『百の溜め息 千の口づけ』
−9−


 久しぶりに訪れた火村の下宿で有栖は「まぁ、こんな雨の中を」と大家である“婆ちゃん”から熱い御茶をご馳走になった。
 すっかり濡れてしまったジーパンは冷たくなっていて着替えを貸してやるからついでにシャワーでも浴びろと共同の風呂も貸してもらい暖かくなった身体に有栖はホッと息をつく。
 バス停から歩いただけだというのに結構濡れて冷えてしまった。もっともその前にも少し濡れていたからそのせいもあるのかもしれない。
 ビショビショに濡れてしまったスニーカーの中に大家に言われるままに新聞紙を丸めて詰めて、火村の部屋に戻るといつの間に作ったのだろう幾つかの料理がテーブルの上に並んでいた。
 「味噌汁と煮つけは婆ちゃんからのお裾分けだ」と言われて明日にでもお礼を言おうと思っているとカチリと音がして、馴染みの匂いが漂ってきた。
 先程の煙草とは違う、独特の香り。
 出会った頃には火村はキャメルを吸っていた。
 有栖も何本かはもらった事があるがあまり初心者には向かない煙草だと思う。
 一体いつから吸っているのだろう。
 埒もない事を考えた有栖の耳に火村の声が聞こえてきた。
「おい、食わないのか?」
「え?あ、食う」
 手早く作られた即席の焼き飯はひどく温かくて、美味しかった。しばらく黙ったまま御飯を掻き込んでいると火村が再び声を出す。
「・・良かったのか?」
「え?」
 何を言われているのか判らない。そんな表情を浮かべた有栖に火村は少しだけ考えるようにして眉を寄せると長くなった灰をトンと灰皿の上に落として小さく口を開いた。
「いや・・・この間の奴と一緒だったから。どこかに行くんじゃないかと思っていたらお前、こっちに来ちまったから」
 ユラユラと揺れる紫煙。
 いつもに比べて歯切れの悪いその言葉に有栖も又少しだけ考えるように眉を寄せてそっと口を開いた。
「・・・迷惑やったか?」
「馬鹿。誰もそんな事は言ってないだろう?大体迷惑だったら来るかなんて言わねぇよ」
「うん・・・ごめん・・」
 素直に謝罪の言葉を口にした有栖に火村は少しだけ驚いたように瞳を大きくして、次に小さく笑って「気味悪いな」と嘯いた。
 一服吸い終えて火村も食事を始めた。
 それを見つめながら有栖はふと先刻の沢渡の言葉を思い出した。
『言わなあかん事はやっぱりちゃんと言わなあかんな。・・・・自分の言葉でちゃんと自分の気持ちを言うたら良かったって何度も思うた』
 バスの中でも甦ったその言葉は相当深く自分の心の中に突き刺さっているらしいと有栖は思った。
 そうして、本当にそうだろうかとも思った。
 けれど思った側からそんな事が自分に出来るはずがないと有栖は持っていた箸を思わず握りしめてしまう。
 言ってしまって後悔するのは嫌なのだ。
 この瞳に嫌悪の色を浮かべられたらきっと自分は耐えきれない。
「アリス?」
 つらつらと考えながら自分の世界に入ってしまった有栖は火村の声に慌てて顔を上げて口を開いた。
「!あ・・こ・これうまいな」
 けれどあまりにも不自然なその様子に火村は思わず眉を寄せる。
「お前、本当におかしいぞ」
「・・・ひどいな、人の事アホみたいに言うて」
「誤魔化すなよ」
「・・別に誤魔化しとらんよ」
「・・・言い辛い事なのか?」
「・・・別に何もないって言うとるやろ?」
「アリス」
「ほんまに・・・ほんま何もない」
 訪れた沈黙。
 そう。それだけはどうしても言えない事なのだと見つめてくる視線から瞳を外して有栖はこれ以上食事を続ける気になれずにカタンと箸を置いてしまった。
 するとそれをきっかけにしたかのように火村はもう一度口を開いた。
「じゃあ・・・今日会ってた奴になら話せるのか?」
「え?」
 どういう意味なのか。
 言われたことが理解できずにいる有栖に火村はどこか暗い笑みを浮かべて言葉を続けた。
「相談にのってやったんだろう?それでお前も代わりに相談に乗って貰ったのか?」
「・・別に俺は・・今日はそいつの話を聞いただけや」
「今日はね」
「!何が言いたいねん!」
 一つ一つまるで重箱の隅をつつくような火村の物言いに有栖は思わずカッとなって声を荒げた。けれど火村はそれに動じる事なく更に言葉を繋ぐ。
「年がら年中ぼんやりとして、たまに何か言いたげな視線を向けてきてそれで何もないはないだろう?言いたい事があるならはっきり言え」
「・・・・・」
 冷たい視線を向けられて有栖は小さく唇を噛んだ。
 けれどそれ以上に堪えたのはそんな視線を自分が何か火村に対して向けていたという事実だった。これでは隠すどころの騒ぎではない。
『隠してる事ほど、バレてまうもんなんかな』
 愕然としてしまった有栖の耳に沢渡の声が聞こえた。
 先程の沢渡の声がまたしても有栖の中に甦る。
 そうしてクシャリと泣き出しそうに歪んでしまった顔を有栖は慌てて俯かせる。
「言えよ、アリス」
「・・・嫌や・・」
「アリス」
「嫌や、言われへん!」
「俺に言えないような事なのか?」
それはある意味とても傲慢な台詞だった。
 けれど言った火村も言われた有栖もその言葉の持つ意味に気付かなかった。
 そして。
「アリス!」
「嫌や!絶対に言わん!」
「でも本当は言っちまいたいんだろう?違うか?安心しろよ。俺は口が堅いぜ?」
「!!君やから言えへんねん!!」
「・・・っ・!」
「・・ぁ・・」
 言ってしまった言葉に有栖が小さな悲鳴のような声を上げた。瞬時に青くなる顔色。
 その反対に言われた火村本人はその様子を恐ろしく無表情な顔をして眺め、やがてひどく自嘲的に顔を歪めた。
「そうか」
「ちが・・・」
「判った。悪かったな。色々としつこく訊いて」
「ちがう・・ちがうんや・・」
 ガタガタと身体が震え出すのを有栖は止める事が出来なかった。
 何かもっとまともな事を言いたくて、けれど何をどう言ったら良いのか判らなくて頭の中が白くなってゆく。
「何が?俺には、俺だけには言えない事なんだろう?無理して言わなくてもいいぜ?今日相談に乗った奴にでも聞いてもらえばいい。まぁ、それも余計なお世話だろうけどな」
「・・・・・・」
「食事は済んだのか?片付けはしなくていいから」
 暗にさっさと帰れと言われて有栖は本気で泣き出したくなってしまった。
 他人からどころではない。自分の不用意な一言から隠すとか隠さないとかそれ以前の状態になってしまった。
 冷たい横顔。向けられない瞳。
 多分もう二度と火村が自分に視線を向けてくる事はないだろう。ましてや火村が有栖の名前を呼ぶ事も、有栖がここにこうしてやって来る事も無くなってしまうに違いない。
 気付いて、隠して、隠しながらも迷って、そうして結局自分は火村を失ってしまうのだ。
 大切にしたいと願ってきた事を一瞬にして失ってしまう。こんな風に最悪な形で、怒らせて、切り離されてしまう。
「・・・いやや・・」
「・・・・・」
「も・・どないしたらええのか・・判れへん・・」
 ポロリと一つ落ちた涙は、すぐに次から次へと溢れ出した。
「・・・俺・・」
 もとよりこの男に隠し事をしようとしたこと自体が間違っていたのだと有栖は溢れ出した涙を止めようともせずに泣き続けた。
「・・・何で泣くんだ?」
「・・だって・・」
「俺を切り離したのはお前の方だろう?」
「・・・・そんなん・・」
 出来る筈がないではないか。
「アリス」
 呼ばれた名前に涙でグショグショになっている顔を上げると、瞳の中にらしくなく切ないような表情を浮かべた火村が映った。
「・・俺はそんなに頼りない人間か?」
「・・・・・ひ・むら・?」
「俺はお前にとってそんなに」
「ちゃう。ちゃうんや。ほんまに俺・・言うたら君に嫌われるって」
 火村の言葉を遮るように有栖は思わず口を開いていた。
「嫌う?」
 問い返される言葉。
 その瞬間もう駄目だと言う気持ちと、せめて告げて終わりにしたいという気持ちが押しよせてきて、有栖は初めて沢渡の気持ちが判ったような気がした。
 言っても言わなくても同じように終わってしまうのならば、気持ちが悪いと思われても、理解されなくても、火村の事をどうでもいいと思っていたわけではなくその反対だったのだとそれだけは伝えておきたい。
 多分有栖の気持ちを受け取る事は出来なくても火村はそれをむやみに吹聴する人間ではない。
 それは判っているつもりだから。
 たとえそれが有栖のエゴだとしても。
「嫌うって・・」
 訝しげな顔に有栖は零れる涙を手で拭くと、その次の瞬間、必死に泣き笑いのような表情を浮かべて口を開いた。
「君が好きや」
「!」
「友達とか、そういうんやなくて好きや。せやから君にだけは言えんかった。どうしても・・言えなかったんや」 止めた筈の涙が再びポロリと頬を伝って流れ落ちた。
 言ってしまった。
 いっそさっぱりとした気持ちの方が大きかった。
 口では隠すと言いながら沢渡と同じようにどこかで言う機会を探していたのかもしれない。だから火村にもそれが伝わってしまったのだと有栖はそう思いながら言葉を繋いだ。
「・・気持ち悪い思いをさせてごめん。俺・・言うつもりなかったんやけど・・けどな・・本当は隠しておける自信もなかったんや。ごめん・・ごめんな・・」
 ポロポロと再び涙が溢れ出した。
 どうやら本格的に涙腺が壊れてしまったらしい。
 俯いたままゆっくりと立ち上がった有栖に火村はようやく声を出した。
「アリス!?」
「・・・服・・借りてくな。きちんと洗濯して・・・ここに送る。それでええかな?」
「アリス」
「ほんまにこんな思いさせるつもりはなかったんや。それだけは信じてくれ」
 言いながら上着を拾って、バッグを持って、有栖はドアに急いだ。とにかく一刻も早くここを出よう。
 これ以上の醜態を晒さない。それが今の有栖に出来る唯一の事だった。だから、早く・・。
「聞こえないのか!アリス!」
「!・・もう!もう近づかないから!君に気持ちの悪い思いはさせないから!せやから許してくれ!」
 ドアを出る寸前で腕を取られて、有栖は火村の顔も見ずにそう叫ぶように口にしていた。
「許すって何を許すんだ?」
「・・火村・・」
「お前は何にも判ってない」
 それは低く唸るような苛立たしげな声だった。
 そしてその次の瞬間、有栖はもの凄い勢いで火村の腕の中に抱き寄せられていた。
「火村!」
「勝手に終わらせてるんじゃねぇよ・・」
 耳元で聞こえる声は起こっているようにも、何かを耐えているようにも聞こえた。
 ドクンドクンと早まる鼓動。
「・・離して・・くれ」
「離さない。離したらお前、逃げるだろう?」
「・・・逃げるって・・」
「言い逃げするなんていい度胸だ。言うだけ言って答えは聞いていかないつもりだったのか?」
 その言葉に有栖は目の前が真っ暗になるような気がしてしまった。
 好きだと言うだけ精一杯の自分に目の前の男は一体何を告げるというのか。
 今まで何度か有栖が目にした光景のように冷たい口調で「そんな風には考えられない」とご丁寧に言うのだろうか。それとも先日沢渡が聞いたように「誰とも付き合うつもりはない」と有栖にも告げるつもりなのだろうか。
「・・聞きとうない・・」
「アリス?」
「もういいから。もう言われんでも判ってるから。だから・・」
 これ以上惨めな気持ちにさせないで欲しい。
 そんな有栖の声にならない言葉が聞こえたかのように
火村は有栖を抱き締めたままフワリと笑って「馬鹿」と呟いた。
「何が判ってるんだ?言っただろう?お前は何にも判ってない」
「・・火村?」
「俺がどうしてお前がおかしいとすぐに気がついたのか判ってないだろう?」
「・・・・・・・」
「去年とうって変わって夏休み中も来やがらないし、後期に入ってもほとんど顔を見せないお前に、わざわざ用もない法学部まで足を運んだわけも判ってない」
「・・何言うて・・」
「それから、お前の隣に他の奴が座っていたのにむかついた事も、俺との約束よりもそいつとの用事を優先させたお前を責めたくなった事も、何にも判っていないだろう?」
「・・・・・・」
「ああ、それから図書館に居た時お前が声もかけずに行っちまったのにどれだけ俺がショックを受けたか。勿論それも判かってない」
「・・・・・気付いてたんか?」
「声をかける暇もなかった」
 そう言うと火村はようやく抱き締めていた腕を緩めた。そうして少しだけ身体を離して、有栖の顔を正面から見つめる。
「好きだ」
「・・・!!」
「お前が好きだ。アリス。これも判ってなかったよな?」
「!うそ・・や」
 それはどう考えても都合の良すぎる夢のような話だと有栖は思った。つい先程まで切られるとか、終わるとか考えていたのだ。それがどうしてこうなっているのか理解できないというか頭がついてこない。
 いっそ全てが夢だったと言う方がまだ納得出来る。
 けれど、でも・・・。
「嘘を言ってどうするよ。大人しく知らなかったって言えよ。そうしたらちゃんと教えてやる。どれだけお前が好きなのかお前が判るまで言ってやる」
「・・・」
 フワリと笑った顔が又しても涙で歪んで揺れた。
「好きだ、アリス」
 耳元で告げられた声はひどく甘くて、優しい。
「好きだ」
 繰り返される甘い言葉。
「・・・俺も・・」
 声が震える。
 こんなに短い言葉なのにと思いながらも感情ばかりが先行していつにも増して回らない口に、有栖は一つ息を吸って、吐いた。そして。
「・・俺も好きや・・」
 その瞬間、抱き締めている火村の腕に力が込められた。
「アリス・・アリス・・」
 耳元で繰り返される自分の名前に有栖はもう一度、今度ははっきりとその言葉を紡ぐ。
「好きや・・火村・・」
 涙が頬を伝って流れ落ちる。
 壊れてしまったと思った涙腺はやっぱりかなり緩くなってしまっていると有栖は思った。そして・・。
 『自分の言葉でちゃんと自分の気持ちを言うたら良かったって何度も思うた』
 ふと耳の奥に聞こえた沢渡の言葉。
 彼も又きちんと自分の気持ちが言えるといいと有栖は思った。うまく行ってほしいと願った。
「アリス・・」
「好きや・・好き・・火村」
 同じ言葉を繰り返しながら有栖は怖ず怖ずと火村の背中に手を回した。
 それに気付いて火村は抱き締めていた腕を少しだけ緩めて赤くなっている有栖の顔を覗き込んだ。
「好きだ・・」
「ひ・・」
 途切れた声。
 微かに触れた唇に驚いて瞳を見開くともう一度同じように口づけられる。
「・・・なに・・」
「好きだってお前が判るまで教えてやるって言っただろう?」
「ちょっ・・それ・・ん・・」
 いささか強引に奪われた三度目の口づけは、今までの触れるだけのものとは違う深いものに変わり、離れた瞬間有栖の口から吐息のようなものが零れ落ちた。
 それをどこか茫然としたような気持ちで聞きながら有栖はふと、この思いを隠そうとしていた時に幾つも、幾つも数え切れない程溜め息を付いたことを思い出した。
 本当にあの時はこんな日が来るとは思ってもみなかった。というよりも今でも半分信じられないと有栖は思う。
「どうした?」
 覗き込んでくる黒い瞳。
「何でもない」
 そう答えると「また隠し事か?」と火村は再び有栖を抱き締める手に力を込めた。
「アホ、苦しいって・・」
「お前が俺に隠し事をするからだろう?」
「してへんよ!」
「・・・・・・」
「ほんまに、もうしてへん」
 見つめ合う間の僅かな沈黙。
「・・好きだって判ったのか?」
「うん。俺も好き。火村が好きや」
 囁くように言いながら瞳を閉じて・・。
「アリス」
「・・好きやで・・」
 数え切れないほど溜め息をついた。
 けれどこれからはその数を超えるほど好きだと火村に伝えてゆきたいと有栖は頬に、目元に、唇に、戯れるように落ちる口づけをクスクスと微笑って受けながら思っていた。
 だけど、もしかしたら・・・。
「・・・ん・・・」
 それよりも先に口づけの方がそれを越えてしまうかもしれない。
 そんな事を考えながら有栖は背中に回したままの手で、実った恋ごとなりたての恋人を抱き締めた。

エンド


はーい、お疲れさまでしたm(__)m
長くなりましたぁぁぁ・・・・。告白してハッピーエンドというリクだったのでこの話はこれで終わりですー。
なんて言うか・・・やっぱり二人とも若いよね。
ご感想など戴けたら嬉しいです。