単純な恋9

「・・・・身体が動かれへん・・」
 ポツリと漏れ落ちた有栖の言葉に「そりゃ悪かったな」と少しもそう思っていない様な口振りでそう言うと、火村は枕に顔を埋める有栖の髪をクシャリと掻き回してベッドを下りた。
 途端に伝わった振動に身体が痛んで小さく落ちた声。
「アリス?」
「・・・何でもない。平気や」
「・・・・・シャワーでも浴びるか?」
「とりあえずは拭いたけどな」と続けられた言葉に有栖は顔を赤く染めた。
 そう。どうやら気を失っている間に火村が身体を清めてくれたらしく、気が付いた時はタンスにしまっておいた筈のパジャマを着ていたと言う事実が有栖の羞恥心を煽った。
「・・・いい。とてもそんな事出来そうもない」
「入れてやろうか?」
「・・・遠慮しとくわ」
「そりゃ残念」
 どこまでが本気なのか、火村はさっさと洋服に着替えると寝室を出て行ってしまった。
 そうしておそらくキッチンにある冷蔵庫を覗きながら「なんだこれは!何も入っていないじゃねぇか」と怒鳴っているのだろうその声を聞いて有栖は慎重に身体を動かして息をつく。
 何だかんだと、結局怒濤のハッピーエンド。
 多分、おそらく、夕べのあれは相馬が仕掛けた事だったのだろうと有栖は今更の様に思った。
 どこで、どう分かったのか、相馬は火村の気持ちに気付いて、有栖にキスをしていったのだ。火村の目の前で。
「・・・・・何で俺には分かれへんかったんやろ」
 どこか不貞腐れたように呟いて、有栖はゴロンと寝返りを打った。
 途端に痛む身体。
「・・・・今度会った時は奢らなあかんな・・」
 そして、相馬が言ったように【朗報】とやらを報告しなければならないのだろう。
「・・・かなわんなぁ・・ほんま・・」
 ベッドの上の有栖の言葉は勿論、相馬には聞こえる筈もなかった。
 一方火村は火村で、貧相極まりない食材と格闘しながら小さな舌打ちをしていた。
 思い出すのは夕べの男。
 多分、おそらく、あの男は、一瞬にして火村の気持ちに気付いて有栖に口づけて行ったのだ。
 火村を挑発する為に。
「・・・・俺も・・ヤキが回ったよな・・」
 初対面の人間に簡単に気持ちを見抜かれて、みすみすそれにのって有栖を手に入れた。
 勿論それはそれで幸せなのだが、他人の思惑通りというのが面白くない。
「・・・・そういや、まだ答えを聞いてなかったな」
 仲間だと有栖は言っていたが、何がどうしてどうなっていたのかはさっぱり分からない。
 笛吹ケトルのけたたましい声に火を止めて沸き立ての湯をポットに移すと、冷凍されていた食パンをトースターに入れて、火村は寝室に向かった。
「おい、トーストが焼けるぜ。食うだろう?」
「・・ああ・・」
 ひょいとドアから顔を覗かせると小さく応えて有栖の身体が動く。
 途端に僅かに歪められた顔。
 罪悪感にも似た思いが胸の中をよぎってベッドから起きあがる有栖に手を貸しながら火村はそっと口を開いた。
「なぁ」
「うん?」
「それで結局あいつは誰なんだ?」
「・・・・・」
 有栖の顔が渋いものになるのも構わず火村は更に言葉を続けた。
「仲間だって言ってたけど、それじゃよく分からねぇだろ?」
「・・・・何でそないな事知りたんんや」
「お前の事だから」
 シレッとそう口にすると「アホ」と言いながら有栖の顔が真っ赤に染まった。
「・・・・・・2年くらい前にバーで知り合うたんや。話をしているうちに・・その・・お互いに・・す・好きな男がいることが分かって。・・せやから、仲間。もうええやろ」
 次第に早口になる有栖に火村は「ふーん」と言って有栖の身体を支えるようにして歩き出した。
「・・じ・・自分で歩けるから大丈夫や」
「・・・・・あいつには夕べこうされていたよなぁ」
「あ・・あのなぁ・・そ・そう言えば、君の話はなんやったんや。電話をかけてきたってことは何か話があったんやろ?」
 リビングを歩きながらのはぐらかす様な有栖の言葉に火村はむっとしながらもその用件を口にした。
「ああ、ジョージからいい店を見つけたから一緒にどうだと誘われたんだ。それより、アリス。お前昨日大学の方に来たのに何で寄らずに帰ったんだ?」
 途端に有栖の表情が硬いものになる。
「アリス?」
「・・忘れとった・・君、見合いが・・」
「ああ?」
「女と居たやろ。せやから・・・俺は・・」
小さくなる声に火村は昨日の記憶を拾い集めた。
見合いはともかく、女と居たというのは全く覚えがない。
「・・・・見合いの話はあった。でも断ったのは随分前の事だ。それに女ってぇのは・・」 「嘘や。車に乗せてたやろ」
「・・・・・・・」
 有栖の言葉に火村はもう一度記憶を辿る。
 そして・・・。
「・・・・あれは、弁護士だ」
「・・へ・・?」
「フィールドワークの事で弁護士の先生がわざわざこっちに来やがったんだ。それで、答えられる範囲で答えて後は警察に聞いてくれと駅まで送っていった。悪いけどお前が思うような色っぽい事は何もないぜ。あの後帰りに渋滞に巻き込まれてうんざりした」
「・・・・・なんだ・・」
 分かってみれば何の事ははない。
 そんな有栖に火村はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。そして。
「焼き餅を焼いてくださったわけだ」
「・・う・・」
「そう言うことなら早く言ってくれればいくらでも弁解をしたのにな」
「・・・・・」
「それで誰かさんは怒って、電話を切って、あげくに飲んだくれて、キスされたってわけか・・。そうしてその間俺はイライラと煙草も吸えずに待っていた」
「あ・・あのなぁ!俺かてキスされたんやで!」
「自業自得だ。ジョージとの食事の費用はお前持ちだな」
「何でそうなるんや!?」
 チン!と間の抜けた音を立ててオーブンがトーストの焼き上がりを伝えた。
 思わず見合わせた瞳。
 ひどくありふれた、けれど幸せな朝。
「・・分かった。それはそれでええよ。弁護士の事も信じた。だから、俺も信じて欲しい。相馬さんとは・・・別に・・その・・キスはされたけど・・えっと・・」
 赤い顔でしどろもどろになる有栖に火村はニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。そして。
「お前が“初めて”だったのは夕べしっかり教えて貰ったさ」
「火村!」
「それからもう一つ。野郎とキスしたのはあいつが初めてだと思っているんだろう?」
 なんて事を朝っぱらから言い出すのだろう。
 けれど赤い顔のままで小さく頷いた有栖に、火村は再びニヤリと笑った。
「安心しろよ。お前の初めては全部俺だ」
「・・・・?」
「学生時代にあんまり無防備で腹が立ったから戴いた」
「・・・・ひ・火村・?」
「勿論、舌は入れなかったぜ」
「・・・・こ・・この・・アホんだらー!!!変態!!思い出したで、大体自分奢るって電話で言うてたやろ!会食の費用は全部君持ちやからな!!!」
 真っ赤な顔で有栖が怒鳴る。
 それに吹き出すように笑い出して、火村は「分かったよ」とひどくひどく幸せな顔で親友から昇格したばかりの恋人を抱き寄せたのだった。


「・・・・いい天気やなぁ」
 青い空に映える眩しい青葉。
 布団を干して、そのままベランダの柵に肘をのせたまま有栖はぼんやりと空を見上げた。
 結局あの後、多忙な助教授は3日間も有栖のマンションから大学に通うと言うスケジュールをこなしていった。
 勿論それは火村自身のせいでもある。
 有栖がまともに動けなかったのだ。
 何故か、というのは言わずもがなである。
 ともかく、口にするのも恥ずかしい短い蜜月の中で、火村はジョージとの会食の予定を決め、ついでに今度あいつと会う時は絶対に自分を連れて行けと有栖に約束をさせた。
 これでは本当に、相馬の言った通りに“紹介”と言うことになってしまいそうだと、有栖は思わず赤くなった顔を干してある布団に押しつけた。
「・・・・ったく・・何を考えとるんや、あいつは」
 零れ落ちた声は自分でも嫌になるほど甘い。
 火照る頬を冷まそうとそっと顔を上げると微かな風が有栖の頬を撫でた。
 あの春まだ浅い夜の風とは違う暖かな優しい風。
 あの時はこんな時が来るとは思ってもみなかった。
 こんな風に、自分の気持ちを告げる日が来て、受け止められる日が来るなんて信じられなかった。
「・・・・単純な恋か・・」
 相馬が口にしたその言葉を有栖は口に乗せてみた。
 好きな相手に、好きだと言える恋。
 想いを告げなければ恋は始まらないのだ。
 だから・・・。
「相馬さんの恋人が早く見つかるとええなぁ」
 そして、相馬も、まだ見たことのないその男もお互いに好きだと言えたらいい。
「・・・さてと・・仕事でもするか」
 エッセイの締め切りが近づいている。
 終わらせなければ、恋人になった男は何を言い出すか分からない。
 何しろジョージとの食事の予定が締め切りの翌日なのだ。
「ほんまに・・片桐さんよりもずーっと厳しいわ・・」
 クスリと笑って、クルリと踵を返して・・。
 そうして有栖はワープロに向かうべくベランダの窓を開けて・・・閉めた。


終わりましたー。えっと、この話は好きだと言って下さる方がとても多くて。特にオリキャラの相馬さん。彼のファンの方は結構いるようです。単純な恋。皆様にとってはどんな物でございましょう?