なんか どうも まいった。

 八戒はいつもの如く穏やかな微笑を浮かべているが、膝の上で何度も指を組み替えているところから見て、その心境は俺と似たり寄ったりか、更なる困惑の渦中だと思われる。俺はともかく八戒は事の当事者だ。
 ああ失礼。混乱のあまり状況説明を忘れていた。
 ここは俺の家で、今は午前1時で、テーブルには八戒と…えー…名前忘れた。女が。まだ17だから女の子か。
 …いや女だな。が、いて。
 俺は八戒の後ろで流しにもたれ、換気扇をガンガン回して煙草をふかしている。
 つまり対峙しているのは八戒とその女であって俺は関係ないんだよ。な?したがって俺はさっさとこんな居心地の悪い場を抜け出して部屋に戻りたいのだが、ふたりが口々に「貴方はここにいなさい」(命令ですよ皆さん)「悟浄さん、お願い、ここにいて」などと引き留めるもんだから。
 俺、関係ないんだって。
 その女は八戒に惚れてんだよ俺様をさしおいて。
 連れてきたのは俺だけどよ。
 あーまいったまいった。眠い。
「…貴女が僕に好意を持っていただいているということは、分かりました」
 八戒はようやく口を開いた。そうして頭を下げた。
「どうもありがとうございます」
 …なんか冷たぁ。
 向かいの女は…体にぴったり貼り付いたワンピースが桜色だから桜ちゃんと呼ぼう。桜ちゃんは反応に迷った挙げ句に俯いた。
「ときに何故僕を御存知なんです?悟浄とお知り合いなのは分かりますが」
「あの、悟浄さんと一緒にマスターの店にお見えになった時に」
 八戒はちょっと首を傾げた。
「…それ、先週ですよね」
「ええ」
「一度行っただけですよね。僕は貴女とはお話してませんよね」
「…ええ」
 八戒は特にそれ以上突っこまなかったが「一度見ただけで話もしたことのない男に一目惚れしたって訳ですか簡単に人を好きになれて幸せな事ですね〜」とか思うだけならともかく喋られたら困るので、俺はなんとなくフォローした。何せ彼女はマスターの店のバイトちゃんだ。気まずくなったら顔を出しにくい。
「あのね八戒。俺がおまえのこと聞かれて、結構話したから」
「へえ〜」
 間延びした口調とは裏腹に、八戒は凄い勢いで振り返った。
「何をどう話してくださったんです?」
 誰も人殺しで姉貴とできてたなんて言ってねえよ。
「…いい奴だって」
「どこがどういい奴なんです」
 知るかい。
「そりゃー優しいし料理も上手いし子供の扱いも上手いし口も上手いし、きっとあっちの方も上手いんじゃないかしらと」
 まだ俺が喋っているのに、八戒は同じ勢いで桜ちゃんの方に向き直った。
「あ、あの私、突然ごめんなさい。別に、今、返事が欲しいとかそういう訳じゃないんです、ただ、八戒さん、なかなかお店のほうにもいらっしゃらないから…無理に悟浄さんに頼んで連れてきていただいたんです」
 うんうん、いい子だね。
「貴女、悟浄と寝ました?」
 心臓が跳ね上がった。桜ちゃんが弾かれたように俺を見た。馬鹿、反応してどうする、流せ、このガキ。俺は慌てて顔の前で手を振ったが遅かった。
「寝たんですか。どうでした?」
「八戒、それはこの子がおまえに惚れる前のことだからな!?」
「悟浄は黙っててください。彼女に聞いてるんです」
 何、何、この男。性格悪。変。自分に告ってる女にそんなこと聞いてどうしよっての。処女じゃなきゃ不可とかいうんじゃねえだろうな。つか女に聞くなよ、んなこと。俺が嫌だ。
 案の定、桜ちゃんは口を開きかけて固まってしまった。当たり前だ。
 俺は濡れたシンクに吸い殻を押しつけた。
「なあっ!今日はもう遅いし、送ってやっから帰りな桜ちゃん!」
「…私の名前は桜じゃ…」
「ああ間違えた、とにかく八戒の返事はまた後日ってことで、な、八戒!」
 ここで口答えしやがったら殴るもやむなしと思ったが、八戒は意外と素直に頷いた。
「そうですね。また改めてお返事します、桜さん」
「あの…私の名前は桜じゃ…」
 俺は桜ちゃん…じゃない、もう誰でもいいや、女の腕を掴んで外まで引きずり出した。
「悪ぃ!ごめん!今日はあいつ機嫌悪かっただけで、いつもはあんな絡み方する奴じゃねえんだよホント」
 桜ちゃんは流石にショックを受けたようだ。そこそこ可愛いし酒場では人気があるほうだから、男にあんな冷たくされたのは初めてなんだろう。ああよしよし。俺は思わず頭を撫でてしまった。
 桜ちゃんは潤んだ目で見上げてくる。やべ。可愛いじゃん。
「…悟浄さん…」
「はいはい」
「私、本当は」
「うん?」
 微かに。ほんの微かに、扉の内側から音がした。そよ風が撫でたような本当に小さな音。
「本当は……のかも」
 彼女が何か言ったのは分かったが、俺の耳には入らなかった。他の何を聞き逃しても聞き逃しちゃいけない音に向かって必死だった。
「…わり、ひとりで帰れる?そこ突っ切ればすぐ町にでるから」
「ええ、大丈夫ですけど、でも」
「明日、店に行くから」
 結局本名を思い出せないままの桜ちゃんの後ろ姿が見えなくなるのを確かめて、俺はそっと家の中に入った。八戒は、さっきと同じ姿勢で椅子に腰掛け、テーブルに頬杖をついていた。
「……怒ってんの?」
 あからさまに怒っているのが分かったら、こんなことは聞かない。
「貴方、分かっててあの子を連れてきたんですか?」
「分かっててって…ああ、多分おまえはふるだろうなと思ったけど、あの子がどうしても自分で言いたいっていうから。多分無理って言ってあるから、いいぜ断って。俺が明日うまく言っとく。ごめん夜中に客連れてきちゃって」
 八戒は、ちょっと笑った。
「…貴方って人が分からなくなってきました。こういうことには敏感でしょうに」
 表情にも声音にも棘はない。俺が訳が分からず突っ立ってる間に八戒はテーブルの上を片づけ、流しの前で俺を手招きした。俺がシンクの吸い殻を片づける隣で、八戒はコーヒーカップを洗い始める。
「あの子が好きなのは、どう考えても貴方ですよ」
 布巾片手に受け取ったカップが手から滑った。
「ナチュラルに接近する常套手段じゃないですか、恋の相談。貴方に直接言い寄ったんじゃ上手くかわされるから、僕をダシに使ったんですよ。実際、会話も増えて仲も深まったでしょう?僕にふられて、貴方に慰めてもらうのが最終段階。僕がOKしたら彼女、困るでしょうね。しませんけど」
 俺は八戒の端正な横顔をまじまじ見詰めた。その微笑に皮肉の影もない。
「…そんな計算してるようには見えなかったけど」
「じゃあ、まだ本人は自覚ないのかもしれませんね」
 桜ちゃんの声が不意に蘇った。


 私、本当は、悟浄さんが好きなのかも。


「あ!」
「はい?」
「なんでもね」
 いや、あの時はよく聞こえなかったし。八戒にこんな話を聞いたから、そう言ったような気がしてるのかもしんないし。
 でも桜ちゃんが俺に惚れているとしたら筋が通る。唐突なアプローチの仕方や偏った質問攻め。八戒の女の好みを聞かれた覚えもない。まあ聞かれても困るけど。 水分を切ったカップを食器棚に放り込むと、俺はそのまま壁に額をゴンと打ち付けた。
「…なんで気が付かなかったんだろ!ひょっとして、俺、すげ馬鹿?鈍い?むしろ鈍った!?」
「今までは貴方が彼女に興味なかったからでしょ」
 ということはだ。
 俺は八戒には興味があんだな。随分前に気が付いたもんな。
「…どうしよ」
「どうでも。気に入ったんなら、おつき合いすれば?」
 洗面所で歯を磨く八戒。ぱっと見、いつもどおりだ。本人にはまだ自覚がない。
 八戒のほんの小さな感情の渦が風になって戸を揺らすこと。
 雨の夜には、砂の表面を滑らせたような軋みでガラスが微かに震えること。
 気持ちを言葉にも態度にもうまく出せないこいつが、極々希にうっかり漏らすそのさざ波。
 その熱。
 随分前から俺は知ってた。
「八戒、今晩一緒に寝よ」
 歯ブラシを銜えたまま、八戒は呆れたように鏡越しに俺を見た。
「…構いませんけど、なんですか急に」
 呼んだくせに。
「明日、桜ちゃんに告られてもふってくるから安心するように」
「僕と何の関係があるんです」
「さあ」
 狭いとか押すなとか落ちるとかブツクサ言う声に構わず、俺は八戒の布団に潜り込むと目を閉じた。八戒の溜息と、躊躇った挙げ句ようやっと髪を掻き回した指と、心臓の音が落ち着いてから、耳を澄ませた。






 静かだ。









fin

リクは八浄で「日常」。日常で、というリクは大変多く私は大変苦手です。
「日常」でリクをいただいて「アクシデント」を書いたというボケをかまして以来トラウマです。
でも日常を意識しなければ、結構日常だったりするのです。
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