天使は瞳を閉じて



 保育園の一日は長い。
 私設で売りが地域密着となると、親の都合で引き取りが遅れる園児に付き合って終業は平気で夜8時9時。朝は朝で早朝からてんやわんやだ。
 その日最後の園児と母親に手を振って、八戒は自分の肩を拳で叩きながら事務室に戻った。子供の頃から夢だった仕事だから苦ではないけど、流石に週末は体がきつい。
 園長の机に勝手に座って新聞を捲っていた悟浄が手を上げた。
「お疲れ八戒」
「…悟浄、残ってたんですか。貴方の受け持ちの子はもうとっくに」
「待っててあげた御礼に晩飯ご馳走して」
 保育士は悟浄と八戒含め7名。うち5名は乳幼児担当の女性。始終走り回る3歳以上を受け持つ男ふたりは毎日生傷三昧だ。ふたりとも独身で園のすぐそばに部屋を借りているから、泊まりあうのも日常だった。
「ちょっと相談があるんですけど」
 悟浄に味噌汁を手渡しながら、八戒は切り出した。
「なーに?女のことなら任せて」
「残念、男です。といっても悟空ですけど」
「悟空」
 悟浄は味噌汁を一口すすってから「ああ」と呟いた。
 八戒の受け持ちで4歳になる健康優良児だ。
「あんな足の速ぇガキ初めて見た。お昼寝の時間にとっつかまえるのに全力疾走しちまったぜ、この俺様が。親御さんに陸上部に入れるよう勧めるべきだと俺は強く思う」
「進路相談じゃありません。怪我が多いんですよ、彼」
「あんだけ走りゃ転びもするわな」
 八戒は箸で里芋を突き回しながら考え込んでいる。
「…ですよね。そうなんですけど」
「親から文句きた?」
「…いえ。でも怪我してないことがないような。擦り傷もありますけど切り傷も多いし。注意力が足りないんですかね…」

 この日は、これで話が済んだ。
 翌日は土曜日で、預けられる子供の数は半分だ。
 悟浄はのんびりと子供達を監督していたのだが、庭から突然泣き声があがった。
「なんだ龍、転んだか?おら泣くな男だろ。ちょっとすりむいただけ〜」
 悟浄は傷がたいしたことないと見ると決して手を貸さず、泣きやむまで待ち、自分で傷を洗わせた。
「よし。消毒すっから我慢しろよ」
「悟浄、救急箱を」
 背後に悟空を抱いた八戒が立っていた。
 よく見ると悟空の膝からだらだら血が流れ、靴下まで染まっている。
「げ!何だおまえ、やることが派手だな!」
 悟空は八戒にしがみついたまま大きな目を見開いて、手当てされる自分の膝を眺めていた。
「平気ですか、悟空」
「うん」
「そういやおまえ、泣かねえよな。龍〜おまえ悟空を見習え?男はこうして泣くのを我慢して一生生きていかなきゃなんねーんだぞ」
 膝に揃って包帯を巻いた悟空と龍は、再び庭の遊具に向かって駆けだした。
「うーわ走りすぎ」
「…擦り傷だから傷が開くってこともないでしょうけどね」
 八戒に無言で促され、悟浄は八戒と並んで縁側に腰を下ろした。風が気持ちいい。
「…見ちゃったんですよね」
「何を」
「あそこ、花壇のとこに敷石があるでしょう」
 隙あらば煙草を銜えようとする悟浄の手を容赦なく叩きながら、八戒は庭の隅を指さした。
「悟空、自分であそこに膝擦りつけたんです」
 悟浄は呆気にとられて八戒の堅い横顔を眺めた。
「…わざと怪我したってこと?」
「先週鋏で指切った時も、どうも自分でやったっぽいんです」
 本当だったら問題だ。
 悟浄が何か言いかけると、八戒が手で遮った。
「悟空の家庭に問題はありません。やっとできた一人息子なので、むしろ溺愛してる感があります。親の注意をひくための自傷行為とは考えにくいんです。念のため家庭訪問もしました。聞く限り家の中で目立つ怪我をしたこともないし、他の子より運動神経が鈍いとか注意力が散漫とかいうこともないみたいです。頭のいい子だし情緒も安定してます」
「じゃあ何よ」
「分かってたら最初から結論を言いますよ」
 どうもここ最近八戒が元気ないと思った。
 悟浄はぽんと同僚の肩を小突いた。
「おまえのせいじゃねえじゃん。俺も悟空のこた注意して見とくから。今のとこ大した怪我もしてねえし」


 ところが翌週に救急車を呼ぶ羽目になった。
「悟浄っ悟浄先生、救急車呼んでください!」
 昼休みに八戒がつくってくれたおにぎりを頬張っていたら、もんどり打って保母さんが飛び込んできた。
「へ、何?きゅうきゅうしゃ?」
「悟空くんが怪我!うんていから落ちて!額切ったみたいで!」
 悟浄は119番を押しながら、慌てて口の中の飯粒を呑み込んだ。
 どうやって頭から落ちるんだ。うんていだぞ。
 通報しておいて庭に降りると、保母さんたちが血を見て泣き喚く園児たちを部屋の中に戻らせており、八戒はその真ん中で悟空の額にタオルを押し当てていた。額はちょっと切っただけでも大量に出血するから見た目ほどたいした傷じゃない、としても。
 …泣いてねえのか?
 悟浄は八戒にしがみついた悟空の怪我の様子を見ようと前髪に手を触れた。
「…悟空?」
 悟空の大きな目が、真っ直ぐに悟浄を見た。


「あいつおかしい」
 その晩、悟浄はベランダで煙草に次々火をつけながら呟いた。
「絶対おかしい」
 無理矢理家に連れてきた八戒はというとソファーに寝っ転がったままだ。
「うんていから落ちたって?上によじ登って頭からダイブしなきゃあんな怪我できるかよ。すっげー運動神経!猿か!凄いぜ!将来はオリンピック選手だ!」
「…悟浄〜…」
 八戒は死にそうな声で呻いた。
「もうあの子の話やめましょうよ」
「おまえ抱っこしてたから見てねえだろ、笑ったぜ。俺見て笑ったぜ、額からダラダラ血ぃ流しながら!あいつ、おまえに惚れてんじゃねえのか?怪我したら抱っこしてもらえるから、そんで」
「ちょっと落ち着いて」
 悟浄は煙草を揉み消し、部屋に入ってベランダとの仕切戸を足で閉めた。
「悪かった。もうやめる」
「貴方の言うとおりだったら僕はどうしたらいいんでしょう」
「俺と結婚して家庭に入れ」
 八戒は顔を上げないまま、ようやく笑った。
「…男にはモテますね僕」
「女にもモテますよ。怪我してなくても、おまえよくガキどものこと、ぎゅ〜ってするよな」
「しますね」
「だから違うかもな。ていうかわざと怪我するにも限度があるよな。おまえ、できる?包丁で指ちょっと切ったら1万円って言われたら切れる?逆むけでも痛いのに」
 例えが極端ですよ、とぶちぶち言いながらも八戒は首を振った。
「10万円なら分かりませんが、どっちにしろ貴方が抱っこしてくれるってだけじゃ御免ですね」
「もっといいことただでしますよ〜」
 悟浄は八戒の柔らかい髪をそっと撫でた。
「俺が悟空に妬いただけ。変なこと言って悪かった。念のため両親に相談してきちんとカウンセリング受けさせよう。来週、一緒に悟空んち行って話そ。な」


 遅かった。
 週明け。夕方6時を過ぎた頃。
 もの凄い夕焼けで、空も何もかも真っ赤だった。
「悟浄、今日、誰が残ってます?」
「えー…充と龍と悟空と霞ちゃん。居残り用のオヤツはプリンでーす。俺もいっこもらっていい?」
「ダメに決まってるでしょう」
「いーじゃん」
「幾つです貴方」
 穏やかな夕暮れだった。あまりのことに、誰も叫ばなかった。
 見つけた保母は立ち竦み、ふと砂場に目をやった悟浄が不審に思って庭に降りた。八戒を呼ばなかったのは、予感があったからだ。何か、とんでもないことが起こった予感が。
 砂場に龍が人形のように倒れていた。傍に座り込んでいた悟空は、不思議そうに悟浄を見上げた。
「…何した、悟空」
 夕日で影が濃い。よく見えない。
「噛んだ。ここ」
 悟空が自分の首を指した。真正面から悟空の顔を見た保母は喉の奥から掠れた悲鳴をあげた。
「怪我したら、偉いっていうから」
 悟浄はゆっくりと、ゆっくりとしか動けなかったからだが、膝をつくと、龍の体に触れた。
「先生、泣かないと偉いっていうから。りゅうは悟浄先生好きなのに、誉めてくれないからやだって。八戒先生みたいにしてくれないから。だから俺、こうしたらいいって。泣かなかったら悟浄先生、偉いって誉めてくれるからって。なんで動かないの、りゅう」
 龍の体は物の感触がした。ぐにゃり。
「…もしかして、痛くないのか?」
 照り返しで真っ赤な悟空の口からぼたっと黒い塊が落ちた。
「…悟空、痛いのが分からないのか?」
 病んでたのは心じゃない。体だ。
 何で気付かなかったんだ。無痛症だ。痛みを感じないんだ。痛くないんだ。
 …俺が殺した?悟空を見習えって?

 俺は龍に何言った?


「悟浄、どうしたんです」
 八戒が近づいて来る。

 血まみれの砂場に。
 

fin

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