『百の溜め息 千の口づけ』
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 ザワザワとした喧噪に包まれた学食。
 グルリと見回したその空間の中に目当ての姿を見つけられず、火村はフゥと溜め息を付くと盛っていたトレイをテーブルの上に置いてガタンと椅子に腰を下ろした。
 そうしてそのまま、御飯・味噌汁・漬け物・サンマの塩焼きという『サンマ定食』に手も付けず、胸ポケットの中から取り出したキャメルに火をつける。
 立ち上る紫煙。
 それをゆっくりと目で追いながら脳裏に浮かんできた友人の顔に火村は眉間に微かな皺を寄せた。
“・・・・心配してくれたんか?”
 前を向いたままのその表情は見えなかったけれど、聞こえてきたその声には有栖らしくもない不安さとどこか暗い響きが含まれていた。
 けれど振り向いた顔はいつもと同じで、だから自分もいつもと同じように答えを返した。
 それから3日。
 有栖とはあの日以来会っていない。
 特に待ち合わせをしているわけでも約束をしているわけでもない。でも、それでも以前は会う事が出来た。
「・・・・・・・」
 もしかして避けられているのだろうかと考えてみたのだが、火村にはその理由が判らなかった。
 気付かない内に有栖の気に障るような事をしてしまったのだろうか。
 そう考える側から、それならばその時点で有栖は何かを言うだろうと思う。
 有栖川有栖という人間はそういう人間だ。
 火村は今までの付き合いの中でそう思っていた。
 それならば・・・・。
「・・・・・っ・・」 
 長くなった灰をトンとアルミ製の灰皿の上に落として火村はフゥと白い煙を吐き出した。
 3日前のその言葉もそうだが、火村は有栖の様子がおかしいと思っていた。
 どこがどうと言うのではない。
 強いて言うのならば怯えているような気がするのだ。
 勿論自分は有栖を怯えさせるような事をした覚えはない。大体確かに怯えている様な気がするのだが、火村に対して怯えている訳ではないように思える。
「・・・・・・」
 吸っていたキャメルを灰皿に押しつけて、火村はようやく箸を手にした。
 少しだけ冷めてしまった味噌汁を手に取り、グルリとそれを掻き回すとそのままそっと口に持っていく。
 思った通りまだ少し熱いがそれでも自分が飲めない温度ではないという位に冷めたそれを啜りながら火村は更に思考を追い駆ける。
 では有栖は何に対して怯えているのか。
「・・・・それが判からねぇんだよな・・・」
 記憶を辿ると有栖がおかしくなり始めたのは夏の始め・・・多分、前期の講義が終わる頃だったように思う。
 どこが、というのは判らなかったが、どこかおかしい、そんな気がしたのだ。
 そしてそれが確信に変わったのは3日前。
 あのほんのの一瞬の言葉でだった。
“・・・・心配してくれたんか?”
 火村の知っている有栖はこんな言葉をまるで置き去りにされる子供の様な声で言う人間ではなかった。
 夏休みの前も何だか様子がおかしかったが、その時は前期のレポートがどうとか言っているうちに休みに入ってしまい、そのまま後期まで会う事はなかったから判らなかった。
 そして後期を迎えてからもしばらくは会えなくて、本当に久しぶりにあった時に新学期早々お互いに忙しいなと多少の嫌味を込めて口にした途端また会えなくなった。
 おかしいと思いつつ下宿の部屋で発見した有栖のテキストを口実にわざわざ法学部の方まで行ったのが3日前。
 有栖は変わりなく元気で、そうしてやっぱりどこかおかしかった。
“・・・・心配してくれたんか?”
「・・・・・お前・・何を隠しているんだ?」
 ボソリと落ちた言葉。
 勝手に漏れ落ちた自分の言葉に自分で驚いて苦笑をすると火村はサンマに箸を突き立てる。
“サンマは旨いんやけど、はらわたが苦くて食えへんねん”
 そんな言葉を聞いたのは確か去年の今頃の事だったと思う。
“ばーか。それが旨いんだろ?大体それだけじゃなくて身の方と一緒に食うんだよ”
“苦いのと一緒に食ったら身の方も不味くなるやん”
“ガキ”
“あのなぁ!”
 馬鹿みたいなやりとりがどうしてと思えるほどはっきりと頭の中に甦る。
 あの時は何だか気がつくとそばに有栖の顔があった。
 出会ったのは去年の春。
 そうして去年の夏は休みだというのに押し掛けてきたあいつと何度か飲みに出掛けた。
 でも・・・・・。
「俺には言えない事なのか?」
 そんな三文の恋愛小説の様な言葉にもう一度苦い笑みを零して、火村は苦みのあるそれを口に放り込む。
広がる独特の味。
 そうしてもう一度学食の中を見回すと火村は今度こそ目の前の定食を食べ始めた。 


ほほほ・・・
サンマと火村。
いえ別に書きたかったのはそれではないんですよ、勿論。
何処まで続くかニャー・・・以下次号(苦笑)