HAIR CUT
髪はいつも自分で切る。
俺は散髪屋というものが嫌いなのだ。
髪を他人に弄られる事自体が嫌だし、ビニールだか何だかを首に巻かれた間抜けなかっこうでじっとしているのも嫌だし、何より人に刃物を持って後ろに立たれるのが嫌だ。
風呂上がりに目の前に毛先を翳して枝毛具合を確認していると、先に上がっていた女がベッドの上から手招いた。
「悟浄、話があるんだけど」
口は笑っているが目が笑ってない。
「何」
「貴方、私以外に何人女がいるの」
ああ、きたよ。こいつは今晩で最後だな。
俺はことさら驚いたような顔で女を見詰めた。
「何人?10人以下だと思ってんの?」
女の目がつり上がった。
酷なようだが女が悪い。俺は生まれてこの方、一度も特定の相手を作った覚えはないし、好きだとか愛してるとか口に出したこともない。複数の相手と寝てることだって隠してない。了解済で近寄ってきたのはそっちだ。責められる覚えはまったくない。
髪を切らせてくれ。
泣いたり怒ったりを適当にあしらっていたら、ひとりで勝手に泣きやみ勝手に落ち着いた女がこう言った。女が凄いと思うのはこういうところだ。泣き喚きながらでもマスカラが剥げないようこまめに涙を拭いている。
「髪はダメ。誰にも弄らせたことねーもん」
どうやら俺に何か自分の痕跡を残しておきたいらしい。
「キスマークとかじゃダメなの」
「何言ってんのよ、貴方にキスマークがついてなかったことなんか一度もないじゃない」
…髪、なぁ。でもなぁ。思い入れがあるしなあ。うっかり坊主にされたらやだしなあ。
「おまえ、リンゴの皮も剥けねーじゃん。そんな奴に大事な髪切らせらんねーな」
女は不意に笑った。
「じゃあ、あそこね」
散髪屋があった。
俺はびっくりして四方八方を見渡した。ガキの頃からずっと住んでる町なのに初めて見る。
「いつできたよこの店」
言ったもののどう転んでも新築には見えない。何百年もそこにあったように、その店はあった。よく見たら散髪屋とはどこにも書いてない。看板もでてない。何で俺はここが散髪屋だと思ったんだ。
俺をここまで引きずってきた女は曇りガラスの戸を押しあけると「じゃあお願いね八戒」と店内に声をかけ、俺ひとりを押し込んだ。
俺の後ろで音を立てて戸が閉まった「いらっしゃいませ」
店主とおぼしきその男は愛想良く微笑んだ。若い。てっきりオヤジが出てくるかと思った。無茶苦茶綺麗な顔立ちで、町中で会えば性別構わず口説くところだが、俺は壁にずらっと並ぶ鏡や(合わせ鏡のように果てが見えない)床に散った色とりどりの毛髪や(量が多すぎやしないか)鈍く光る刃物たちに(宝石のようだ)恐れをなして後ずさった。
よくもまあこんなところにみんな平気で入れるよ。
「…悪い、間違えた。また今度」
「間違えてませんよ。料金は前金で頂いてます。髪を切らせて頂くまでここから出すわけにいきません。人道に反しますから」
お座り下さい。
言いながら俺は強引に椅子に座らされた。この行為は人道に反しないのか?
金は女が払ったのだろうが、それにしても妙だ。静まりかえった店内は昼日中だというのに薄暗く、床を滑る毛髪の音まではっきり聞こえる。
「悟浄さんですね。僕のことは八戒とお呼び下さい」
「はぁ?」
「接客業ですからね。一期一会の精神で、御客様とは名前で呼び合わせていただいて、短い間ですが仲良く楽しく実のある時間をお互いに過ごそうと、それがこの店の主義なんです」
何のこっちゃ。
「どうなさいます?」
気味悪いと言えば気味悪いが普通と言えばまあ普通か。とっととすまして帰ろ。
「…毛先だけ揃えてくれる?痛んでるから」
八戒は微笑んだままいきなり刃先を首に押し当てた。
「わ!何!」
「貴方は非常に大雑把で言葉が荒く礼儀を知らない方ですね。まあ見たまんまですが。毛先というのは毛の先という意味ですよ?僕はいったいどこを切ればいいんですかね。僕がここまで毛先だと言ったらどうするんです?」
八戒は俺の耳の遥か上のほうを指でとんと突いた。
「河童ですよ河童」
礼儀知らずはどっちだと怒鳴りそうになるのを必死で抑えた。刃先がそのままだ。
「…3センチほど切って」
「ほど、ですね」
「3センチ!」
八戒は頷くとようやく鋏をポケットに突っこんで毛先を濡らし始めた。
怖い。怖すぎる。これが普通なのか?世の中の連中はこんなスリルを味わいたくて髪を切るのか?
「綺麗な色ですね。何で染めてらっしゃるんです?」
口調は穏やかだが、俺の首には鋏の冷たさがはっきり残っている。俺は声が震えそうになるのを必死で耐えた。
「染めてない」
「僕を馬鹿にしてるんですか」
ひー!
「染めてないの!生まれた時からこの髪なんだよ、いいから早く切れよ客だぞ俺は!」
「お客は貴方じゃなく代金を支払ってくださった貴方の彼女です。貴方、禁忌の子供ですね。知ってたんですけどね。一応。それを突っこまれたくないから髪の色を話題にされると不機嫌になると。ああ失礼、噂でそう聞いたんですよ。貴方はこのへんじゃ有名ですからね、御客様がよく噂してましてね。羨ましいですねえモテて。背も高いし顔もまあまあだし、随分泣かしてるんじゃないですか?恨みも随分買ってるんでしょうねえ」
「…それほどでも」
「また嘘をつく。初対面の僕に嘘をついて何か得があるんですか?それとも嘘をつくことは悪いことだという認識がないんですか?軽犯罪は重犯罪の元になるんですよ。もしかしたら何年後かにとんでもない罪を犯すかもしれない。ここでばっさりやっちゃったほうが世の中のためですね」
「あ、あのさ」
「冗談ですよ」
八戒は真顔で言った。
「恨まれてない人間はここに来たりしません」
何だと!?ここはお仕置き部屋か!?こいつは闇の仕事人か!?
「あの、ちょっと、えー八戒さん!?」
「やだなぁ何怖がってるんです。いい男が台無しじゃないですか。ここは散髪屋。理髪店。僕は貴方の髪を切るだけ」
八戒は振り向こうとした俺の頭を抑えつけて正面を向かせると、髪を束に分けて止め始めた。
「この傷はどうしたんです?」
どうでもいいじゃねえか、と言いたいがこいつを怒らせたらどうなるか分からない。
「…ちっちゃい頃に事故で」
「事故ですか。ふうん」
八戒はしばらくクリップ作業を続けていたが、いきなり顔をあげて鏡の中から俺を見た。
「ちっちゃい頃に事故で。それで説明したつもりなんですか?言いたくないことなら言いたくないことだと断ればいいのに、貴方ときたらひと言で済ませることで自分の心情を相手が察して当然と、そういう考えなんですね。如何にも甘えた態度ですよね。そういう性格、僕はどうかと思いますよ。だいたい」
「母親に殺されかけた時の傷!頼むから思い出させないでくれ!」
「母親に殺されかけた。ふーむ、それは嫌な思い出でしょうね。確かに話したくないことです。最初からそう言えばいいんですよ。貴方はもっと素直になる練習が必要ですね。ここで会ったのも何かのご縁です。髪を切る間に素直になる練習でもしてみましょうね悟浄」
八戒は椅子を引き寄せて俺の右斜め後ろに座り、鋏を取り出した。
シャキン。
「貴方はどうして女性をとっかえひっかえするんです?女性というものは頭で分かっていても男を独占したいと思うものです。何故ひとりじゃ我慢できないんです?そんなに数多くの女性とセックスがしたいんですか?それとも何かの病気ですか?」
頭の中がグルグルしてきた。
いったいここはどこでこいつは誰で何故こんな目にあっているんだ。
「え…えーと」
「えーとじゃないです。自分のことでしょう」
「…好奇心だと思うけど。セックスは好きだけどちゃんと付き合うのも面倒だし」
「おや。付き合ったことがあるんですか?」
「…ねえけど」
「じゃあ分からないじゃないですか。経験もしていないのに何故面倒だと決めつけるんです。ハワイに一度行っただけで海外旅行が好きだなんて断定できますか?一度もしてないことにあれこれ評価を下すなんて最低ですよ。まったくどういう育ち方したんです。素直に答えなさい素直に」
耳朶に刃が当たった。
思わず体を強張らせると、八戒は刃をそのままに耳元で囁いた。
「怖いんですか。僕が貴方の頸動脈をぶつっといくかもしれないと思ってます?いきますよ、素直にならないと。ここは僕の店で僕の城ですからね。僕が何しようと勝手です。そうでしょう?」
そうだっけ。
「あ…えー…付き合いたいほど好きな女に会ってないから…」
「そうですね。それが正解です。貴方は深く知り合えば愛し合えるかもしれないと手っ取り早く寝てしまうんですね。貴方にとっては女性と話すのも寝るのも同じ事なんですね。ほんとはこれぞという女性と真剣に愛し合いたいのに見つからない。女は寝てるうちに情が移る。それが単に女神探索中の貴方には重荷になる。悪循環です。さてどこに問題があると思います?」
「…俺に」
「そうそう。やっと可愛くなってきましたね。その調子でいきましょう」
八戒の指が髪を撫でた。
「何故話し合おうとしないであっさりベッドインしちゃうんでしょう。男性とはどうです?どういうおつき合いを?」
「…普通に…呑んで話して遊んで…とか」
「悩みを打ち明ける相手ももしかしたら男性じゃないですか?」
鋏の音に気が散って集中できないが、返事が遅れるたびに鏡の中から八戒が促すような目を向ける。悩みを打ち明けるといったらマスターか三蔵ぐらいっきゃいねえな。
「…そうかも」
「貴方は男性には腹をわるのに女性には軽薄に出る。つまりどういうことでしょう。もしかしたら女性を蔑んでいるんじゃないでしょうか。実は馬鹿にしている。女性は男性より劣っていると思ってる。単に見た目や感触が好きなだけ。逆もあり得ます。母親に殺されかけたことが影響して貴方の中に潜在的に女性への恐怖心がある。だから抱いて征服感を得ようとしている。どちらにしても女性と対等に接することができない」
八戒は恍惚と喋り続け、そのたび床には血のような毛が散っていく。
鋏の音。暗い店内で発光しているような俺の髪。八戒の催眠術のような柔らかな声。髪をなで続ける指。
信じられないことに俺は眠くなってきた。
あれほど強張っていた体が弛緩していく。
やばいだろ、こんなとこで寝たら。
「どうしたらいいのか分かりますか?」
「…どうしたら?」
「貴方が幸せになるためにどうしたらいいのか分かりますかと聞いてるんです」
「…男と付き合うとか?」
八戒はにっこり微笑んだ。
「なかなか巧いこと言いますね。今の答えは気に入りましたが正解ではありませんね。正解を出さない限り貴方はまたこの店に来ざるを得ない。何度も何度もここに連行されますよ、僕の御客様に、ね」
何言ってるのかよく分からないが、俺は義務感で無理矢理舌を動かした。
「…女とちゃんと…素直に」
「そう。貴方は突っ張ってるけど本当は小心者で寂しがりや。人の期待に応えて軽薄を装ってしまってなかなか素直になれない。本当は愛されたいのに」
寂しい。…そうかな。そうかもな。
「これからはもっと素直に人に甘える。分かりました?」
「…うん」
両肩にぽんと冷たい掌が載った。
「お疲れ様でした悟浄。幸運を」
飛び起きたら家にいた。
夢か。夢だよ。そりゃそうだ。あんな店があってたまるか。
俺は寝起きの体を引きずって洗面所に行き、顔を洗って鏡を見た。
髪は綺麗に3センチほど…いや3センチ切りそろえてあり、仰天して掻き上げると、耳朶に、僅かに赤くナイフでなぞったような傷があった。
幸いなことにあれ以来、俺があの店に連れていかれることはない。探しても見つからない。あの店は女しか知らないのだ。世界中の女が八戒のお客なのだ。女を泣かせたらまた連れていかれるだろう。そうして、髪を切られるだろう。
髪と一緒に気持ちまで軽くなった気がするが、気のせいだと思う。多分。
悪夢だったような。
そうでもないような。
fin
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