「お疲れでご苦労な日々」

「文章に艶が出てきましたね」
 担当編集者の片桐がコーヒーカップを持ったまま笑った。
「恋人でもできました?」
 微かに顔が赤らむのを自覚しながら照れ笑いを浮かべる。さすがはプロ。推理作家の私の文章からそこまで読み取るとは侮りがたし。
「片桐さんは、その、恋人は?」
 芸のない話題の振り方にも担当者は律義に答えてくれる。
「片思いなんですよ。でももう失恋かな。恋人ができたらしいから」
「えっ、そうなん?」
 どうもそうみたいです、と少し寂しそうに笑った。
「初めからわかっていたんです。好きな人がいるらしいってことは。でも本人がまるで自覚していなくて。端から見てると一目瞭然なんですけどねぇ」
「なんかそれ、俺みたいな人やね」
「…え?」
 我が担当者殿は困ったような顔をして目を逸らせた。30を過ぎたオッサンと彼女を一緒にして悪かったと反省する。しかし、世の中にそういう人が他にもいると知って安心した。
 私だけがトロイのではないらしい。…自慢できる事ではないか。
「有栖川さんは両思いなんでしょう?」
「え、あ…うん。俺はそう思うてるんやけど…」
語尾に迷いが生じるのが情けなかった。

 両思い、なんだろうか。
 私達の場合、十年以上も親友をやってきて、しかもお互いの気持ちを確かめるより先に体の関係が出来てしまった。告白したのは火村が先で、私は自分の気持ちにすら気がつかなくて、自覚するまでに時間がかかった。今、火村も私もお互いを必要としている。それは確かだ。私は恋人として火村が好きだし、火村もたぶんそうだとは思うのだが、火村を信じてはいるが余計な事まで考えてしまう自分を押さえられない。作家というのはつくづく因果な商売だ。想像力だけは有り余るほどあるのだから。今回、その商売道具は暗い方へばかりと私を誘う。
 恋人という関係を認識してから、火村はよほどのことがない限り終末と火曜日の夜には私の元を訪れている。まだ慣れていない私にかなり気を遣ってくれる、というか、気を遣おうとしてくれている。それは解る。しかし、始まってしまえば火村の気遣いなど何程の物でもなく、本能だけが突っ走って何度も死ぬ思いをさせられた。助教授殿は疲れを知らないのかと思いたくなるほどだ。数日前に現れた時など、プレゼントだと言ってニヤニヤ笑いながら大きな紙袋を渡してよこした。中にはドーナツ型の座布団。局部に負担をかけずに座る為の必須アイテムのアレだ。
「なんやねん、これ」
「いや、執筆するのに辛かろうと思ってな」
 しばらく言葉を失った。喜ぶべきなのか怒るべきなのかわからなかったのだ。悪いと思うなら加減しろと言いたくなる。
「おまえを見てると欲情するんだよ」
「この変態の色欲魔人!」
「俺が変態だってのは有栖川有栖センセ、先刻御承知だろうが」
 そう、私ほど実感、痛感、体感している者はないだろう。しかし、だ。それなら今までこの男はどうしていたのだろう。私とこうなる前、この絶倫の精力はいったいどこでどう処理されていたのだ? そう考えると嫌な想像が頭の中を駆け巡る。火村が以前、誰とどこで何をしていようとそんなことは構わない。お互い大人の男なのだから何もない方がおかしい。私だって多少なりともいろいろあった。だからそれはお互い様だ。
 それはいいのだが、私を選んだ理由がそこにあるとしたら…。考えてみれば私ほど火村仕様の人間はいない。まず私は男だから、当然あの日は無い。子供も産まない。いつでもやりたい放題だ。しかも作家などというヤクザな商売で、時間の自由がきく。やりたい放題やって疲れ果てても、翌朝満員電車に揺られて出勤なんてことはない。締め切りさえはずせば一日中ベッドの上にいても誰にもモンクは言われない。おまけに自分の食い扶持くらいは自分で稼げる。結婚してくれとせがまれる事もない。
 どこからどこまで好都合ではないか。
「暗いな。あまりにも暗すぎる」
 我ながらマイナーな発想に気が滅入りそうになる。こんな事ではいけない。これではまるで、「私の身体だけが目当てだったのね」と食って掛かるヒステリー女のようだ。だいたい火村が激しすぎるのがいけない。なんだってああも元気なんだあの男は。それなりに満足するという事を知らんのか。それでなくても体力のない私は火村と交渉を持つ度に疲労困憊して最低でも一日はぐったりと寝て過ごすはめになり、思考がどんどん暗い方へと流れていくのだ。
 火村が私を求めるのは私を愛しているからであって、私の身体だけが目的なのではない。
 …ないと思う。だから、火村が激しいのは彼の愛情の深さであり、決して自己の快楽のみを求めているのではない。 そして私達は愛し合っている。恋人同士だ。お互いを自分の一部として認め合う為に男同士ではあるけれどセックスする。当然、どちらかが相手の雄を受け入れなければならない。ここまではいい。問題なのはそれが私の役目になっているということだ。二人で話し合ったわけでもなければ、私が望んだわけでもない。なのに私だけが一方的にヤられているのは理不尽ではないだろうか。初めの頃に比べると苦痛もずいぶんマシになってはいるし、それなりに快感も感じるようになってきてはいるが、いつも私が女役というのが納得できない。
「何を考え込んでるんだ、センセイ?」
 湯上がりのビールで喉を潤しながら私の前にやってきた助教授は、すでにやる気満々の様子で私の顔を覗き込む。こいつのこのスケベったらしい笑い顔を教え子達に見せてやりたい。横に座ると同時に腕を腰に回してくる。ビールの味のする唇が私のそれに重なる。火村のキスは嫌いじゃない。どれほど場数をふんでいるのかと文字通り舌を巻くほど絶妙で、それだけで頭がくらくらする。朦朧としかける意識を必死で繋ぎ止め、抱き寄せようとする火村の胸に両手をついて押しのけた。火村は眉をよせて私を見る。
「なんだよ、嫌なのか?」
「そうやないけど…。ちょっと提案があるんや」
「珍しく積極的だな。趣向を変えて楽しみたいってわけか」
 まさしくその通りだ。火村はにやにや笑っているが、この後の反応がコワイというか楽しみというか…。
「あんな…いっぺん、ヤらしてくれへん?」
 一瞬、火村の顔から表情が消えた。しばらくしてから大きく見開いた目で私を見つめ、それから口を開けて何か言おうとしたが言葉にならず、眉間に深い縦皺を寄せたかと思うと唇の端を思い切り捻じ曲げた。
「なんやねん、そんな意外なことか? 俺かて男やで?」
 今度は真剣な目で私を見つめ、深い溜め息を吐いた。
「そうだな。女にはこんなものついてないよな」
 するりと私の下肢の間を一撫でする。どんな状況でも火村は火村だ。
「交代でするっていうのもええと思わへんか? 今日は俺で明日が君」
 そうすれば私の消耗度も少しはマシになるはずだ。私の名案に火村は肩を竦めた。
「そんなにやりたいのか?」
 ちょっと迷った。やりたいというより、やられたくないという方が当たってるかも…。
「いいぜ」
「…え?」
「アリスのやりたいようにやってみな。但し…」
 火村はなぜか嬉しそうににやにや笑った。なんなんだ、いったい。
「初めてだから、優しくしてくれよな」
「……」
 なんとなく釈然としない。だが合意を得られたからには遠慮する事はない。実行あるのみ。
 火村も初めてかもしれないが、私だって初めての経験だ。いつもとは勝手が違い大いに戸惑う。とりあえず火村がいつも私にする同じ手順でいこう、と決心してみたものの…。私の下でにやにや笑っている火村が気になってしかたない。
「なんでそんなに笑うんや?」
「これは失礼。アリスがどんなふうに愛撫してくれるのかと楽しみでね」
「君、ちっとも可愛げないで」
「そうか? でも有栖川センセは可愛がってくれるんだろ?」
 憎らしいほどの余裕をみせて私をからかう火村だが、今に見ていろ。わたしだって伊達に30数年も男をやっているわけではない。火村の言葉は無視することにして、私は火村の上に重なった。こういう角度で火村を見るのは初めてだ。まずはキスから。これも初めての事だ。いつもは火村がキスをくれる。私からしたことはまだない。
「目、閉じろや」
「おまえの顔を見ていたいんだよ」
「しにくいやん」
「気にすんな」
 でも気になる。特にそのにやにや笑いが。しかしここで私だけが目を閉じるのもおもしろくない。お互いに相手の様子を探りながら、にらめっこのようなキスをした。
「結構うまいじゃないか」
 ムードのない奴。それともこれが、この性根のひねくれ曲がった男なりの照れ隠しなのだろうか。素直になれっちゅうねん。
「火村の胸、かたい」
「…あたりまえだ」
 火村は男だから、女性のような柔らかい胸があるはずがない。そんなことは承知しているはずだった。しかし、やはり違和感は否めない。
「うわ、おなかも。しまってる。すごいなぁ」
「初めて見たわけでもあるまいし。ヘンなことに感心するんじゃねぇよ」
 火村はそう言うが、実際この身体を鑑賞する余裕などカケラもないのが現実だ。余裕綽々の火村がますます憎らしくなってくる。
「アーリス、考え込んでないで、さっさと気持ちよくしてくれよ。待ちくたびれるぜ」
「それはじらすなということやな。俺に懇願してるんか?」
「ばか。退屈であくびが出そうなんだ」
 なんてこと言うんだ。この男は。あくびなんかしやがったらタダじゃおかない。一生許してやらんならな。
「ほら、早く、いつも俺がしてやるようにやってみな」
 実に楽しそうな火村の声が頭上で聞こえる。くそっ。後で泣き言いうなよ。もっと時間をかけてやろうと思ったが断念して、手っ取り早く気持ちよくなるポイントに手を滑らせる。
 初めて火村のモノに自分から触れた。…再びなんともいえない違和感が私を襲う。
「こら、アリス。ぼけっとしてないで続けろよ」
 火村の憎らしい声に我に帰る間もなく、今まで人形のように横たわっていた火村の腕が素早く私の頭を抱え込み、自らのそこに押し付けた。
「…っ!」
「遠慮はいらない。時間をかけて、じっくり可愛がってくれよな」
「ちょ、ちょう待てって…」
 私は暴れたが火村の腕から逃れる事ができない。違和感どころかパニック寸前だ。
 なんだかおかしい。勝手が違う。こんなはずではない。クエスチョンマークが頭の中を飛び交っていく。
「ほれ、口開けろ。俺の事、可愛がってくれるんだろ?」
「ひむっ…んあっ…!!!!!!」

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 ぐったりとベッドに沈み込んだ私の身体に火村が指を這わせている。
「なかなかいい趣向だったよな」
平然とそんなことをのたまうのだ、この男は!
「俺にやらせてくれるって言うたくせに!」
 肘枕のまま私を覗き込んだ瞳をいたずらっぽく光らせて、こめかみにキスをする。
 そんなことで許してやるもんか。口元のにやにや笑いがカンに触る。くそっ!
「しかたねぇだろ。おまえの息子が起たなかったんだから」
 それを言われると黙り込むしかない。どうしても火村に欲情できなかったのだ。そのくせ形勢逆転して火村に抱き込まれるとすぐ、あっけなくイカされてしまった。それも何度も。我ながら情けないったらありはしない。
「考え込むなって。おまえには向いてないんだよ」
「…俺かて男やのに」
 チッチと私の目の前で指を振る。助教授殿はいつになく上機嫌だ。
「おまえは基本的に理性の人なんだよ。やりたいってのも好奇心からだろ? 俺とは違う」
「ほんなら、おまえは、なんやねん」
「煩悩の男で変態性欲の権威」
 …自覚してやがる。
「俺はずっとおまえが欲しかった。欲しくて欲しくてたまらなかった。やっと手に入れる事が出来たんだ。おまえはそこまで思いつめちゃいないだろ
「けど俺、君の事好きやで!」
 その思いまで疑われては困る。そんな私の心をよんだのか、妙に優しい微笑みを浮かべた火村が額にキスをくれた。このキスは私を安心させるキス。
「俺に抱かれるのは嫌か?」
 静かに問い掛ける火村の声。心地よいバリトン。私を素直な気持ちにさせる必殺技。
「嫌やないけど。せやけど不安になるんや。自分も雄やって確認しとうなる。このままやったら俺、女と浮気するかも…」
「しないさ」
 断言されてしまった。
「できないだろ?」
「えらい自信たっぷりやな。根拠はなんや?」
 火村は唇の端を歪めた。優しい微笑は跡形もなく消え果る。
「俺が毎回、気力も体力も振り絞って有栖川センセに奉仕しているのはいったい何の為だと思っているんだ?」
「…へ?」
「まだ足りないってんなら…いいぜ。もう一回戦でも二回戦でもやろうじゃねぇか」
 …嘘だろう? 今の今、終わったばかりだというのに。
「やめっ、ひむらぁ! あかんって! もう、腰砕けてしもてんねんからぁ!!!」

 煩悩の人で変態性欲の権威である助教授は、人語を解さない獣と化して再び私に襲い掛かる。これでは明日もまたベッドの上で過ごすはめになるに違いない。しかも、恐ろしい事に変態助教授は連泊される御予定だ。私の困難な状況は何一つ変らない。なのに、なにかふっきれた気がするのはなぜだろう。また一つ火村に丸めこまれたことになるのだろうか。
 それでもいいか、という気になる自分がおかしくもあり愛しくもあった。

 人間、生きている限りお疲れでご苦労な日々の繰り返し。いつか火村の言った言葉が脳裏をよぎる。まさしく今の私にぴったりの名言だ。

おしまい


うぉぉぉ・・・たまささん。私は途中でマウスを持つ手が震えましたよ・・・
ぎぇぇぇぇぇ・・・・・このまままさか・・・・・・・とかとかとかとかとかとか・・・(笑)
でもやっぱり火村は火村で良かった良かった。アリス可愛くて幸せでした。でもやっぱり助教授って絶○のイメージありますよね。
ぷくくくく・・・・有り難うございました。