そこにいて。
私生活・大学生編

この話は連載「私生活」の番外編です。読まなくても分かります…多分。






「自分が死ぬと同時にこの世界の全てが消滅しないという証明は不可能であることを証明せよ」
 八戒が昼飯のパスタを茹でながら歌うように言った。
「はあ?」
「面白いでしょう」
「全然。哲学科ってそういうことばっか考えるとこなの?何の役に立つのソレ」
 畳の上に寝っ転がって八戒のノートをパラパラ繰っていた悟浄は、ドイツ語混じりのノートをパタンと閉じた。
「…何を不機嫌なんですか、朝っぱらから押しかけといて」
 朝と言ってももう11時だ。八戒の今日の授業は午後からなのでせっせと六畳間のアパートの掃除と洗濯をしていたところに、一講目のみの悟浄が授業を終えてふらりとやって来たのだ。大学から徒歩8分の場所にある八戒の下宿は、自宅通勤の悟浄には至って居心地がいいらしく、三日に一回は顔を出す。たまに食事を作ってやると次回は律儀に手みやげを持ってくる。一人暮らしには嬉しいトイレットペーパーだの洗剤だのインスタントコーヒーだの。今日茹でているパスタも悟浄が(何故か)カバンに突っ込んで持ってきてくれた。
「不機嫌にもならあな。おまえの時間割、俺と見事にすれ違ってんぜ?月曜が俺が1から3講だろ、おまえが3から6だろー火曜は俺はキャンパス違うだろー水曜がおまえ休みだろー木曜は俺が」
「悟浄」
 パスタが茹で上がるまで後3分30秒あることを確認して八戒はようやく悟浄を振り返った。
「何で僕と貴方の時間割がすれ違ってるからって、僕が怒られなきゃなんないんです」
「おまえ冷たい。科目登録の時に俺の時間割はこーだよーって渡したろ?」
「もらいましたね」
「じゃあ何でこんな意図的にずらすのよ。ガッコーで会えないじゃん。俺のキャンパスライフは灰色だ。図書館で待ち合わせてお昼もできないし芝生で仲良くお昼寝もできないじゃん。今日だってあと一時間しか一緒にいらんないじゃん。…泣くよ?」
 悟浄のこの手のセリフは頭っから聞き流すことにしているが、それでも今回ばかりは聞き捨てならずに仰向けに大の字になっている悟浄の横に正座した。
「…驚きました」
「おお、何を驚くことがあろうか」
「僕はてっきり、授業が重ならないようずらして試験前のノートを効率よく手に入れるのに協力しろという意図で時間割をくれたんだと思ってました」
 悟浄は天井から八戒に視線を移した。
「……マジで?」
「マジで」
「……だから演劇論とかマスコミ論とかとってんの?」
「僕には般教の単位稼ぎにしかなんないですけど、貴方は後期の必修でしょう」
 悟浄は瞬きもせず、朝からきっちりシャンプーの香りを漂わせた八戒の顔を見上げた。
「…馬鹿じゃねえの」
「普通、御礼言うとこじゃないんですか?」
 八戒が思いつく、悟浄への最高の好意だったのに。
 自分と違って人目を惹く悟浄は、友達も性別年齢問わずやたら多いし、一般入試で合格しておきながら、部活の勧誘に応じた報償にスポーツ特待生の学費控除を受けている。自宅(といっても養父母の家だが)は都内屈指の高級住宅街のど真ん中。当然モテてモテて仕方がない。この間会った時からまたひとつ指輪が増えているから、また自称彼女がひとり増えたばかりなのだろう。人からもらったものは必ず大切にする男だ。基本的に優しいのだ。先刻みたいなセリフを、何か特別のように採ったりしたら、きっと自分が傷つく。悟浄に、何の取り柄もない自分ができることなんか他にひとつもない。
 悟浄は深々と溜息をつくと、頭をよいしょと八戒の膝に移した。
「…重いです」
「おまえ、全然分かってない」
「え?」
「なーんにも分かってない」
 そりゃそうですよ。
 八戒は心中つぶやいた。悟浄がどうしてうちに来るのかも分からない。他にいくらでも食事作ったり講義の合間に暇つぶしに付き合ってくれる、もっと悟浄に優しい相手がいるだろうに。悟浄を眺めているだけで嬉しくて楽しくて仕方がない人なんか、自分以外にも山ほどいるだろうに。
「あ、パスタ」
「おわ!!」
 悟浄の頭部の行方などまったく構わずに立ちあがった八戒は、コンロに飛びついて火をとめた。
「あーもー!貴方が訳の分かんないイチャモンつけるから!」
「おまえ、ほんっっっと冷たい!」
「そうだ、冷製にしましょう。熱々だと延びすぎちゃいますね。いいですか冷製パスタで」
 悟浄の返事はなかったが、八戒は勝手にざるにあけたパスタを氷水に突っ込んだ。
「八戒。今、冬なんだけど」
「もう遅いですよ」
 背後で悟浄がまた溜息をついた。
 本当は。
 悟浄に溜息をつかれるのが何より怖い。自分といて退屈なら、来なければいい。
 分かってないのは悟浄のほうだ。一時間しか一緒にいられない、なんて言われただけで勘違いして舞い上がってしまうような、本気にしてしまうようなバカもいるのだ、この世には。
「…あのさー。もう12月じゃん?」
「そうですね」
「クリスマスじゃん?」
「ああ、そうですね。大変ですね悟浄。何軒ハシゴですか?出費も相当でしょ、僕はよく分かんないですけど」
 また溜息だ。
「おまえといたいんだけど」
「はい?」
 振り返ると、悟浄は何やら下を向いて煙草を銜えるところだった。真っ赤な長髪で表情が見えない。
「…いいですよ、そんな。やだなーそんなにシングルの男って寂しそうに見えます?女性じゃないんだからイベント事に思い入れないですし、時間使わせるの悪いですから」
「…おまえといたいんだよ」
「だから、そんなことしたら僕、殺されちゃいますって。せっかくのイブなんだから楽しんできてくださいよ」
「人の話聞け!!!!」
 いきなりの悟浄の大声で、危うく食器を取り落とすところだった。
「…なんです、危ないじゃないですか!」
 悟浄は煙草を揉み消すと、呆然と突っ立った八戒の腕を凄い力で掴んで引き寄せた。
「ちょっ…悟浄?」
 また怒らせるようなこと言っただろうか。
「八戒、おまえ俺を何だと思ってんの」
 額がくっつくほどの距離で見ると、人間離れした鮮やかな瞳と髪がますます八戒を切なくさせる。自分とこの人は違うのだ。全然似合わない。
「…何って、友達だと思ってますよ」
「俺は好きなの。言ってるよな、前から。なんで信用しねえの?したくねえの?」
 八戒は、ふと悟浄のシャツの袖からわずかに覗いた包帯に目をやった。この部屋に来た時から気がついていたが、悟浄が何も言わないから黙っていた。人から聞いてばかりだ、悟浄が何の試合でケガをしたとか、養父母と実はうまくいってないらしいとか。聞きたいことを話してくれないくせに、信用しろと言われても。
 のめり込んで捨てられるくらいなら、今のままで十分だ。その方が、悟浄だって気が楽なはずなのに。
「…したいですよ」
「でも、できねえ?」
「そういう話、苦手です」
 悟浄はまたひとつ溜息をついた。
「分かった。もうしねえ」
 言いながら、腕の力は緩まない。最初は手首を握っていた手が、ゆっくり肩まであがってきた。
「話はもうしねえ」
 軽く、触れるか触れないかのキス。
「話ができないんだったら、こっちを進めるから」
「……貴方がそうしたいんなら、どうぞ」
 悟浄はまた軽い溜息をついた。
 もう、どうしたって悟浄を嫌な気持ちにさせるらしい。キスひとつで今にも泣きそうに嬉しいけど、そんなことを悟浄が知ったらきっと重荷だ。女子高生じゃあるまいし。
 自分を抱いて悟浄が気持ちいいならいくらでもすればいい。その時に感極まってその場で本音を口走らないように気をつけないと。
 悟浄に僕ができることなんか、他に何もないんだから。
 


fin

私生活大学生編。人生において最も暇な時期です。
小説か、漫画でとお願いされましたがこっちにしました…
セキアカコ様が…絵描きさんだったから…。

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