.
サラリと長い髪が肌を滑る。
トクントクンと重なる鼓動。
二の腕に巻かれた包帯の鮮やかな白さに思わずクシャリと顔を歪めた途端そっと目元に落ちた唇は、そのままゆっくりと頬に触れ、耳に・・・そして又、唇に触れてゆく。
「・・・・っ・」
泣きたくなる様な羞恥心。
こうしたいと思っていたわけではなかった、と有栖は思う。
けれどこうする事が嫌ではない自分も有栖はもう知っていた。
口付けの後で見つめ合った瞬間、多分お互いの中でそれはひどく自然な事の様に思えたのだ。
「・・・・江神さん・・」
名前を呼べば大丈夫だという様に微笑む顔と再び頬に落ちてくる口付け。
ヒヤリとした空気の中で合わせた肌がひどく暖かい。
胸から脇腹を手が滑り、ふと有栖はそれがあの柱を撫でていた手だと思い当ってそのあまりのリアルさにクラリと目暈を起こした。
「・・アリス・・」
聞こえてくる名前を呼ぶ声。
「・・・アリス」
繰り返されるそれに身体が熱くなる。
「・・アリス・・アリス・・アリス・・」
まるで呪文の様だと有栖は思った。
呼ばれる度に自分が自分でなくなってゆく。そうしてそんな気さえしながら名前を呼んで欲しいと思っているのだ。
「・・アリス・・」
長い髪が又、肌の上で揺れる。
ピクリと震えた身体。
好きだと思う。誰よりも、何よりも好きだと有栖は心の底から思っていた。
「江神さん・・江神・さ・ん・・・っ・」
首筋に、鎖骨に、胸に、溝落ちの辺りに・・・確かめる様に触れる手と唇のぬくもりが優しくて、熱い。
漏れ落ちる、自分のものではない様な吐息。それを聞きながら有栖は小さくかぶりを振った。
恥ずかしさと、切なさと、不安と、そしてこうする事への恐怖心の全てが有栖の中でグチャグチャに絡んでゆく。
そうして絡んで、縺れて、やがてちぎれて溶けてなくなってしまうのだと有栖は霞みそうな意識の中で思っていた。
「・・ぅ・・っ・ん・」
じわりと歪んだ視界。
その中で江神がひどく優しい微笑みを浮かべる。
「・・・・唇を噛むんやない。傷がつくやろ?」
困ったようなその言葉は、けれどやっぱり優しくて甘くて、抱き締めてくる江神の背中に有栖は縋りつく様に腕を回した。
「・・・好きです・・江神さん・・好き・です・・」
身体中を駆け巡る熱。
「・・江神さ・ん・っ・・」
その熱に浮かされた様に呼んだ名前。
「・・・アリス・・」
そうして次の瞬間、応える様に返された甘い響きのある自分の名前に有栖はそっと瞳を閉じた−−−−−−−・・・。
***************
ポッカリと浮かび上がった意識。
ここがどこなのか。自分は何をしているのか。
頭の中をよぎった疑問は数秒のうちに鮮やかな記憶で有栖にその答えを与えた。
「−−−−−−−!」
起こしかけた身体に走り抜ける痛み。
その瞬間、有栖の耳に小さな声が聞こえてきた。
「・・起きたんか?」
「!!!」
顔を向ければ覗き込んでくる穏やかな瞳。
途端に熱くなる顔を、けれど隠す事も出来ずに有栖はコクンと小さくうなづいた。それにふわりと江神が微笑む。
「・・痛むか?」
「−−−−−!」
顔から火を吹くとはまさにこの事だ。
これ以上は赤くなれないという様な顔でパクパクと酸欠の金魚の様に口を動かす有栖に江神は小さく吹き出して緩く身体を抱き寄せた。
「・・・無茶さしたな」
「!!そんなの!・・そんな・・事・・ないです・・だって」
そんな風に言われたら自分はどうしていいのか判らない。
そんな有栖の声にならない声に江神は又小さく笑った。
「まだ夜明け前や。もう少し眠り」
優しい優しいその言葉に有栖はふと窓を見た。カーテンの閉められたその向こうにまだあの見えない月はあるのだろうか?
「・・・・・・彼女・・助かるとええですね」
けれど出てきた言葉は全く違った言葉だった。
「・・・・そうやな」
返ってきた短い、けれど深い答え。
それが嬉しくて、何故か少しだけ切なくて、有栖は−−−江神が運んでくれたのだろう−−−布団の中で緩く抱き締めてくるぬくもりにそっと手を伸ばした。
「・・アリス?」
「・・・・・・・」
何かを言いたくて、けれど何ひとつ言えなくて、有栖はコトンと江神の肩口に顔を寄せる。途端に有栖を抱く江神の手に少しだけ力が込められる。
訪れた、ひどく不自然で、けれど例え用のない位自然な沈黙。
言葉でなく何かを語る様な沈黙を有栖は初めて知った。
「・・・・っ・!」
サラリと揺れた長い髪。ついで有栖の額に優しい口付けが落ちた。
「・・・眠り」
「はい・・」
思うことは溢れる程あった。でも今はこれでいい。ぬくもりに包まれたまま有栖はそう思った。そして−−−−−。
「・・・・・江神さん・・」
「うん?」
「終い天神さんに行きましょう?」
「・・・・・・・えらい込むぞ?」
「でも行きましょう」
いきなりの話題に少しだけ驚いた様に、けれど仕方がないという様な笑みを浮かべて江神は小さく口を開く。
「・・ええよ。行こう」
その答えに有栖はにっこりと笑った。
「絶対に行きましょうね。約束ですよ」
「唐突な奴やな・・」
「いいんです。思いつき言うんわいつも唐突なもんでしょう?約束ですよ?」
繰り返した言葉に「約束や」と返された答えを聞いて有栖は再びにっこりと笑う。
それはクリスマスの日。
多分、きっと自分たちらしい一日になるだろう。
そして今なら、その言葉を口に出来るから。
あの時思うだけで言えなかった、
けれど本当は言いたかった言葉を伝える事が出来るから。
一つ小さく息を吐いて有栖は静かに口を開く。
「二人で、行きましょうね」
僅かな沈黙。
「ああ、二人で行こう。アリス」
包み込むような微笑みと一緒に返ってきた江神の答えに有栖はひどくひどく幸せな笑みを浮かべた。−−−−−−夜明けはもう間近だった。
その後、何日かして有栖達は“彼女 が一命を取り止め“彼”が精神鑑定を受ける事になったとニュースで知った。
したり顔で事件のうんちくを傾けるキャスターと評論家達がしばらくはお茶の間を騒がすのだろう。
けれどその騒ぎもすぐに師走の忙しさの中に紛れて消えて、やがて何事もなかったかの様に変わらぬ顔を取り戻す。
「どこに行くんやアリス!伝票はこっちやぞ!」
「あ・あれ?」
「・・・よう見ぃ・・アホ」
有栖は江神と一緒にバイトを始めた。
大学が休みに入り、織田達が帰省をする前に忘年会もした。
北野天満宮の終い天神はもう目の前で。
そして・・・
あの日生まれたばかりの月は、もうすぐ満月を迎えようとしていた−−−−−−−。了
私にとって初めての事件物の話。いかがでしたでしょうか。あの時は本当に必死だったのですが、やはり今読み返すとつたない感じというか、すっごい恥ずかしいというか・・・・・。
気に入っていただけたら嬉しいです。