春がくればあの人は



 春がくる。

 八戒はコートの前を掻き合わせた。まだ手袋がないと夜は厳しい。
 悟浄、桜、見にいきましょうね。一緒に。
 あれから1年、ようやくこの町を離れる決心がついた。何故わざわざ悟浄の想い出が貼り付いた場所で傷を広げるのかと三蔵も悟空も責めた。もう桜の咲かないところへ行きたい。二度と散らないところへ。
 八戒は不意に足を止めた。悟浄とよく通り抜けた公園だ。何度も来た。自販機があって…電話ボックス。
「電話ボックス?」
 こんなところに公衆電話があったっけ。
 八戒は闇の中にぼうっと浮かび上がるボックスに近づきガラス戸に額をくっつけた。紫がかった蛍光灯に照らされた、極々普通の公衆電話。長い間暮らした町でもまだ知らないことがある。
 八戒は戸を押して、受話器を取り上げた。もしかしたら、悟浄が気まぐれに寄越す「今から帰る」の電話はここからかけていたのかもしれない。悟浄がこの受話器を握ったかもしれない。わざわざ感傷に浸る自分を内心嗤いながら、八戒は戯れに番号を押した。自分の家の番号を。

 つながった。

 まさか。小銭もいれてない。
「もしもし」
 頭の中がぐらついた。
 この声は。この声は。
「…ごじょう」
 嘘だ。夢だ。悟浄は、悟浄は1年前に、確かに。
「…どちらさま?」
 訝しげな声。語尾が浮き上がるその物言い。懐かしさで八戒の頭から理性が吹っ飛んだ。
「悟浄、僕です。貴方、何で、いったい」
 悟浄が受話器の向こうで息を呑んだ。何だその反応は。まさか僕を忘れたってんじゃないでしょうね。怒鳴りかけて、唐突に八戒は受話器を叩きつけるように切った。体が震えだし、真後ろのガラス戸にどんと突き当たった。
 悟浄の後ろで、確かに遠い声がした。
 どなたです?
 あれは自分の声だ。電話の向こうに悟浄と自分がいた。
 八戒はボックスを飛び出すと何度か瞬きし、掌を擦り合わせた。…夢じゃない。ちゃんと起きてる。耳に悟浄の息づかいが残ってる。八戒は何とか落ち着こうと地面の小石に目をこらし、振り返った。

 電話ボックスは消えていた。

 落ち着こう。
 八戒は家に…昔は悟浄の家だった家に戻った。もちろん真っ暗で誰もいない。電話機を調べても着信記録はない。どこにかかったんだ。僕が話した相手は誰なんだ。あの家はどこだ。落ち着け。明日またあの公園にあの時間に行ってみよう。もう一度だ。考えるのはそれからだ。八戒はベッドに潜り込むと、枕に顔を押し当てた。
 夢でも妄想でも声が聞きたい。もう一度。


 公園の入り口で顔を上げると、電話ボックスはそこにあった。八戒は驚かない自分に驚いた。考えてみたら今更何が起こっても不思議じゃないのだ。悟浄を失った事のほうが余程不思議だ。あれ以上はない。
 昨日と同じように、八戒はボタンを押した。きっとパラレルワールドとかいうやつだ。あちらがわに自分がいるなら名前など名乗らなくてもいい。適当なことを喋ればいいのだ。悟浄の声が聞ければ何でもいい。
「はい」
 心臓がどくんと打った。
 悟浄ではなく自分が出た。そうだ、その可能性があった。
「もしもし?どちらにおかけですか?」
「…悟浄、いますか」
 考えあぐねて、八戒はそう口にした。
「悟浄なら出掛けてますけど。…帰りは何時になるかちょっと。失礼ですがお名前は?伝えておきますので」
「今、何月です」
 突然思い当たって、八戒は受話器を握り直した。もしかして。
「今、何年の何月ですか?」
「…貴方誰です」
「お願いします、大事なことなんです」
 向こうの八戒はこちらの正気を疑ったのだろう、実に穏やかな声で答えた。
「…2002年の2月28日です」
 去年だ。この電話は1年前の自分につながってる。過去だ。まだ悟浄がいる。
 八戒は何度か唾を飲み込んだ。この機会を逃したら何時になるか分からない。
「八戒。信じられないのは分かってますが、これから言うことを聞いてください。お願いします」
「…はい」
「僕は貴方です、1年後の。こっちは2003年の2月です。ちょうど1年後」
 無茶苦茶だ。電話の向こうの自分は軽く溜息をついた。
「お願いします、無茶苦茶なのは分かってます、お願いですから切らないでください、大事なことなんです、悟浄のこと」
 最後のひとことがきいたらしい。「何です」と落ち着いた声が戻ってきた。辛抱強い自分で助かった。
「この電話が未来からかかってる証拠を見せます。明日、3月1日に地震があります。結構大きな地震が、夕方の4時頃に。新聞にも大きく載るぐらいの。食器棚の扉が開いてティーセットが割れます。悟浄の誕生日に三蔵がくれた5つ揃いのうちのふたつ。片づけてる最中に悟浄が指を怪我するはずです。左手の薬指」
 返事はない。
「もしそのとおりのことが起こったら僕を信じてください。明日またこの時間に電話しますから必ず貴方が出てください。悟浄には言わないで。本当だったら続きを聞いてください」
 八戒は、そっと受話器を戻した。
 信じてくれ。自分の言うことなんだから、信じてくれ。頼む。頼むから。


「…割れましたよ」
 電話の向こうの八戒の声は、明らかに昨日と違っていた。
「悟浄は?」
「今日も遅いはずです。…どういうトリックです。未来って未来ですか。貴方ほんとは誰です」
 八戒は苛ついて電話機の本体を指で叩いた。
「貴方、へそくり隠してますね。居間のテレビ棚の一番下、裏にテープで貼り付けた封筒。かなんと住んでたころ彼女が同じところに隠してたからでしょう。そんなこと知ってるのは貴方だけですよね。つまり僕は貴方です。信じてもらえました?」
 随分かかって返事が来た。
「悟浄のことって何です」
 昨日から何度も考えた。1年前に1年後の自分から電話がかかってきたりしただろうか。していない。していたら今頃悟浄はここにいるはずだ。そうしたら電話ボックスが現れる必要はない。矛盾する。それでも、今、自分ができることはこれしかないのだ。
「信じてくれますか」
「信じないと仕方ないでしょう。何です」
 口にするのは怖ろしかった。八戒は深呼吸して一気に言った。
「悟浄が、もうすぐ死にます」
 口にした途端枯れたと思った涙がまた零れた。悟浄がもうすぐ死ぬ。
「3月3日です。貴方と買い物に町に出て、ダンプが商店街に突っこんできます。貴方をかばって悟浄は轢かれて、しばらく車の下で生きてますが結局出血多量で目の前で」
「待ってくださいよ」
 ぞっとするような怒気が含まれていた。
「言っていいことと悪いことがあるでしょう。悟浄がそんなことで」
「死んだんだからしょうがないでしょう!」
 怒鳴り返したつもりがほとんど滲んだ。
「悟浄はここにはもういないんです。死んじゃったんです。僕だって信じたかないですよ、今も信じられませんよ。だからこうして電話してるんじゃないですか。悟浄を死なせないでください。絶対に買い物に」
 ガシャン。
 向こうから切られた。
 八戒は静かに受話器を戻すと、ふらっと外に出た。振り向いたらボックスが無い事は知っていたが確かめなかった。
 …運命か。もう無理か。買い物に行くのを止めたところで、他の場所で他の理由で死んでしまうのかもしれない。だってここにいないんだから。もしそうだったら僕が向こうの僕にしたことはとんでもなく酷いことだ。
「ごめんなさい」
 八戒は小さく呟いた。拭い忘れた涙が乾いて冷たくなった。


「…ある」
 何故かもう現れないと思っていたのに、翌日同じ時刻に電話ボックスは現れた。
 ある以上かけないわけにいかない。今日は3月2日。もう時間がない。
「もしもし!」
 呼び出し音が鳴るか鳴らないかのうちに八戒がとって食いそうな勢いで出てきた。
「…もう出てくれないかと思いましたよ」
「悟浄がどうしても明日一緒に買い物に行こうってきかないんです。必死で止めてたら怪しまれて浮気かとかなんとかあの馬鹿!」
「…無理ないですよ」
「何落ち着いてるんです、どうしたらいいんです、嫌ですよまんまと死んだら!」
 信じてくれたのか。八戒は1年前の自分が急に愛おしくなり、混乱して頭を振った。そうだ、仮に運命を変えるのが無理でも足掻いてみればいい。奇跡が起こるかもしれない。
「いつもの八百屋です」
「…八百屋…あそこにその…ダンプが?」
「そう。事故は昼間です。あそこを通らせないように、無理なら時間をずらして夕方か夜にするとか」
「分かりました。やってみます」
「僕は電話ボックスからかけてます。説明するのが難しいんですが明日かけられるかどうか分からないんです。だから先に言っておきます。ここに悟浄がいない以上、貴方が頑張っても無理かもしれません。別のところで事故が起こるかもしれない。運命だから変えられないかもしれない。そしたら」
「変えます」
 あちらがわの八戒ははっきりと言った。
「変えますよ。絶対に」
「…ありがとう」
 何故だか憑き物が落ちたような気がした。
 もし駄目でも、自分で自分に心の底から御礼が言えた。これだけでも無駄にはならなかった。
 話せて良かった。
 八戒はいつになく穏やかな気持ちで家への途を登った。


 3月3日。
 一日中そわそわと落ち着かなかった。昼間に公園に行ってみたが、近所の子供が嬌声をあげて駆け回る明るい遊び場にあんな現象は似つかわしくない。やはりボックスは夜にしか出ないのだ。夜にも、出てきてくれるかどうか。あの日の記憶はほとんどない。多分、混乱と絶望でほとんど気が違ったようになっていた。
 思い悩むうちに夜がきて、ボックスは現れた。八戒は何度も深呼吸してガラス戸を押した。多分、今日が最後だ。何を聞いても驚かないように。最初から期待しちゃいない。いないはず。
 呼び出し音が鳴った。十回を超えても誰も出ない。
 …駄目か。駄目だったか。
 諦めて受話器を置こうとした途端つながった。
「はい」
 
 悟浄

 悟浄だ。生きてた。
「悟浄…」
 思わず漏らした声に、悟浄はしばらく黙り込み、低い声で呟いた。
「誰、あんた」
 しまった。小声だから声音まで聞き取れなかったはずだが。
「あの…八戒は」
「死んだ」
「は?」
「死んだ。事故で」 
 音を立てて、手から受話器が滑り落ちた。

 死んだ?僕が?
 …ああ、そうか。悟浄をかばったんだ。
 さっきの悟浄の声は、あれは、泣いてた。あちらがわの八戒は悟浄を助けてくれた。自分にできなかったことをやってくれた。約束通り運命を変えてくれた。
 八戒は両手を目の前に広げた。
 透き通ってる。
 悟浄、あまり悲しまないでください。
 考えようによっちゃ、最高の最期なんだから。
 後悔なんかしてません。
 僕はいつでも貴方が好きです。
 いつでも、いつまでも貴方が。

 
 電話ボックスは八戒を呑み込んだまま、陽炎のようにゆらりと揺れて、掻き消えた。
 
 

 
fin

BACK