台風が来たぞ!

「うわー!すごい!なぁ、なぁ見てみぃ、火村!すごいで!!」
 ベランダに続く窓に子供のようにペタリと張りついて大阪在住の推理小説作家、有栖川有栖は声を上げた。
「・・お前それしか言葉を知らないのか、小説家」
 それに呆れたようなうんざりした声を出して英都大学社会学部助教授の火村英生はガシガシといささか乱暴に濡れた髪をバスタオルで拭きながらバスルームからリビングに向かって歩いてくる。
「そんなん、すごいもんはすごいとしか言いようがないやろ?それともこの吹き降りについて情景を語れって言うんか?」
「勝手に語ってろ。・・・ったく・・煙草もおじゃんかよ」
 チッと低く舌打ちして火村はすっかり水に濡れてしまったキャメルのパッケージを忌々しげにテーブルの上に放り投げた。
 それを見て有栖がクスリと笑いを零す。
「禁煙しろって事やないか?先生」
「うるせぇぞ」
 唸るように声と睨みつけてくる瞳。それにヒョイと肩を竦めて有栖は再び窓の外に視線を戻した。
 相変わらず外はもの凄い雨と風で恐ろしいほどだ。 毎年この時期になるとポツポツとやってくる台風。それが今回は珍しく日本列島を直撃し見事に北上しているのだ。
 例によって例のごとく『モグラのような生活』をしていた有栖は呑気と言えば呑気この上ないが台風がここ大阪を直撃している事すら知らなかった。
 つい先程、濡れ鼠の火村がもの凄い勢いでインターフォンを鳴らして飛び込んでくるまで外の様子に全く気付かなかったのだ。
「はぁ・・何年ぶりやろなぁ、こんなすごいの」
「お前の事だからほとんどの台風を見逃しているんじゃねぇか?」
「うるさい。それより火村、ほらほら、窓が滝みたいになっとるで」
 どこか子供のように楽しげに振り返る有栖に火村は思わず溜め息を落とした。
 その滝のような雨に自分は今し方打たれてきたのだ。そんなものを見たい訳がないではないか。けれど長年の友人で、ついでに恋人でもあったりする有栖はどこまでもマイペースで火村のそんな気持ちが今ひとつ判らないでいる。
「・・なぁってば、火村!すごいやろ?」
「・・・・ああ、そうだな。窓掃除をしなくても埃が流れ落ちてよかったじゃねぇか」
「・・・・・・・・そういう事やないやろ」
「そう言う事だ。・・・ったく・・やってられるか。こっちは駅からここに来るまでで傘も飛ばされてグショグショだってぇのに、優雅に台風見物なんか出来るか、馬鹿」
 うんざりとした火村の言葉に有栖は思わず唇を尖らせた。
「だって俺、こんな日に外に出ぇへんし」
「お前はこんな日だろうがあんな日だろうが外に出る事の方が少ないだろう!俺だって台風が来るってぇのに出歩きたくなんかなかったんだよ!爺達はいつまでも喋りやがるし、やっと駅に着いたら電車はダイヤが滅茶苦茶だし、京都に帰るのを諦めてこっちに来れば傘は飛ばされるし、おまけにどこかの馬鹿は人の格好を見て台風に気付いて見物を始めるし、やってられるか!」
「・・・・そりゃご愁傷様」
 珍しく怒りも露わな助教授に、2度も『馬鹿』と呼ばれたのに関わらず反論を返す気にもなれなくて有栖は呟くようにして火村から視線を外した。
 ここまで来ては触らぬ神になんとやらである。
「・・・・えーっと・・コーヒーでも飲もうかな。君も飲むやろ?」
 さりげなく窓の所から離れて、有栖はキッチンに向かって横移動を始めた。どうもこれ以上台風見物をしているとロクな事がないように思えたのだ。
 そんな有栖の様子に火村はムッとしたままひしゃげたキャメルを手にして口を開く。
「コーヒーより煙草が先だ。前に俺が置いていった奴があるだろう?」
「えー・・・」
「まさか人の置いていった煙草を全部吸っていたりしないなぁ?」
 有栖は普段は煙草を吸わない。
 吸うのは本当に時々で、その為もらい煙草が多い。「・・・・いつのやったっけ?」
「この前」
「この前って?」
「・・・・・・・てめぇ・・吸いやがったな」
「いや!ちゃうねん!全部は吸ってない!けどあれって随分前やん。残りもそんなになかったし。大体もう湿気てるんとちゃう?」
「湿気てても濡れてるよりはマシだ。出せ」
「・・・・えーっと・・・」
「アリス」
 下に恐ろしきかは愛煙家の禁煙状態だ。
 ヒクリと引きつる顔で有栖は確か1.2本は残っていた筈と頭の中で思い起こしながらすり足のような足取りでキャビネットの方に向かって歩いていった。
 そうしてガタガタと引き出しを開けてラクダの箱を探し始める。
「えーっと・・・・確かこの辺に・・・・」
 メモだのはさみだの電池だの要らないものが溢れだすがこんな時に限って肝心なものは見つからない。
「・・・・・・・」
「待て、ほんまにあと1.2本はあった筈なんや」
 背中にかかる無言の圧力に振り返る事も出来ずに有栖は2段目の引き出しを開けた。その途端。
「・・・え・・!?」
 突然フッと消えた明かり。
 静まりかえった部屋の中にザァッ!!と吹き荒れる雨風の音が響く。
「・・停電・・?」
「ああ・・・そうらしいな」
 落ちた沈黙。
 嵐の音だけが聞こえる暗闇の中で有栖は再びヒクリと顔を引きつらせた。
 その途端。
「・・・おい」
「うわぁ!!急に近づくな!お・驚くやないか!!」
「あったのか?」
「・・・・・・・・ない。大体こんなんで探せるか。今晩くらい禁煙しとき」
 何だかひどく疲れてしまって有栖は溜め息を落とした。よく考えればこれだけひどい台風なのだ。おそらく被害も出ているだろう。それなのに今の今までその存在すら知らず、更に台風見物などをしていたバチでもあたったというのだろうか。
「・・・仕方ないな」
 暗闇の中で火村の苦い声が聞こえた。
「ああ、そうやなって・・火村!?」
 その瞬間、いきなり身体を抱え上げられて有栖は慌てて声を上げた。けれど勿論それに構うことなく、有栖の身体をガッシリと押さえつけて肩に担ぐようにしながら火村はズンズンと歩き出す。
「ちょ・・何・・えっ!?」
「騒ぐと落とすぞ。俺もすっかりものが見えている訳じゃなく勘で歩いている所もあるからな」
 だったら人を担いで歩くな!という言葉を言い返す事も出来ずに有栖は思わず自分を抱き上げている(というよりも担ぎ上げている)男の首にしがみついた。 これ以上を怒らせる事も暗闇の中で放り出される事も避けたい。
「・・・あの・・・火村?」
「・・・ったく・・煙草は見つからないし、コーヒーも飲めない。踏んだり蹴ったりだ。こうなったらやる事はこれしかないだろ?」
「・・・これって・・・?」
 恐る恐る尋ねた有栖に火村はピタリと足を止めた。
「お前に選ばせてやるよ。ベッドとソファとどっちがいい?」
「・・・・・は・・?」
「真っ暗闇で出来る事って言ったらそれ以外にないだろう?」
「!!!!!」 
 ようやく『それ』の意味に思い当たって有栖は今度こそ肩の上で暴れ出した。
「おい、落とすぞ!」
「落とさず下ろせ!!」
「うるせぇな。ああ、この床の上でやるって手もあるか」
「!!!!!」
 ザァッと激しく雨が唸る。
 煙草が吸えないのはちょっとは自分のせいかもしれないと有栖は思った。
 けれどコーヒーが飲めなかったのは煙草を優先させた火村のせいで、更に台風が来たのも、停電になったのも絶対に自分のせいではないと有栖は酸欠の金魚のようにパクパクと口を開いた。
 そうしてその様子がはっきりと見えているかのように火村はニヤリと笑って口を開く。
「なぁ、アリス知ってるか?」
「・・・・・」
「大きな停電のあった次の年は大抵ベビーブームになるんだぜ?人間考えることはみんな同じって訳だ」
「ふざけるな、アホ!!」
 暗闇だけれどきっと火村には自分の顔が真っ赤になっている事が判ってしまっているのだろうと有栖は最後の抵抗とばかりにジタバタと足を動かした。
「おい、蹴るな」
「下ろせ!」
「じゃあここか?」
「するか!」
「じゃあどうするんだ?ベッド?ソファ?」
「せぇへん!」
「却下」
 短くそう言い捨てて火村は再び歩き始める。
 暗い部屋に響く雨音。
 そして・・・。
「何だかお前の好きな密室みたいだな。雨に閉じこめられている」
「・・・・・・」
 寝室の扉の前でどこか楽しげに呟かれた火村の言葉に有栖はついに降参の白旗を揚げた。
ちょっとこの台詞は推理小説家のツボに入った。
「何が密室や。ほんまに・・・」
「やる気が出たか?」
 ニヤリと笑う顔が見えるようだと有栖は思った。
「・・・・・・・・アホ・・・米俵みたいに担がれてベッドに転がされるなんてまっぴらや。下ろして」
「・・・・・」
 トンと床に着いた足。
 そして・・・。
「明日、一緒にキャメル探してな」
「・・・・・その前に買いに行くさ。多分その頃には密室も解けてる」
 そう、台風はきっと朝になればどこかに行ってしまう。そうして台風一過と呼ばれる眩しい青空を連れてくるのだ。
「・・・・・せやな」
 重なる唇。
 開いたドア。
 部屋に入りながら「台風も悪くない」という先程とはうって変わった火村の台詞を聞きながら、有栖は少しだけ呆れたような小さな笑いを漏らしてパタンとドアを閉じた。

おしまい