極彩窟

 
 その部屋は極彩色でした。
 畳の縁と言えば黒か緑と思いこんでいた僕は、晴れ着の帯留のようにキラキラした朱色の縁に驚き、何度も指でなぞりました。といってもそれはこの部屋を訪れるようになって2週間も過ぎてからの話で、最初は部屋の主である悟浄が僕に語って聞かせる話と悟浄そのものに度肝を抜かれ、縁どころではありませんでした。
 当時僕の住まいは賄い付の下宿屋の2階で、たまの寄り道は古書店か最近急激に増えた洋館のカフェといった極普通の学生でした。洋館が増えたといっても港や山の手のごく一部。僕の住む世界は実に地味なものでした。たまに女学生が赤いリボンなんかつけていると、何キロ先からでもぱっと目がいき、しばらく界隈で話題になるほどでした。
 僕が悟浄と出会ったのはそんな時です。僕の驚嘆を少しは理解してもらえるでしょうか。髪も瞳も真っ赤な人間がこの世に存在することなど想像もできませんでした。僕の想像力が貧困とばかりは言えません。誰も彼もが想像できずにいたはずです。
 出会ったと言うより、会わされたと言ったほうがいいでしょうか、残暑厳しい9月の末のことでした。
「八戒。あんた口は堅いか」
 僕がいつものようにカフェのカウンターの隅に腰掛けて教科書を繰っていると、マスターが寄ってきて僕の前に肘をつきました。
「何故です?」
「秘密が守れるか?小母さんや友達、誰にも黙っていられるか」
 僕は迷わず頷きました。秘密という言葉に、齢四十を超えるマスターに同等に大人扱いされたような心持ちがして嬉しかったのです。
 マスターは僕に紙片を押しつけ、今晩十時にここへ行って俺の名前を言え、それ以上は何も聞くなと言いました。絶対に無駄にはならないからと。十時。とんでもない時刻です。下宿の門限が七時でしたから、十時前に部屋を抜け出すだけでも僕には冒険でした。しかも手渡された住所は山の手も山の手、華族や軍部の高官、商家の私邸が立ち並ぶ高級住宅街です。僕はあまりの展開に果たして生きて帰れるだろうかとまで思い詰め、しかしマスターの人柄を信用しきっていたので、その晩、何度も心臓を着物の上から押さえながら渡された住所に赴きました。まだ珍しかった煉瓦の高い高い塀に囲まれたその豪邸の通用口をノックすると、若い男の声で用向きを尋ねられたのでマスターの名を告げました。
 華族の家であることは分かりました。母屋が洋館、離れが日本家屋と様式がごっちゃになっていて、僕はすれ違った途端顔も思い出せないような男に案内されて夜の庭を突っ切ったのですが、窓から漏れる灯りの数が尋常ではありませんでした。これが個人の邸宅でしょうか。
 男は僕を離れに案内し「ここから先はおひとりで」と早口で呟きました。
「ここをあがって廊下を真っ直ぐ突き当たると階段が御座います。半地下ですので足下に気をつけて。外から部屋の者に声をかけてください」
「…あの、ひとりで入っていいんでしょうか」
 男はぱっと頭を下げると庭石に躓きながら去ってしまいました。今思えばかなり不気味ですが、僕は珍しいものばかり見て興奮しきっており、好奇心の塊でもあったので、さっさと草履を脱いで奥に進み、薄暗い階段を降り、言われた通り目の前に表れた襖にマスターの名前と自分の名前を告げました。
 しばらく待つうち、いきなり中から襖が開きました。
「よ」
 それが悟浄の第一声でした。
「どーぞ、入って」
 仰天のあまり三十分ほど口がきけませんでしたが、悟浄はそういう反応を充分予期していたらしく、僕の腕を引っ張って二十畳はあろうかという座敷の真ん中に座らせ、茶を勧めてくれました。その茶がまだ庶民には珍しい紅茶だったので僕は更に驚き、出された茶菓子が洋菓子だったのにも驚き、悟浄はそんな僕を煙草をひっきりなしに噴かしながら面白そうに眺めていました。彼の着物は黒の着流しでしたが裏地が赤く、縦糸にも朱色が織り込まれていて花魁か何かのような艶やかさでした。勿論花魁など直に見たことはありませんが、とにかく普通はあり得ないものです。柱といい天井といい蒔絵師が発狂でもしたような容赦のなさで装飾の限りをつくしてあり最早悪趣味と言ってもいい位でしたが、そんなけばけばしさも悟浄の前では消し飛びました。
「人間か?って思ってる?」
 悟浄の声は甘くて優しくて、僕は繕う気も失せて素直に頷きました。
「あんたは?」
「はい?」
「自分が人間の腹から生まれた記憶がある?」
 不思議なことに、これだけの問答で僕はすっかり悟浄に魅せられてしまいました。悟浄は何故僕がここに呼ばれたかを丁寧に話してくれ、夢中で聞き終えた頃には夜が白々と明けていました。
 悟浄は自分の年を知らないと言うのです。いつ生まれたかも親が誰かも知らないと。そして、物心ついた時から一度も、ただの一度もこの部屋から出たことがないと。
 信じ難い話です。悟浄の言動は極普通でした。世間一般の常識、時事、政治外交、俗世間の流行についても僕より詳しいぐらいでした。ですが悟浄の髪や目の色、おそらく由緒ある一族の血統であろうことを考え合わせると無い話でもありません。それほどに悟浄の容姿は人間離れしていたのです。
 綺麗だと思いました。とても。
「悟浄という名前は?」
「自分でつけた。自分の名前ぐらい自分でつける」
 悟浄が望めばどんな情報でもどんな品物でも調達されてきます。人もです。
 最初に呼ばれたのは最高学府の教師だったそうですが、悟浄は性別も年齢も職業もバラバラで、律儀で口の堅い人物を選んで口伝で召還しているのです。マスターもそのひとりでした。僕は悟浄が選んだ人物に何代にも渡って選ばれたのです。
「3日後。気が向いたらまたおいで」
 悟浄に送り出されて表へ出ると、先刻の男が待っていて、僕の半年分の部屋代に相当する金を黙って押しつけました。
 一夜にして世界が変わりました。
 今まで何と味気ない現実に僕は生きていたのでしょう。瞼の裏に焼き付いた極彩色の渦が一日中消えませんでした。3日おきに僕はあの部屋に通いました。間の2日は死んでいたようなものです。
「何故外に出ないんです。鍵もないのに」
 相変わらず煙草を口から離さないまま、悟浄は視線を宙に浮かせました。
「…生まれつき盲目の男がな」
「はい?」
「ずっと目が見えないまま生きてて、三十を過ぎた頃に医学が発達して、手術で目が見えるようになった」
 悟浄はとんと灰皿を落としました。
「3日後に自殺したぜ。どう思う?」
 悟浄の知識は広く深く、しかし総て伝聞です。何一つ手で触れたこともなく、何ひとつ目で見たこともない。伝聞で脳裏に刻まれた「世の中」が直にそれに触れることで崩壊する、その衝撃に耐えられる自信が余りないのだと、悟浄は淡々と話しました。
 悟浄といると気分が麻痺し昂揚し、妙な薬でも吸ったような軽い酩酊感がやってきます。色や悟浄にあたって本当に夢でも見ているような、しかも素晴らしい夢でも見ているような。僕はそれが、この状況の異様さによるものだと信じていました。同時に焦りもありました。悟浄は毎回町中を詳しく描写させ、建物の並びがあやふやになると手をふってうち切ります。
「2軒並びの古書店は先月ひとつ潰れた。今は工事中。その隣が呉服屋」
「あ…。そうでした」
「何処見てんだよ。毎日通ってんだろ?」
 自分のぼんやりした生き様や曖昧な記憶力を非難されたようで、僕は頬が熱くなりました。悟浄がこの部屋に呼ぶのはひとりではないのです。同時進行で他の誰かが、別の日に出入りしています。それはもう確かです。その誰かが、若造の僕より知識も教養も深く悟浄にとって有益な相手なら、僕は即座にお役御免になるでしょう。もう3日に一度の夢なしに現実を生きていく自信がありませんでした。そう素直に伝えると、悟浄はまじまじと僕を眺め、僕の傍に躙り寄ってきました。
「八戒」
「…はい」
「可愛いな」
 今度こそ顔から火が出そうになりました。悟浄が突然僕の手を握ったのです。別にとんでもなく異常なことではありませんが、免疫のない僕はしどろもどろになり、こんなことで動揺する自分にますます嫌気がさしました。
「そんな心配いらねえよ。俺はおまえぐらいの年の学生の話が聞きてぇの」
「…じゃあ僕でなくても、もっと」
「おまえの目で見た話はおまえからしか聞けない」
 僕は悟浄が好きなんだと自覚したのはその時です。
 手が離れた瞬間、本当に、心臓が軋んだのです。音を立てて。
「悟浄は…」
「ん?」
「…経験はあるんですか」
 とんでもないことを口走りました。悟浄の緩く合わせた着物の奥に、覗く二の腕に、気が付くと目を凝らしていた自分に気付いてしまったら最後、何が何でも聞かずにはいられなかったのです。
「あるよ」
 悟浄は極普通に答えました。それはそうでしょう。悟浄にできるのは幽閉された空間で知識を蓄えることだけで、唯一社会との接点は一度に一人の逢瀬。人と人は、お互いにお互いしかいなければ、話すか触れあうしかやることがない。僕の来ない夜に階段を降りてやってくるのは女性かもしれませんが自分と同じ男性かもしれません。悟浄が他人と絡み合う図を想像しただけで、あの手で誰かの肌を撫でるのを想像しただけで体中の血が逆流しそうでした。
「…僕とは」
 さすがにそれ以上口にはできず、僕は冷めきった茶を飲み干しました。
「…したい?」
 からかう声音ではありません。悟浄の顔は見たいけれど自分の顔は見られたくない。俯いていると悟浄は顔を上げろと命令しました。
「おいで」
 悟浄は終始落ち着きはらっていました。一度も部屋から出たことのないこの男は、僕よりもずっとずっと成熟していて、あっと言う間に抱きすくめられて引きずられ、気も遠くなりそうな快感で文字通り失神しかけました。僕はその日まで、接吻すらしたことが無かったのです。
 悟浄への独占欲は日に日に募り、僕は朝帰るのを嫌がるようになり、それが悟浄には大層困った事態であることは重々承知していながら恨み言すら吐くようになり、ある晩とうとう「もう来るな」という最終宣告を受けました。
「俺のこともこの部屋のことも忘れろ」
「無理です」
「ないものなんだよ。最初からなかったことになってるんだ、俺は」
 悟浄の声は最初と変わらず甘くて優しかった。あんなことがあっても、悟浄には何の変化もないのです。最初からいなかったのは僕のほうじゃありませんか。
「八戒、おまえはちゃんと向こうでいろんなもん見て生きていかなきゃいけないの。こっちに入り浸ったらおかしくなる。夢だと思え。忘れろ」


 夢でも 醒めなければ 現ではないのか。
 

 その後のことはよく覚えていません。
 気が付いた時には僕の手も服も真っ赤で、僕は絢爛豪華なこの部屋にやっと溶け込めた気持ちになり、ますます堅く悟浄の体を抱き締めました。
 悟浄は一族の鼻つまみものだったかもしれませんが、同時に神でもあったのです。ひとつの象徴だったのです。この離れはいわゆる祠です。悟浄は疎ましがられながら畏れられ、憎まれながら崇められていたのです。最初からいなかったことにされている悟浄を殺しても、僕は人殺しにはなりませんでした。体面が命より大切な一族は僕を訴える訳にもいかず、逃がす訳にもいかず、象徴を失ったままという訳にもいかずで、僕は望み通りこの部屋から出られなくなりました。
 勿論僕では悟浄の代わりなんかにはなれません。そう、留守番ですね。いつまた悟浄が生まれないとも限りませんから。ですが少なくとも今の僕には、この部屋が似つかわしくないとも言えないような、そんな気にもなるのです。

 …ああ、どうぞお茶を。冷めてしまいますよ。
 
 
 
 
 fin

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