二人でお茶を・・・

 受話機をあてた耳の奥に響く呼び出し音。
 留守電に切り替わっていないのはこの家の住人が“ちょっと近くに買物に出た”か、バタバタとして忘れたかのどちらかである。
 時計の針はまだ昼前。という事は前者の確率はかなり低い。
 大抵留守電のままにしてあるのに“彼”は時々思い出した様にスイッチを押してその機能を解除する。
 そしてそのまま忘れるのだ。
「・・・ったく・・あの馬鹿!」
 イライラとした気持ちそのままに眉間に皴を寄せ、半ば自棄の様に電話を切って、英都大学社会学部助教授の火村英生は手にしたコードレスの受話機を散乱した机の上にポンと放り投げた。
“もう少しで上がりそうなんやけど、その『もう少し』がよういかんねん ”
 それが“彼”大阪在住の推理小説作家、有栖川有栖の五日程前の言葉だった。
“そんなのはいつもの事だろ?”
 と受話機越しにからかった自分に、長年の友人は“君はいつも一言多いんや!”と怒鳴っていた。
 このところお互いの仕事が忙しくて、まともに会えずにいた。
 だから今朝、下宿先の大家である“婆ちゃん”が炊き込み御飯を作ると聞いて−−−−あれから5日もたったのだ。『もう少し』の『もう』位は進んだだろう−−− それが好物の友人を呼んでやろうと思ったのにこのザマだ。
 取り出した煙草を口に銜え、カチリと火をつける。
 フワリと昇る白い煙。

“クリスマス位には上がってたいんやけどな”
“ほぉー・・クリスマスねぇ。誰かと予定がお有りですか?先生” 
“・・嫌な奴やなー・・君かて人の事言えるんか!?”
“生憎、仕事でね” 
“クリスマスまで働くんか!?因果な商売やなぁ” 
“お前だけには言われたくない台詞だな” 
“ちょっと待て!どういう意味や、それは” 
“さぁな・・” 
“火村!” 

「・・・ったく・・」
 漏れ落ちた溜め息。
 気を取り直して再び電話を取るとすでに覚えてしまった携帯電話のナンバーを押す。
「これで出なかったらもう知らねぇからな」
 言いながら再び耳の奥に流れてきた呼び出し音。
 けれど・・・
『・・電源が切られているか、電波の届かない所に・』
「!!・・あの馬鹿!」
 再び投げ出された電話に机の上からバサバサと何冊かの資料が落ちる。
 窓の外はすっかり葉の落ちた寒そうな木々。
 冬休みに突入したキャンパスは通る人影もまばらでそれが又何故かイライラしてしまう。
「・・やってらんねぇよ・・」
 締め切りを抱えたまま取材旅行に行く筈はない。
 何よりそんな話は聞いていない。
 行く時は必ず連絡がくるのが常だった。
 だからたまたま“今”いないだけの事なのだ。
 けれどそれがたまらなく嫌だと思う自分が居る。
 自分の知らない有栖の時間がある。その当然の事を当然と思えない自分が居る。
「・・・・・・ったく・・あの馬鹿・・」
 繰り返された言葉は少しだけ自嘲の色を泌ませていた。
 多分・・“馬鹿 は自分の方だ。
 この感情はあまりにも子供じみている。
「・・・・・っクソ・・!」
 そうして次の瞬間、教育者らしからぬ短い一言を口にして、火村は短くなったキャメルを灰皿に押しつけた。
 
 


 
 
 
「・・・あかん〜・・もうあかん・・もう・・落として下さい、片桐さん・・」
 大阪某所のホテルの一室。もちろんホテルと言ってもシティホテル系でそのテのホテルではない。
 もっとも現在はそんな無駄口が聞けるような状況ではなく、大阪在住の推理小説作家有栖川有栖はすでに何度目か判らなくなった“人生最大の危機”に陥っていた。
「有栖川さん!諦めないで下さい!」
「せやかて無茶ですよぉ・・ここ数日ほとんど徹夜状態だった上この騒ぎなんですよぉ」
「僕もそうです!何といっても有栖川さんギリギリまで伸ばしてくれたんで」
「・・・・・・」
 言う時には言う。お人好しを絵にかいたような担当者・片桐光雄の一言に有栖は思わず黙り込んでワープロを叩く指に力を込めた。
 何がどうしてどうなったのか。
 自分は間違いなくつい昨日脱稿した筈なのだ。
 それなのになぜ、再び地獄に突き落とされなければならないのか。
「・・・・片桐さん」
「なんですか?あ、手は止めないで下さいね」
「・・・・・・もしも、見つかったらこれって無駄って事ですよね」
「もしも見つからなかったら穴が空くんです。それに大丈夫です。めでたく見つかってもこれは決して無駄にはしません。有り難く次号に回させて戴きます」
「・・・・次号は予定になかったんだけどなぁ・・」
「減るのは困るけど増える分にはどうにでもなるもんです。続けて載れば有栖川さんのファンだってきっと喜びますよ」
「・・・俺は喜べない・・・」
「何を言ってるんですか!同じ物を思い出して書いて下さいって言ったら今回は言い回しで苦労したから同じ物は出来ないし、それじゃないと嫌だとおっしゃったのは有栖川さんじゃないですか!とにかく!こっちも必死で捜していますから、有栖川さんはこの原稿を上げる事だけ考えて下さい。それにしても本当に予備のストックがあって良かった。“不幸中の幸い”ってまさにこの事ですね!?これを『もう少し』手直しすれば十分いけますよ。さすが有栖川さんです。さぁ、あと8時間位です。そうすれば心おきなく死ぬ程眠れますからラストスパートで行きましょう!!」
「・・・・・・・・・」
 拳を握り締めてどこかにイってしまった様な片桐に有栖はガックリと肩を落とした。
(・・・・不幸中の不幸。キングオブ不幸や・・)
 なまじストック等というものがあったからいけない。
 もっともストックと言えば聞こえはいいが裏を返せば以前つまって放ってしまったものなのだ。
 『もう少し』をようやくものにしたら、すぐに『もう少し』が降り掛かってくるとは思わなかった。
(・・・締め切り明けたら火村のとこに行って何かまともなもん食わして貰おう思うてたのに・・)
 締め切り前の食生活はいつにも増して悲惨なものであるそれを知ってか大抵修羅場か、それが終わった頃を見計らって訪ねてきてくれるのだが今回は向こうも相当忙しいらしく5日前の電話以来音沙汰がない。
(・・・クリスマスも仕事や言うてたしなぁ・・)
 本当は一緒に過ごすつもりでいたのだ。
 けれど無神論者の友人、兼数年前からの恋人にとってはキリストの誕生日などはどうでもいいらしい。
 もっとも有栖自身もキリスト教徒ではないし、その生誕を祝うというよりは、お祭りのようなイメージなのだから火村の事は責められない。
 それでもやっぱり何となく、火村が来られないならば自分が原稿を上げて、彼の下宿先に訪ねて行こうと計画を立てていたのだ。そして珍しくその計画を実行したと思ったらこのザマだ。
「・・・・・それにしてもどこに行っちゃったんでしょうねぇ。有栖川さんの原稿」
(そんなんこっちが聞きたいわ!)
 そう・・。必死になって書き上げて朝イチでフロッピィを送り、夕方には届くと連絡を入れて、モーニングを取って、家に帰って束の間ウトウトとしたら電話のベルに叩き起こされた。
“片桐です!届きませんよ、有栖川さん!どうなってるんですかぁ!? 
 それからは地獄の様だった。
 宅配の営業所に行って伝票を確かめて、とにかく白み潰しに捜して、捜して、捜して貰って、そうこうしているうちに東京から片桐が駆けつけてきて。
“コピーは取ってありますよね!?” 
 勿論・・・・取っている筈がなかった。
 近頃短編は数が多くなってきた為、別のフロッピィに入れ直しをして送ると消去してしまっていたのだ。
“捜します!何としても捜します!!” 
 片桐はそう言った。そしてその口で・・
“でも万が一穴が空いたら困るので、カンヅメをして明日中に書いて下さい。ホテルはもう取ってあります。ワープロを取ってきてすぐに行きましょう!” 
 そうしてその晩から再び徹夜の修羅場が始まったのだ。
(・・・・ああ・・鍋が食いたい・・)
 カタカタと部屋にワープロの音が響く。
(・・・・魚の煮つけもええなぁ・・)
 水死体についてのうんちくを打ち込んでいる所でそんな事を考えてしまう事がもう限界を越えている証拠だと有栖は思う。
「そろそろお昼ですね。ルームサービスを取りますけど適当でいいですよね?」
「・・・任せます」
 もうレトルト食品も外食もうんざりなのだ。
(・・・・・・婆ちゃんの漬物食いたいなぁ・・)
 目の前がチカチカする。
 完全にオーバーワークになっている。
(・・・・酒も飲みたいし・・)
 目の前に浮かんだ友人の皮肉っぽい笑みを浮かべた顔。
(・・・その前に寝なならんな。このまま飲んだら完璧病院行きや)
「有栖川さん。来ましたよ。メドはついてきた様ですからこちらで食べましょう」
「・・今止めたらもう二度と打てん気がするんやけど」
「・・・・・た・食べながらやりましょう!」
 目の下に隈を張りつけた有栖の言葉にヒクリと顔を引き吊らせて片桐はそれでも編集者らしい一言を返した。
 半ば自棄の様にガシャガシャと響くワープロを叩く音。
(・・・・こうなりゃ何が何でも終わらしたる!)
画面の中ではすでに犯人が追い詰められている。
(こいつが落ちれば家に帰れる!)
 どこかのサスペンスドラマに出てくる執念に燃える刑事並みに、けれどそれとは程遠い、情け無いと言えば非常に情け無い理由で燃えながら有栖はワープロをひたすらに打ち続けていた。
 
 

 
 
  「・・・・一体あいつは何をしていやがるんだ」
 時計の針は後数時間で今日が終わる事を告げていた。
 あの後、諦めては気を取り直して電話をかけるという事を繰り返しながら火村はキャメルに火をつける。
 街は目前に迫ったクリスマス一色で賑わって、そこかしこに陽気な曲が流れている。
 本当は・・と火村は煙草を薫らせながら思っていた。
 本当は有栖からクリスマス位にはという言葉が出た時に自分もその日までには溜った仕事をどうにかしようと思っていたのだ。そして情け無いとか何とかからかいつつも二人で飲みにでも行こうと考えていた。
 もっとも修羅場明けの有栖にその体力があればの話だったのだけれど。
 もしやと思って一度戻った下宿では“婆ちゃん”が火村と火村が連れてくる筈の友人を待ちわびていた。
“・・何かあいつこの前の締め切りがまだ終わらないらしくて。残念がってたよ” 
 思わずらしくもなく口をついて出た嘘。
“・・そうやの・・残念やわ。でも有栖川さんの分まで作ってしもうたんよ。・・そうやわ、火村さん。陣中見舞いで持って行ってあげたって”  渡されたお重にぎっしりと詰められた手づくりの炊き込み御飯。
 その他に煮物と、漬物と、有栖が泣いて喜びそうなものも入っている。
「・・・これで居なかったら一人で全部食えってか?」
 変わった信号に走り出したベンツ。
 思いのほか道は空いていてあと30分もすれば見慣れたマンションの前に着きそうである。
「・・・・・何かやばい事があったわけじゃねぇよな。アリス?」
 聞こえる筈のない言葉をそっと呟いて火村は愛車の速度を上げる。
 夜の中に沈んだ見慣れた筈の風景。
 飛ぶように流れていくそれになぜ自分はこんな事をしているのかおかしくて、けれどどうしようもなくあの笑顔が見たくて・・・・・。
“火村・・” 
 声を聞きたくて・・・。
「・・・やっぱり居やがらねぇか・・」
 ゆっくりと止めたマンションの脇。
 見上げた先は真っ暗な部屋。
 それでもと、もう何度目か判らなくなった電話をかけて−−−−切る。
「・・・さてと・・どうするかな・・」
 胸のポケッとガサガサと探り火村は皴クチャになったキャメルの箱を取り出した。
「・・・チッ・・」
 次いで零れた舌打ち。
 とりあえずするべき事は煙草を買いにゆく事だ。
「ついてねぇ時はとことんついてねぇもんだよな」
 ブツブツと言いながら鍵をかけて火村はゆっくりと夜の道を歩き出した。
 その途端マンションの前にタクシーが静かに止まる。
「!?」
「大丈夫ですか?お客さん。足元気ぃつけて。お代は戴いてますから」
「・・・・すみません」
「!!!アリス!」 
 フラフラと降りてきた人影に火村はカッとして思わず大声が上げていた。人が心配をしていたと言うのに飲んで酔っぱらってご帰宅とはいい度胸じゃないか。
「・・・・・火村・・?」
「アリス・・!?」
 けれどそれは一瞬にして再び心配にすり変わる。
「何で・・君・・」
 疲れ切った顔、疲れ切った声。
「何でってお前・・!・・アリス!!」
 そうして次の瞬間、有栖はプツリと緊張の糸が切れた様に目の前の火村の腕の中に倒れ込んでしまった。
 
 

 
    
「あー幸せや・・ほんまにほんまに生き返るわ」
「・・そりゃあ良かったな」
「君は食わへんのか?」
「お前の食いもん取ったら祟られそうだからな」
「失礼な奴やなー。そこまで意地汚くないで。ほら、分けてやるから」
「いらねぇよ!それより今までどうせロクなもん食ってなかったんだろうから一度に食うと身体に毒だぜ?加減して食えよ」
「判ってるって。明日、あっもう今日やな。婆ちゃんにお礼の電話せなならんな。それにしても絶妙のタイミングや。ほんまに婆ちゃんの漬物食いたい思うてたんや」
「だったら漬物だけ食ってろ・・!」
「何怒ってんねん。やっぱり腹減ってるん違うか?」
「・・・・もういい。黙って食え」
 がっくりと肩を落とし火村は胸ポケットに手を入れた。
 そうして次の瞬間煙草が切れていた事に気付いて小さな溜め息を漏らして立ち上がった。
「!ど・どこ行くんや!?帰るんか?」
 慌てた様に上げられた顔。それに一瞬びっくりした表情を浮かべ、火村はニヤリといつもの人の悪い笑みを浮かべた。
「何慌ててるんだよ。そんな顔をしてるとおいてきぼりくった子供みたいだぜ!?煙草を買って来るんだよ。それに駐禁とられると嫌だから、車、その辺の駐車場に入れてくる」
「誰が・・子供や。はよ行けアホ」
 パクリと煮物を口に入れてプイと横を向いた顔。
 それにもう一度クスリと笑って火村はゆっくりと歩き出した。
「・・・飲みに行きたかってんけど、しばらくは無理やな。体力戻さんと病院行きやからな」
 背中で聞こえてくる独り言じみた、けれど火村に向けられた言葉。
「そうだな。もう目の前で倒れられるのは御免被りたいからな」
 それは火村の本心だった。もう二度とあんな思いはしたくない。
 例えどんな理由であれ−−−−−そうそれが疲労と睡眠不足と食事をまともに取っていないという情け無い理由であっても−−−−−有栖が倒れるのを見るのは二度と御免だ。
「まぁ、酒は無理だけど・・・」
 言いながら火村はクルリと振り返る。
「・・火村?」
 キョトンとした有栖の顔。
(・・ったく人の気持ちも知らねぇで・・・)
 胸の中に湧き上がる少しだけ苦い思い。それをギュッと握り潰して。
「酒は無理だけど、帰ってきたら渋く番茶でも付き合ってやるからよ」
「!!!ば・・番茶ぁ!?」
 素っ頓狂なその声に、次の瞬間ゲラゲラと火村が笑い出した。それに一瞬の間を置いて「うちにはそんなもんあれへん!人を年寄り扱いするんやない!」と怒鳴る有栖の声が重なる。
 
 
Tea for Two & Two for Tea
ふたりでお茶を飲みましょう。
 
 
「いらん事言わんでさっさと行けや!!」
「つれない奴だなー。さっきはあんなにしおらしい顔してたのに。まぁ今日の陣中見舞いのお駄賃と7階までの運び代はお前の体力と相談して後日改めて請求するから」
「!ふ・ふざけるな、アホ!」
「へぇ、請求内容が判るようになるなんて進歩だな。アリス」
 ニヤニヤと笑う顔に・・。
「はよ行け!これで駐金代まで請求されたらかなわんわ」
 赤い顔でブツブツと返して・・。
 「とりあえず、戻ってきたら無事の脱稿を番茶で乾杯しよう」と言いながら火村は「やけにこだわるやないか」という有栖の声を背にゆっくりとドアを開けたのだった。

 さて後日、どんな請求が有栖の元に来たのか。
 それは貴女のご想像通りなのである!


あー・・・古い話ですぅ。初期の作品です。
何となくまだその手のシーンがなかった時代だよね。
多少いじってありますが・・・・・・・なんか遠くに来たよねって気がします、私ヽ(´・`)ノ フッ…(笑)