アリスに先に酔われてしまった夜の話 2


 パッチリと開いた瞳。
 一瞬わけが判らないと言ったような表情のまま、茫然と天井を見つめて、ゆっくりと視線を動かす。
「起きたのか?」
「・・火村?」
 嗅ぎ慣れたキャメルの香りと、かけられた声にポヤポヤと口を開いた有栖は、次の瞬間ガンガンと痛み出した頭に思わず顔を顰めた。
「アリス?」
「・・・頭痛い・・」
 わずかな沈黙。
「・・どうせこんな事だろうと・・」
 やっぱりと言うか、お約束と言うか、有栖は夕べの事を覚えていないらしい。
 あまりにも“有栖らしい”この現実に火村は、つい先ほどまで感じていたピリピリとした昏い感情を大きな溜め息を共に一気に吐き出した。
『嫌やっ!!・・ひむ・・らぁ!!』
 頬を伝った涙。
『・・もぅ・・やめ・・ああぁっ・・!』
 かすれた声は、けれどひどく甘かった。
『火村・・ひ・むらぁ・・っ・あ・・やぁ・!』
 暖かな身体も、わけが判らなくなったのだろう、しがみついてきた腕も、愛しくて、切なくて・・・。
「・・・火村?」
 溜め息と同時にいきなり黙り込んでしまった火村に、有栖は布団の中から不思議そうな声を出して起き上がりかけた。
「・・・っ・・!!」
 そうしてその瞬間、襲ってきた先ほどの頭痛とは比べようもない激痛に、声にならない悲鳴を上げて有栖はものの見事に布団に逆戻りをしてしまった。
「アリス?」
「・っ・・・・何でや?・・・・・・あ・ああぁーっ!!」
「・・・・朝っぱらからうるせぇぞ。頭が痛いんじゃなかったのか?」
「痛い!けどそれどころやないわ!!」
「・・・・・・・」
 半分涙目になりながらも真っ赤な顔をした有栖をチラリと見て、火村は吸っていたキャメルを灰皿に押しつけるとふぅっと白い煙を吐き出した。
「思い出したのか?」
「!!思い出すも出さんもあるかい!」
 言いながら赤く染まったまま顔を顰めてゆっくりと起き上がる有栖に、火村はゆっくりと向き直った。
 カチリと合った視線。
 次の瞬間、有栖の顔がクシャリと泣き出しそうに歪む。
「・・何であんな・・・」
 詰まった言葉に湧き起こる苦い思い。
 記憶が残っているならばきっとそう聞いてくるだろうと、火村は先刻まで有栖の寝顔を見つめながら繰り返し思っていた。
 けれどそれに何と答えれば有栖を手放さずに済むのか、答えはまだ見つかっていない。
 酔った友人を無理やり襲ってしまった。その自覚は火村自身にもあった。
 が、しかし、ひどく勝手な言い方をすれば、警告をしたにも関わらず、そして火村の気持ちも知らずに近づいてきた有栖の“自業自得”もある筈だ。
(・・・・・どうするかな・・)
 胸の中で落ちた溜め息。それと同時に聞こえてきた有栖の言葉に火村は弾かれた様に顔を上げた。
「・・・嫌がらせにしても程があるわ・・」
「・・嫌がらせじゃない」
「火村?」
「嫌がらせじゃねぇよ・・」
 そう、それだけは言える。けれど次にどう言えばいいのか、火村にはまだ判らなかった。
 重なる視線。
 落ちる沈黙。
 有栖を貶めるそんな気持ちはないのだ。でも、だけど、だからといってどう言えばいいか・・・。
「じゃあ・・・何なんや・・何で・・あんなん・・」
「・・お前が・・・聞かないから・・」
「!だからやったっちゅうんか!?どう考えても立派な嫌がらせやないか!」
「嫌がらせじゃない。だから、謝らない」
「!!!」
 再び繰り返されて、新たに付け加えられた言葉。
 それに一瞬だけ絶句をして、その次の瞬間、有栖はもの凄い勢いで口を開いた。
「じゃあ!じゃあ何やて言うんや!嫌がらせでもなくて、謝りもしない!ついでにもう一つ思い出したわ!俺のせいやて言うてたやろ!?一体全体、俺が何をしたからあんな事になったって言うんや!!」
「・・・・・・・・・・」
 それは確かにその通りだった。
 有栖は酔って、絡んできた。それに耐えきれず手を出してしまったのは火村だ。
 火村の気持ちは火村の中にあって、有栖が知っていた訳ではない。気づかなかった有栖のせいもあれば、勿論告げることもせず、気付かせなかった火村の罪もある筈だ。
「黙り込む気か?」
「・・・・・・・・・・」
 いつでも、どこでも、どんな時にも、有栖は火村を追い詰めてくる。
 睨みつけてくる瞳。
 怒って、怒鳴って、けれど多分どこかで有栖はまだ火村を信じているのだ。
 だからこんなにも怒っている。
 そんな有栖にどう言えばいいのか。
 突っぱねて、怒らせて、関係を断ち切ってしまうこともきっと出来る。けれど、有栖自身が何故なんだと火村に手を差し伸べているのだ。だったら絶対にこの勝負に負けるわけにはいかない。
 夕べそうさせたのも、今、自分に踏み出させてしまったのも有栖だ。
 勝手も極まれり。
 けれど、有栖川有栖は絶対に手放せない。
 それが火村がたった今、出してしまった答えだった。
 ひどく身勝手で、けれど、多分、きっと、有栖も望んでいるのだろう答え。
 自惚れと言われても、睨みつけてくる眼差しの中に、何故だと言及してくる言葉の中に、それを見つけてしまったのだ。だから、譲れない。
 同じならば、容赦はしない。
 離すつもりはない。
「好きだ」
「・・・・へ?」
 返ってきたのはこれ程緊張感のない言葉はない、言うというよりも思わず零れ落ちてしまったというような有栖の声だった。
 それを聞いて火村はニヤリと笑うともう一度、長い間胸の中に押し込めていた短い言葉を繰り返した。
 この存在を手放さない為に。
「好きだ、アリス」
「え・・あ・・・・火村・・!?」
 しどろもどろになる言葉と何故か赤くなってゆく顔。
 サイは振られたのだ。もう後戻りは出来ない。
「人の努力を無駄にして散々煽ってくれただろう?こっちの気持ちも考えずにな。知らないっていうのは一種の罪だ。だからお前が悪い。ゆえに謝らない」
 訪れた何度目かの沈黙。
「・・・・・・・・居直りもそこまで来ると“技”やな」
 やがて、ポツリと聞こえてきた呆れたような疲れたような有栖の言葉に火村は新たなキャメルを取り出して銜えながら小さく「そうか?」と嘯いた。
 カチリと点つけられた火。フワリと揺れた煙。そして一本のキャメルが白い灰に変わってしまう頃、有栖は微かに赤い顔でポツリと口を開いた。
「・・・謝ったら殴っとるとこやったかもしれへん」
「アリス?」
「びっくりしたけど・・・気色悪いって思わなあかんのやろうけど・・でも・・い・・嫌やなかったんや。で、極めつけが、朝起きて、思い出しても同じ気持ちやったから・・それで・・。ああーもう!これってどう考えても怒るとこやのに何でもう・・!」
 バリバリと頭を掻いてボサボサになった髪。
 真っ直に見つめてくる赤い顔を見つめながら火村はつい先程の自信はどこに行ったのか、ひどく都合のいい夢をみているのかもしれないと思っていた。
 そして思うそばから、目の前で睨みつけてくる顔がおかしくて、やっぱり現実なのだと思い直す。
「笑うな!ボケ!!あれはな、立派な強姦やで!ほんまにもう、昨日から俺の心はめっちゃ広いわ!しかも特別大サービスで、今日君が急な発熱や腹痛でここに居る言うなら、もう少し広くしてもええと思うとるんやけど?」
「・・・さすが作家先生になると太っ腹だな。けどせめて和姦にしといてくれ」
 クスリと笑うと赤い顔が更に赤く染まる。
「やかましい!・・・それで?どないするんや?」
 言葉の軽さとは裏腹に真剣な表情で見つめてくる瞳。
 先ほどとはうって変わった甘い沈黙を噛み締めつつ、火村は一つしかない答えを口にした。
「社会学部のしがない助手は、本日急な発熱により休みだ。飯を作ってやるからもう少し寝てろ」
 言った途端フワリと有栖の顔に広がった笑み。
 一夜明けてのハッピーエンド。
 そうして次の瞬間、火村はずっとずっと欲しかったその言葉をようやく手に入れる。
「・・・・・俺も・・好きや、火村」
 勿論未来の助教授は、たった今恋人になったばかりのその身体をそっと抱き締めて、その幸せを思い切り噛み締めたのだった。

えんど


はい、お疲れさまでした。えへへへ・・・あまりにもパターンな一作・・・。いかがなものでございましょう?
色々思うところがありまして、ちょっとばかり加筆修正をしてあります(;^^)ヘ..