ていた。
セーターでグルグル巻きになっているそれを解いて貰えるのだと思った両手は、その瞬間勢いよく引っ張られて、私ははその次の瞬間にはガッシリと火村の腕の中に抱き込まれてしまったのだ。
「・・・・・火・・・村・・・・?」
ジワリと嫌な予感が背中を這い上がる。
「今度は大人しく、素直に言えよな、アリス」
「な・・・・・何をや?」
予感はもはや確信となって身体の中に広がってゆく。
「どこを触られた?」
「!!!!!」
「タイムリミットまであと20分だ。キリキリ言えよ」
「ななななな何で?」
何があったのか言ったら終わりではなかったのか。
そんな私の心の声が聞こえたかのように、火村は抱きしめた腕を緩めないままいけしゃあしゃあと口を開いた。
「生憎、恋人が痴漢に遭ったって聞いて平静でいられるほど人間ができていないんでね」
「!!!!!!!」
再び背中に回された手がゆっくりと下方へと動き始める。
背骨を辿って、腰・・・脇腹・・・そして・・・
「ほら、アリス、ここか?」
「!あほ!!触るな!!」
「うるせぇな。簡単な応急処置だと思って静かにしろ」
「・・・・・・・!?」
一体この男の頭の中はどうなっているのだろう?
そんな私の気持ちも知らずに(例え気付いていても無視して)火村は尻を殊更ゆっくりと撫でながら口を開いた。
「ここを触られたんだろう?」
「や・・・・・・・」
「後は?何をされたんだ?」
言いながらもう一方の手がスゥッと股間を滑る。
「・・・・・・っ・・・」
「アリス」
「それだけや!!」
「ケツを撫でられただけなのか?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
「この上から?本当に?こっちは?」
片手で尻を撫でながら、片手でスラックスの上から息づき始めたそこを行き来する手。
それは時折揉むように動いて私は顔から火を噴きそうになる。
一応私は被害者なのだ。
痴漢に遭った事を聞き出したのならばもう少し違う接し方があってもいいではないだろうか。
それがなぜ、再び痴漢めいた行為を、しかも一応恋人である筈の男から『応急処置』などと称してされなければならないのだろう。
あまりにも、あまりにも、理不尽すぎる!!
「あ・・当たり前やろ!それだけでも十分や!!」
「ふーん・・・・・・」
「もう・・・ええ加減にして早よ講義に行け!!」
切れ切れに、力を振り絞るようにして怒鳴った私に火村は又小さく瞳を眇めた。
「・・・・・まだ何かを隠しているな?」
「・・・・・・・・疑り深い男は嫌われるで!」
精一杯の嫌味を含んだはずの言葉は「ケッ」という短い答えで一蹴され、変わりに触れる指が又少し大胆なものになる。
「ほんまに・・触られてへん・・!・・やめ・・火村!」
けれど勿論火村が手を止める筈はないのだ。
それは判りたくもないが、長年の付き合いで否応なく判ってしまう。
「・・・火村ぁ・・・」
ジッパーを下げる音が部屋の中にひどく大きく響く。
熱くなっているそこに直接触れてくる指。
「あ・・あぁ・・!」
「・・・おい・・痴漢にそんな声を聞かせたんじゃないだろうな」
「あ・・あほ!!」
「それで?」
「・・主語と述語が・・・あ・・や・・」
「ここは?触らせたのか?」
「・・ふ・・触れさせるか!!」
「・・・・・・ほんまに・・・・後ろ・・撫でられて・・っ・・押しつけられただけや!」
本当に何と言う事を言わせるのだ、この男は!!
が、しかし、その答えにようやく満足したかのように火村は嬲るように触れていたそこからそっと手を放した。
瞬間、ほぉっと思わず漏れ落ちた息。
そしてその代わりとでも言うようにグッと押しつけられた熱に私は目眩を感じながら火村はどこまでも火村なのだと今更ながら思った。
「勿論、そんな顔も見せなかったんだろう?」
「・・あ・・たりまえや・・」
悔し紛れに返した答え。けれどそれは赤い顔のため全く迫力の欠けたもので、それが又口惜しい。
「いい子だな、アリス」
言うが早いか再び動き出した手がカチャカチャとベルトを外して、早業のようにバサリとスラックスを床の上に放り投げた。
もうどうにでもしてくれという思いと、奢ってやると言われて出てきたのだが、やはり『タダより高いものはない』のだという思いが胸の中で交差して・・・・。
抱え上げられた足に、ひどく他人事のような気持ちになりながら。
「アリス・・・」
「あ・・・・あ・・・あぁぁっ・・!」
私は訳の分からぬ、けれど妙にしっくりとくるその格言を胸の中で噛み締めていた・・・・・・・。

そうしてタイムリミット5分前。
火村はひどく機嫌のいい顔で「夕飯を楽しみにいい子に大人しく待っていろよ」と言い残して研究室のドアを閉じたのだった。



「やっぱり理不尽や・・・」
「何でだ?旨かっただろう?」
店を出た途端の私の一言に火村は僅かに眉を上げた。
気の利いた小料理屋のようなそこは、まだ出来て間もないのか綺麗な店内にパッと目を引く檜づくりのカウンターで素晴らしく、それに恥じぬような上品な味付けの和食も美味しかった。
そう・・・・・あんな事がなければ、きっと修羅場中の悲惨な食生活ですさんだ胃を火村が慮ってくれたのだろうと心から感謝をしたに違いない。
だが、しかし・・・・
「おい、いきなり味覚音痴にでもなったのか?」
・・・・・本当に、どこまでも口の悪い男だ。
「旨かったです。ごちそうさまでした」
「・・・・有り難みのない奴だな」
(誰のせいや!誰の!!)
言葉にならない私の声を聞いたかのように、火村は小さく方を竦めるとそのままゆっくりと歩き出して胸ポケットの中からキャメルを取り出した。
点けられた火。
フワリと昇った紫煙。
何も話さないまま、けれどついてくるのが当たり前だというように火村は歩く。
少し遅れてその背中を見つめながら、私はぼんやりと後ろを歩いた。
城っぽい街灯の明かりが照らす道。
ふと、少し道を入っただけで隠れ宿的な雰囲気を醸し出すこの町が何だか好きだと埒もないことを考えて私は小さな笑いを漏らした。
そうして、本当に今日は色々な事があったとしみじみと考えたその途端。
「おい」
「・・何や?」
「ニヤニヤしながらグズグズ歩いてんじゃねぇ。予定変更だ。お前のマンションに帰るぞ」
「へ・・・・・?」
聞こえてきた言葉にあっけにとられて私は本日3度目の絶句を強いられていた。
こっちに出てこいといったのは目の前のこの男なのだ。
確かに泊まるとは言っていなかったが、それでも食事をしてそのままとんぼ返りをするなどとは思っていなかった。
“何故?”と問い返す前に火村が再び口を開く。
「車がないから送っていくって言ってんだよ」
「・・・ああ・・・・でも・・・」
何も今すぐでなくてもいいではないか。
その言葉を又しても先取りして火村はニヤリと笑う。
「明日は午後一で講義なんだ。お前の起床時間に合わせたら送っていけない」
「・・・ああ・・そんなら・・・」
「電車で返して又痴漢にでも遭ったら困るからな」
「!!そない毎日遭うてたまるか!」
思わず赤い顔で怒鳴った私に助教授は「当たり前だ」と短く言い捨てて更に言葉を続けた。
「それに続きもしないといけないだろう?」
「続き?」
ニヤニヤと笑う顔に湧き上がる嫌な予感。
そう・・・・このテの予感は当たるのだ。
「言っただろう?“応急処置”だって」
「!!!!!!」
「しっかり食って体力もついた事だし、しっかり、丁寧に、嫌な事は忘れさせてやるよ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
(ほんまに厄日や・・・・)
どうやら私の長い一日はまだ終わりそうもないらしい。
「至れり尽くせりだろう?」
機嫌良くそう嘯く男に。
「・・・・・あほ・・」
と心を込めて返して。
「・・・ほんまに・・タダより高いもんわないな・・・」
「・・アリス?」
脳裏に甦った昼間の格言を溜め息混じりに呟いて、私は「行くぞ」と言って歩き出した火村に続いてゆっくりと足を踏み出したのだった。

エンド



うわーん如何でしたと聞くのも恐ろしい・・・。
は・・はははは・・・・
裏にしか入れられないよねぇ・・・やっぱりこれは。
一刻も早く本が売り切れてほしいと思った理由が判っていただけたかしら?
書いてる時はきっと私に火村が乗り移っていたんだ・・・・・
うう・・でも・・・それも嫌だわ。         
ちょっとでも楽しんでいただければ、幸せ。