残暑お見舞い申し上げます


「へぇ・・・箱根に行ってるんかぁ・・ええなぁ」
 送られてきた葉書の消印を眺めながら、推理小説作家を職業とする私、有栖川有栖はふぅと溜め息をついた。
 暦の上では秋に入っても、日本には残暑という素晴らしい言葉がある。それは勿論字の如く、暑いのだ。
 “釜の底 ”と称される京都程ではないにしても、天気予報では(よせばいいのに)連続何日の夏日を記録などと有り難くもないニュースを伝えてくれる。
 そこへ持ってきて関東の避暑地と名高い『箱根』から“残暑お見舞い申し上げます”等とそれしか記されていない味も素っ気もない葉書がくれば、これはもう大人気ないと言われようと何と言われようとグレてしまうに決まっている。
 もっとも修羅場という程ではないが締め切りがそろそろ見えてきている現在、温泉に行っている余裕はない。
 だがしかし、それだからこそ狭量と言われようと何と言われようと他人が行っている事に腹が立つし、しかもその他人が、自分がよぉーく知っている、母校で犯罪学なんぞを教えている友人、兼−−大きな声では言えないが−−恋人である火村英生助教授であることがこの苛立ちに更なる拍車をかけるのだ。
「・・大体この暑いのに温泉なんか行ってられるかとか言うてたくせに」
 まるでこの葉書が火村自身であるかの様に私はついついグチを零してしまった。
「箱根は日本有数の温泉地やで」
−−−−“俺は遊びじゃなくて仕事で行ってるんだ
 けれどそのそばから呆れたような冷たい声が耳の奥に聞こえてくる。
「・・せやけど温泉は温泉やん」
 こちらは原稿が進まずウンウン唸っているのに−−自業自得と言われればそれまでだが−−向こうは仕事で温泉三昧。
「・・ギャップがありすぎや」
 ポツリとこれ以上実に成らない事はないという事を呟いて、私は座っていたソファにコロリと転がった。
「大体何だってこんなもんを送ってきたんや?」
  十中八九ホテルに備え付けられていたのだろう絵葉書に綴られた一行だけの文章。
『残暑お見舞い申し上げます』
 行き先は聞かなかったが、火村がこの時期に研修会に行く事は知っていた。けれど、私自身この時期は多分こ
んな状態だろうと思っていたのでそれを深く聞くことはしなかったのだ。それなのになぜ・・。
「−−−−−−そうか!」
 頭の中にポンと浮かんだ考えに、私は思わずソファから起き上がると、電話機のそばにかけられている月めくりのカレンダーの前までスタスタと歩いて行った。
 よくは聞いていなかったが、研修会は2泊3日だと言っていた気がする。箱根から大阪まで、どんなに早い時間に出しても一日で葉書が着く筈がない。とすれば、2日目の朝に出したとして、消印を確かめて・・・
「・・・帰っとるな」
 多分、恐らく、火村は夕べのうちに京都に帰ってきている。にも関わらず、こうして葉書を送っておきながら現れないのは・・・。
「やっぱりそういう事やろ」
 一人で笑って、一人で納得して、そうして次の瞬間私はイソイソとクローゼットに向かった。

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「よぉ、お帰り」
 勝手知ったる他人の家。部屋のドアを開けた途端手を上げて出迎えた私に、この部屋の主・火村英生は眉間に皴を寄せるとすでに緩んでいるネクタイを更に緩めてドカリと座り込んだ。
「研修会の次の日に出勤とは大変やなぁ」
 ニヤニヤと笑いながらの言葉に火村はフンと鼻を鳴らして側にあった缶ビールを手に取る。
プシュッと軽い音を立てて開いたプルトップ。そのまま一口煽って、火村は眉間に縦皴を寄せたまま口を開いた。
「・・・何でいるんだ?」
「何でって、これやこれ」
 不機嫌窮まりない助教授の前に私は件の葉書を取り出して見せた。そして。
「土産を取りに来いっていうメッセージやろ?」
 ニッコリと音がつくほどの笑顔に火村は眉間の皴を更に深くしてビールを煽る。
 それを見つめながら私は胸の中で溜飲が下がる思いがした。そう・・温泉に行く時間はないが、京都に行く時間くらいはある−−−−−筈だ。
 勿論研修先が温泉だったのは火村の意思ではないにしてもやっぱり面白くないものは面白くない。
「・・土産の取り立てにくるような奴はお前位だ」
 不貞腐れた言葉に私は自分の推理が見事に当っていた事を確信した。
 リビングのテーブルの上に置いたメモ。
『残暑お見舞い申し上げます。早く帰りましょう』
 多分、きっと、絶対に火村はそのメモ書きを見てきたに違いない。
「温泉に入って身体をほぐした後の、いい運動になったやろ?」
 クスクスと笑う私に火村は飲んでいたビールをカタンとテーブルの上に置いた。そうして次に私のビールまで取り上げてしまう。
「・・火村?」
「確かにいい運動だったけど、少し足りないようだから運動不足の作家先生にも御協力を願いましょうか?」
「!!お・俺は遠慮しとくわ。温泉も入ってへんし」
「適度な運動は生活の中に必要だぜ、アリス」
「あ・アホ!ちょっ・待・」
 引き寄せられて腕の中に閉じ込められた身体。確かにこうなるかもとは思っていたけれど、この展開はちょっと勘弁してほしい。
「や・嫌やて!・み・・土産!土産貰ってへんもん!」
「後でやる」
「今!今じゃなきゃ駄目や!温泉饅頭やなかったらせぇへん!!」
 思いつくままのとんでもない言葉はとりあえず、怒りのパワーで伸しかかってきた助教授の動きを止める事に成功したらしい。
 頭の上から「ハァ・・」と漏れ落ちた溜め息。
 そして次の瞬間、火村が私の前に差し出した物は・・。
「商談成立だな」
「・・・・・・」
 ニヤリと笑う顔。どうやら今日の勝負はギリギリでドローに持ち込まれてしまったらしい。
 再び抱き寄せられた腕の中、コトリとその肩口に額を寄せて。
「・・・お帰り」
「ただいま」
 重なってきた唇にそっと瞳を閉じて、私は抱き締めてくる背中にゆっくりと腕を回した。

Fin