ニ シ ヘ ヒ ガ シ ヘ








「…楽ですねえ」
 八戒が風に黒髪をなぶらせながら、気持ちよさそうに空を仰いだ。
「人に運転をまかせるのがこんなに楽だとは思いませんでしたよ。眠くなったら眠れるし、おなかが空いたらゴハン食べてもいいんですよねえ…。皆さん今まで僕に一瞬も気を抜かせず働かせておいて、こーんな楽しい旅してたんですか」
「俺も八戒が隣だと、すっげえラク〜」
「うるせえ猿」
 ジープのハンドルを握っているのは悟浄だ。
「悟浄、貴方片手で運転してるでしょ。危ないですよ、道が悪いんですから」
「おまえもうるせえよ!どこの誰が10時8分の角度でハンドルに手をそえるなんて教習マニュアル守ってる奴がいんだよ。だいたい両手塞いでどーやって煙草吸うんだ?」
 助手席の三蔵が、さも嫌そうに悟浄の口元にライターを近づけた。
「運転の間くれえ我慢できねえのか?」
「あーじゃー三蔵、次、交代な。吸わずにどこまで行けっかやってみな」
 クラッチを踏み込んでギヤを落とした瞬間の微かな違和感。
 やっぱり。
 悟浄は八戒に気づかれないよう舌打ちした。
 今まで何度か運転席に座ったが、自分とジープの相性が悪いのか、そもそも八戒以外の人間に運転されるのが嫌なのか、どことなく操作が体に馴染まない。昨晩三蔵にそう漏らしたときは「てめえが乱暴だからジープが怒ってんだろ」とさっくりかわされたが、八戒の運転だって丁寧とは言い難い。下りに入るたびに燃費節約とか抜かしてギアを外すようなめちゃくちゃな運転する奴に「危ないですよ」なんぞと言われたくない。
 悟浄はそっとハンドルを撫でた。こんなことでジープの機嫌がよくなるとも思えないけど。

 その日、三蔵一行が宿に入ったのは午後8時。
「結構遅くなっちまったな。わりととばしたのに」
「ま、いいじゃないですか。明日朝イチで出るんでしょ?」
 食後の熱いコーヒーを啜りながら、何でもないように八戒が言う。まるで、本当に何でもないように。
 悟空はまだ食い足りないらしく厨房と食堂の間を行ったり来たりしているし、三蔵は例によって新聞に没頭している。いつもの夜だ。全員個室なのに誰も部屋に戻ろうとしないことを除けば。
「あ、悟浄」
 窓に映り込んだ三人の様子をぼんやり眺めていた悟浄は、そのままの姿勢で「何」と短く応じた。
「近くに川ありませんでしたっけ。そこから見えません?」
「見えねえだろ…真っ暗だぜ」
 それでも窓を開けて身を乗り出してみる。悟空が「水の匂いがする」と人間離れしたことを呟いた。
「…だとよ」
「散歩に行きません?水に触りたい気分なんです」
 いきなり突飛なことを言い出した八戒に面食らって三蔵に目をやると、これも相変わらず新聞に目を落としたまま「気をつけてな」と珍しく柔らかい口調で言って寄越した。
 気をつけてな。

 暗闇で、濡れた石に足をとられた。
「大丈夫ですか悟浄。すいませんね。僕はともかく貴方が大変でしたね」
「思ってもないこと言うなって」
 一瞬離れた八戒の手を繋ぎなおして、悟浄は周囲を見渡した。雲が切れて、薄い三日月に水面が揺れている。
「結構水綺麗だな。暗くてよく分かんねえけど」
「深いんでしょうかね」
「さあ、いつか旬麗と会った時にジープごと落っこった川くらいじゃねえか?腰よりちょっと下…」
 言い終わらないうちに、突然八戒に川の中央目がけて突き飛ばされた。派手な水飛沫を上げて一瞬沈んだ後、自分の体が浮き上がるまで何が起こったか分からなかった。
「…てっめ、気でも違ったか!底に頭打って死んだらどうする!!」
「どれくらいの深さかなーと思って。平気みたいですね」
 まったく悪びれずに水の中に足を踏み入れると、八戒は俯いたまま面食らっている悟浄の前までザブザブ歩いてきて、ぶつかる寸前で足を止めた。
「…おまえが何がしたいのか全然分かんねーんだけど」
「水に触りたかったんですってば」
「…何も全身で触らなくてもよ」
 悟浄の腕を掴んだ八戒の指が、這い上がってきて紅い髪に絡んだ。
「濡れるとますます紅くなるんですよね、貴方の髪」
「そうだっけ?」
「好きでした」
 八戒の言うのが髪のことなのか自分のことなのか一瞬混乱したが、過去形なんだから髪のことだろう。思い上がりではなく、川に突き落としておいて自分のことを「前は好きでした」なんて言われたら即殴る。
「帰ってきてくださいね。三人とも無事で」
 顔を上げないもんだから、八戒の表情が分からない。
「最悪、俺だけでいいから戻れって言わねえの?」
「酷い事言いますね。ひとりでも欠けてたら残りの方々も許しませんよ」
 いつものように微笑んでいるかもしれない。泣きたい時には笑う奴だ。ここでなら泣いても分からないのに。そのためにここまで来たんだろうに。髪を伝って零れる滴が、八戒の袖を濡らしていく。
「お願いがあるんですけど」
「無事で帰れってのはお願いじゃねえのか?」
「それは当たり前のことじゃないですか」
 八戒は俯いたまま小さく息を吐いた。数秒の間のあと、不意に顔を上げる。
「ジープが拗ねてるかもしれませんけど明日から貴方が飼い主なんですから、きちんとしつけてくださいね。何のかんの言って貴方、子供と動物と女性はすぐに甘やかすんですから」
 本当に言いたいのはそんなことじゃないだろう。
 わざわざ口に出すほど悟浄は子供ではなかったし、口に出さなくても伝わることを期待するほど、今はまだお互いに特別な存在ではなかった。このまま旅を続けていればそうなったかもしれない。そうなる理由は山ほどあった。
 何もかも、まだ途中だ。
「…しつけるったってなあ。手ぇ出す訳にもいかねえし」
「なーにを言ってんですか、出すんですよ。なめられたらおしまいですから、逆らったら叩いてください。あ、貴方が本気でやったら死にますからね、これくらい」
 八戒はパチンと悟浄の頬に掌を当てた。
「…まあ、頑張るけどよ」
 結構痛ぇぞ、とぶつぶつ言いながら、闇の中で悟浄が手をひいてくれる。
 何のてらいもない、後ろめたさもない、当たり前の親切心で。
 相手が八戒でなくても悟浄はこうしただろう。泣いても笑っても見ない振りをしてくれるだろう。

 この目が悟浄のせいだったら良かったのに。

 河原に上がった八戒の足下で、小石が割れた。
 そうしたら人の好いこの男は、もう自分から絶対に離れていけないはずなのに。一生縛り付けておけたのに。
 明日の昼にはこの街に、三仏神が東へ向けての足を回してくれる。その前に三人は八戒を残して西へ発つ。
「…せっかく水からあがったのによ」
 悟浄の指が、二度と開かない八戒の瞼を乱暴に拭った。
 




fin

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