ヘッドライト・テールランプ







 肩の上で微睡んでいたジープの体が、ピクリと震えた。
「…銃声、ですねえ…。まだ宵の口だっていうのに三蔵ったら」
 今晩は久しぶりに夜の長い町にいる。悟空を寝かしつけた八戒が窓を開け放った途端の、人間の耳には感じないだろう微かな遠い音。おそらく酒場でどっちかが誰だかにからまれたんだろう。あのふたりは…悟浄と三蔵は、どうしようもなく目立つのだ。ふたりつるむと特に。それは単に言動や見た目の派手さが2倍になるという問題ではない。あのふたりが一緒にいるという違和感が勝手に辺りの空気を掻き回してしまう。
 八戒は自分でも気づかないうちに眉を顰めていた。
 彼の懸念は酒場に居合わせた人間の生死などでは無論、なかった。

「おーっと、まだ逃げよってかぁ?いい度胸じゃんお兄ちゃーん」
「その度胸で、ついでに地獄も見て来るか?」
 酔いに任せて三蔵を口説きにかかった哀れなチンピラは、酒場の外まで盛大に蹴り出され(「店内で暴れると他のお客様のご迷惑ですから暴行殺人は店外で」という八戒教育の賜物だ、これでも)顎を突き上げられ、足を払われたところに鼻を叩き折られて、眉間に銃口を押し当てられていた。
「しぶとい生命力のご褒美に、とどめはおまえ好みの俺がさしてやる。幸せ者だな」
「うはははは、何そのセリフ!三蔵、おめーベロベロじゃん」
「うっせえな。次はてめえだ。大人しく順番待ちしてろ」
「ははっ俺も幸せ者かあ」
 三蔵といると、これだからたまらない。相手が誰だろうと「身の程知らず」で片づける俺様な態度は、普段なら何度ぶっ殺しても足りないくらいムカつくのに。何から何までウマが合わないのに。
 顔面を真っ赤に染めてガタガタ震えていた男の体は、三蔵が引き金に指をかけた途端、前のめりに崩れた。
「…あらら、気絶した」
 身を屈めた悟浄の襟首をむんずとひっつかんだ三蔵は、もう目の前の被害者に興味を失ったらしい。
「行くぞ下僕。ケチがついた。河岸替えて呑み直す」
「げぼ…まだ呑むのー?」
「だいたい何なんだこのギャラリーは!見せもんじゃねーぞ」
 目にも鮮やかな色彩の余所者が町中で立ち回れば人だかりができるに決まっている。
「いや、見せもんだぜコレ。こいつ殺す殺す言ってっけど坊主なんですよ皆さーん」
「ぶっ殺されてぇか!?」
 街の飲み屋をあらかたハシゴして、その間性懲りもなく何人か殴り倒して、ようやくふたりが帰途についた頃には既に午前三時をまわっていた。
「うっわ今日八戒と同室じゃん。また説教だよ、どーしてくれんの」
 ブツクサ言いながら懐を探ったところに、ライターの火が差し出される。
「八戒に気ぃ使って夜遊びすんじゃねえよ胸クソ悪ぃ。いつまで同居人のつもりだ」
 既に呂律の怪しい三蔵の、手の中の炎がグラグラ揺れている。悟浄は喉の奥で笑いながら、三蔵の手首をがしっと握って安定させ、ようやく火を煙草の先に触れさせた。
「俺と違って三蔵様は男女問わずでモテるからぁ。うじゃうじゃ寄ってくる下心見え見えの下衆野郎から三蔵様を守るのもお仕事のうちだって、あいつもちゃんと分かってます」
「お仕事で付き合われても美味くねえ」
 美味くねえわりに随分呑んでるが。
「うそうそ。おめえと呑むと気持ちいーし」
「気色悪い」
「なんでー。三蔵だってちょっとは楽しいくせにー」
「あーもー喋らせんな、頭痛ぇ」
 三蔵との酒は、好き放題暴れて言いたい放題言い合うお祭りみたいなもんだ。
 楽しい。
 ほんと、楽しい。
「あのね三蔵、そっち壁だから。通り抜けられないから」
「おめえこそ何度も何度も躓きやがって危なっかしいっ」
 確か帰る道々「八戒たちを起こさないように」と囁き合ったはずが、結構騒々しく縺れ合って廊下を中程まで進んだところで、いきなり目の前の扉が開いた。
「…うるさいですよ。宿の方々に迷惑でしょう。時計の読み方も知らないんですか」
 保父の一喝で口を噤んだ不良園児たちを交互に眺めると、八戒はようやく微笑んだ。
「お帰りなさい、ふたりとも。三蔵の部屋は向かいです。お水でも持っていきましょうか」
「……いい」
「おやすみぃ、さんぞー。またのもーなー」
「……もーいい」
 三蔵がフラフラ部屋に入って扉を閉めた途端、八戒の顔からもの凄い勢いで笑みが引いた。
「…悟浄」
「はい?」
 大方予想していたので八戒の笑顔を引き取ってにっこり笑ってやった。悟浄が心の中でこっそり「暗転」と名付けているやつだ。
「日頃の鬱憤は晴らせましたか」
「あーもうすっきり。おまえも俺とばっかじゃなくて、たまには三蔵と呑みに行けば?」
「そうですね」
 棒読み。
 八戒との酒は祭りじゃなくて、ただの日常。付き合いが長いと改めて肴にする話題もなくなる。ひとりじゃ味気ない、でも何も考えたくない、そんな時に黙りこくって注ぎ合うだけで、意識もせず区切りもつけず呑み飽きたらそのままストンと眠りに墜ちて許される八戒の存在は、それはそれで貴重だ。
 それはそれで貴重。
 八戒だって分かりすぎるくらい分かっているのだ、そんなことは。祭りの熱狂より平穏な日常の方が大切なことは。当たり前すぎ自然すぎて誰の口にも上らない悟浄と八戒の関係が、長年一緒にいたからといって誰にでも手に入るようなものじゃないことは。
「…八戒、今日はちょっと、ダメっぽい」
 部屋に入るなりベッドに倒れ込んだ悟浄は、当然のように上に乗り上げた八戒の肩をやんわり掴んで押し返した。
「嘘でしょ」
「呑みすぎた。勃たねー…つか寝ちゃいそう。ごめん」
 悟浄が言い直したのは、自分が勃とうが勃つまいが上にいる八戒には関係ないことに気づいたからだ。勿論いつもなら悟浄も自分で自分を快くする術を心得てるし、八戒もキチンと悟浄を最高のタイミングで達かせてくれるけれど、祭りの後となると話が別だ。
「ほんとに眠いんですか?どっかで無駄打ちしてきたんじゃないでしょうね」
「…何ソレ。さんぞーとずっと一緒だったのに、どこで出すの」
「じゃあ、寝てていいですよ」
「…俺がイヤなんだって」
 いくら体が慣れきっても男と男がするりって訳にはいかない。いかないのが分かっていて言うのだ、この男は。
 極々軽く溜息をついて、悟浄は腕を伸ばして八戒を引き寄せた。何がイヤだって自分がイヤだ。八戒とは旅が終わったら同じ家に帰る。約束はしないが、そうしたいと思ってる。八戒といることや八戒とやることを全部、自分の意志で選びたいのに。でも、まあ、実際にはお互いにやりたい時がやりたいように重なる事なんか滅多にない。熱病にかかってるカップルならともかく、現実にはこんなもんだ。それに耐えるに値する相手かどうかだ。むしろ無理強いを楽しめる相手なら、最高に長続きする。
 時々驚くほど残酷になる八戒の身勝手なセックスを下から見上げていると妙な気分になってくる。普段は性欲なんて微塵も感じさせずに完璧な保父役を勤め上げている八戒の、どうしようもなく「男」な部分は、同じように潔癖ヅラの三蔵にもヤバいくらい天真爛漫な悟空にも在るんだろうが、八戒以外の奴のそれを知りたいとも見たいとも見せたいとも思わない。生々しくて卑怯で汚ない征服欲なんか、知らないですむならそのほうがいい。
 …ああ、俺、キレーな顔して好き勝手やる時のこいつの、動物みてえに汚いとこが好きなのかも。それを俺だけに躊躇なく見せる恥知らずなとこに中毒になってんのかも。八戒の「優しくない」ところが一番好きなのかも。
 とするとだ。ホントに人が狂うのは日常のほうなんじゃないか。
 三蔵のように精神が健康な奴は、俺の正気の最後の砦なんじゃないか。
「起きてて他のこと考えられるより気絶してくれる方がマシなんですけどね」
 前に本当にぶん殴られて気絶したことがあったから、悟浄は慌てて八戒と目を合わせた。
「…八戒。今、思ったんだけど、おまえ俺の…」
「あ、ちょっと待っ…て」
 ふと吐息で語尾が浮いた八戒の声と、唇を噛んで衝動をやり過ごしたらしい体の震えが、いきなり悟浄の快感のツボを押した。
「………っ!」
「…何ですか?悟浄」
「……な、んでもね」
 この時、腰を突き上げた甘い痛みが来なければ。
 ちゃんと口に出していれば。

 翌朝には気がつかなかった。二日目も。だから悟浄には正確にはいつ、三蔵が悟浄を避けだしたのか分からない。元々普段から会話がはずむ仲でもないから余計に。
 夜に賑わう街の宿に泊まれることなど週に1日か2日あればいい方だ。その夜は何をどうしても三蔵を誘って酒場に出るつもりだった。
「三蔵、今晩どーよ、ひっさしぶりにコレ…」
 うるさそうに払われることを前提に肩に手を回したところが、いきなり三蔵の体にびりっと緊張が走った。
「…え?え、何?」
「何でもねえ。離せ」
 言われなくても離すけど。
「…三蔵、顔色悪くねえ?そういやあんま喋んねえな」
「…………」
 思わず救いを求めて、その場にいたもうひとりに目をやったが、わざとらしい熱心さで地図を指で辿っている八戒は頑として無視の構えだ。
「…俺、何かしたっけ?」
「別に。行きたきゃひとりで行け」
 自分が何か三蔵を怒らせるような事をしでかしたんなら、もっとこいつの歯切れがいいはずだ。というより怒ったその場で銃を向ける。今、居心地悪そうにしているのはどう見ても三蔵。
「…らしくねえな。何。言いたいことがあんならはっきり言えよ」
「しつけえな。とにかく誘うなら八…」
「ああ!?なんつった!?」
 突いたら割れそうな一触即発な空気とはまったく別の空気を吸っているらしい八戒が、のんびり口を挟んだ。
「三蔵は貴方が隠し事してたことに怒ってるんですよ。ね、三蔵」
 暫く三蔵を睨んでいた悟浄は、三蔵が何も言う気がないと見ると法衣の裾を握ったまま、八戒の方へ振り向いた。
「隠し事って何だよ」
「僕と、貴方の関係を三蔵に黙ってたでしょう」
「関係?」
「体と体の関係ですよ。黙ってたんでしょう?」
 悟浄の顔色がさっと変わった。
「別に言う必要ねえだろ、んなこと!」
「そうですか?後ろめたくないんなら隠すこともないでしょ。僕は平気ですけど、貴方が秘密にしておきたかったんだったらすみませんでした。全部喋っちゃいました」
 口調だけ聞いていると淡々としているが、これだけ長く一緒にいれば八戒の目が燃えたぎってることくらい分かる。自分に憎まれるのを覚悟で本当に洗いざらいぶちまけたのだ、思いつく限りの卑屈で汚い言葉で。こいつのやりそうなことだ。怖いものがないんだ、こいつは。
「…ああ、そう。で、何、三蔵様は俺が男もイけるからって俺のこと警戒しだしたって訳か」
「三蔵の考えることなんか僕が知るもんですか」
 腹をくくった男をこの場でいつまでも相手にしてても仕方がない。悟浄は有無を言わさず三蔵を部屋から引きずり出した。その気になれば逃げられるだろうに、意外と素直についてきてくれたのが、今の悟浄にとって唯一の救いだ。
「どうなんだよ」
「何が」
 相変わらず三蔵は目を合わせない。
「俺があいつとああだから?男相手に平気でやっちゃうような獣だから、もう酒にも付き合えねって?坊主のくせしてそーいう基準で人を見るわけ?悪ぃけど金積まれてもてめえみたいな生臭に手なんか出さねえよ」
「分かってる」
「じゃあ何が問題なんだよ、うざってえな!」
「時間くれっつってんだ!いくら俺でも、あーそうですかじゃすまねえんだよ、理屈じゃねえだろ!てめえだって悟能が姉貴とやってたって聞いてすんなり聞き流したか!? だいたいこれ以上軽蔑なんかしようにもできねえっつーんだ、しばらく構うな!」

 三蔵は受け入れてくれると思う、多分。いつになるかは分からないけど。
 でもそうだとして、仮にそうしてくれるとして、戻ってくるだろうか。

 あの祭り。


fin

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