Your Hands/鳴海璃生

天気予報が氷点下にまで下がる最低気温を伝えている夜−−。京都在住の犯罪学者は、夕陽丘の友人宅へと足を急がせていた。
 しんしんと足下から立ち上がる冷気が、地下鉄の駅からマンションまでの僅かな距離の間にも少しずつ体温を奪っていく。馴染みの大阪府警でついつい時間を過ごし、これから京都に帰るよりはと、近場の友人宅を宿代わりに選んだのはどうやら正解だったらしい。
 エレベーターで7階に上がり、見慣れたドアの前に立つ。普段なら態とらしくドアフォンを押してやるところだが、今夜のこの寒さにはその僅かな時間さえも惜しい。
 ポケットから合い鍵を取り出し、ゆっくりとロックを外す。使用頻度の異様に高い合い鍵は、今夜も大活躍だ。  ドアを開けると、ほわんと緩んだような空気が冷えた頬を撫でる。寒さに強ばっていたような身体の筋肉をほっと緩め、火村は後ろ手にドアを閉めた。慣れた様子で玄関を上がり、冷気に冷えたコートを壁にフックに掛ける。そうして、火村は大股に奥のリビングへと向かった。
 格子のガラス戸を開け最初に目に飛び込んできたのは、火村のテリトリーであるソファの上に伸びている部屋の主。そこで彼はゴロンゴロンと転がったり、背もたれに背中を擦りつけたりと、奇妙な仕種を繰り返していた。それは一見すると悶えているような、猫の匂いづけのような−−。通常では如何ともしがたい行動だ。
 首を傾げながらソファへと歩み寄り、火村はソファの背もたれ越しにアリスの様子を覗き込んだ。「う〜」とか「あ〜」とか奇妙な唸り声を上げながら匂いづけに励んでいたアリスと、視線が合う。固まったように動きを止めたアリスは、一瞬の後ふわりと相好を崩した。
 イヤな予感に、火村が一歩後ずさりしたその時−−。
「火っ村ぁ〜!」
 がばりと勢い良く身体を起こしたアリスが、ひしっと火村の首筋に縋り付いてきた。
「会いたかったでぇ。今日ほど君の訪問が嬉しいことはないわ」
 ぎゅうぎゅうと首を絞めんばかりの勢いでアリスが抱きついてくる。火村にしてみればくるりと踵を返して玄関へと引き返したいところだが、アリスの火事場の馬鹿力的勢いにそれもままならない。
 イヤな予感は足下から這い上がり、少しずつ身体全体を満たしていく。
 普通なら大喜びしそうなこの手放しの歓迎振りも、相手がアリスじゃ迂闊に喜べない。今までの経験が、それを嫌ってほどに物語っている。だいたいアリスの歓迎振りに比例して、その後に付いてくる碌でもないおまけの碌でも無さでかくなるのだ。
 過去の例を上げるならば、食事を作って、掃除をして、洗濯もやっての家政夫的な仕事は言うに及ばず、冷蔵庫が空っぽだから買い物してきて等々−−。しかもその理由が、雨が降ってるからだの、厚いからだの、寒いからだのだったら、幾ら温厚を自認する火村といえども「ふざけるな、バカ野郎!」ってなもんだ。
 絡みつくアリスの腕を振り解いて何とかこの状態からおさらばしたいのだが、敵もさるものひっかくもの。付き合いの長さと深さだけは他人様に公言できないくらいに長くて且つ深いので、火村の思惑なんてアリスにだって良く判っている。
「まぁまぁ、ずずずいっとお座りなせい」
 調子よく火村を引き込んで、指定席に座らせる。まるでお見合いのような状態で向かい合って、にっこり微笑まれたってねぇ…。
「俺は、ほんまに君に会いたかったんやで」
 駄目押しのように全開で微笑んで、アリスはもこもこと着込んでいる1番上の半纏を脱ぎ始めた。おいおいおい……と思っている目の前で、アリスは1枚ずつ服を脱いでいく。
 火村とお揃いで婆ちゃんが作ってくれた半纏を脱いで、濃い葡萄色のフリースを脱いで−−。
 ちょっと待て。これは一体なにごとだ?
 火村は目の前の出来事に、らしくもなく呆然とした表情を晒した。
 服を脱ぎ合い脱がせ合い、互いの熱を高め、膚を重ね合わせる。そんな秘め事のような行為も、アリスとの間では自然の成り行きだ。だがそれを仕掛けるのは火村が常で、アリスから先に手を伸ばすことは稀だった。
 まさかとは思いつつも、目の前のアリスから視線が外せない。
 そんな火村の戸惑いも知らぬげに、アリスはぬいぐるみのように着込んだ服を1枚2枚と脱いでいく。ダークグリーンチェックのボタンダウンをソファの背もたれに掛け、薄手の黒いセーターに手を掛けたところで、その動きを止めた。
 何事かを考えるように「う〜ん」と天井を仰ぎ、くるりと火村に背中を向ける。
「うんしょ」
 小さく掛け声のような声を発し、下に着込んだTシャツと一緒にセーターを捲り上げた。
 火村の視線に晒されたのは、見慣れた白い背中。火村は、こくりと小さく息を飲んだ。
 まさかという思いは、未だにしつこく頭の中で踊っている。だが、しかし−−。
 犬や猫や鳥にだって発情期なるものがあるんだから、アリスにそれがあっても不思議じゃない。時期的に妙にずれてる気がしないでもないが、まぁアリスだし…。
 それにしても二十歳の時に出会ってから10数年。これがアリスの発情周期なら、殆ど土星彗星族なみの気の長さだ。火村としては、できれば公転周期10年以内の木星彗星族の周期でお願いしたいところだ。
 彗星中最も短周期のエンケ彗星程度なら言うことなしだが、相手がアリスじゃそれも期待薄だ。まぁ、ハレー彗星みたいに76年に1回なんてことじゃないだけましかも−−。
「なぁ、火村…」
 鼓膜を通り過ぎる誘うような甘い声。
 目の前の白い膚に魅せられるように、火村はゆっくりと手を伸ばした。指先の冷たさに、アリスが小さく身を震わせた。その仕種さえも、無意識の内に火村を誘う。
 膚の滑らかさを確かめるように手を滑らせ、火村はそっと唇を寄せた。
 少し強めにキスを落とすと、アリスの背に緊張が走る。浮かび上がったほの紅い血の色に、火村は双眸を細めた。口許には、満足げな薄い笑み。その時−−。
「何すんねん、このドアホーッ!」
 怒鳴り声と共に、アリスがくるりと凄い勢いで振り向いた。
 「何すんねん」と言われても、この状態でやることといえばナニだけだろう。
 突然のアリスの怒りにリアクションを忘れた火村に向かって、アリスが機関銃のように怒りの言葉を連射する。
「このド変態! 誰がそないなことやるって言うたんや」
 顔を赤くして怒鳴るアリスに向かって、火村は人差し指を向けた。アリスがすかさず、それをぺしりと叩き落とす。
「アホアホアホアホ! 俺はなぁ、背中を掻いてほしかったんや。もこもこ服着とるせいで、届きそうで届かない場所が痒うて、もうイライラしとったんや。そこに君が現れたから、これはもう天の配剤やと大喜びしたのに…。あーーっ、もうっ信じられへん。少しは食い改めろや、変態助教授」
 言うだけ言って満足したのか、アリスはフゥと大きく息をつく。そして、再度火村に背中を向けた。
 「ほれ」とばかりに差し出された白い背中に、火村は双眸を眇めた。眼差しに浮かぶ険悪な色に、後ろを向いているアリスは幸運にも気づかない。
「つまり、アリスは俺を『孫の手』の代わりに使おうってわけだ」
「当然やん。それ以外に、君の手に何の使い道があるっちゅうねん。ほら、はよ背中掻いて」
 チッと小さく舌を鳴らし、火村はアリスの背中へと手を伸ばした。険悪な眼差しはそのままに、気怠そうな仕種でポリポリとアリスの背を掻く。
「あっ、そこもっと上」
 呑気なアリスの指示に従って、ゆっくりと場所を移動させる。
「あ〜、気持ちええ。すっきりしたわ」
 うーんと伸びをして、アリスが捲り上げたセーターの裾を下ろそうとした時、後ろから伸びてきた腕にグワシッとばかりにホールドされた。一瞬、アリスは自分の身に何が起こったか判らなかった。ゆっくりと脳味噌に現況が行き渡ると同時に、嫌な予感も神経を遡っていく。
 まるで羽交い締めのように回された腕に、恐る恐るというように視線を移動させる。耳元にある男前の顔が、視界の先でニヤリと笑みを作った。英都大学に存在するらしい火村助教授私設ファンクラブの会員なら「きゃーぁ」とハートマーク付きで歓喜の悲鳴を上げそうな笑顔も、今のアリスにとっては凶悪でしかない。
「もう痒くないから、この手離してくれん?」
 強ばった笑みでそう呟いても、回された腕はぴくりとも緩まない。
「アリス…」
 鼓膜を振るわせる声はうっとりするぐらいに魅力的で、それだけにやばさも倍増だ。
「俺の手が孫の手以上に役立つってことを知って貰わなくちゃな」
 唇の柔らかい感触と低い囁きが、耳朶に触れる。
「ちょお、待っ−−」
 くるりと身体を返され、火村の薄い唇が言葉を飲み込む。するりとセーターの中に入ってきた掌が、体温と血の流れを確かめるように動いていく。
 勤勉でお役立ちの火村の手と舌が、アリスの意識をゆっくりと溶かし始める。徐々に上がっていく熱に、細胞の全てが歓喜を告げる。そして−−。

 
 その夜の有栖川家での出来事は、翌朝ご機嫌な足取りでご出勤なさった火村助教授と、有栖川家の備品の仲間入りをした『孫の手』だけが知っている。


 End/2000.01.19



みどりばさーん。素敵な献上品(笑)有り難うございました。
このポケッぷりと迂闊さがたまらない(><@)ジタバタッ
ああ、アリスったらアリスったらアリスったらなんて可愛いの!!
これからも可愛くて迂闊なアリスで私たちを楽しませてください。
そしていつかあぶり出しをしなくても行間が読めるようにして下さい(^_^)
このお礼は冬のうちに送ります。ええ・・・・爽やかなアリスを!!