屋 上 制 圧
毎度毎度思うのだが、どうしてあの男はこう自分を不機嫌にすることしかしないのだ。
天蓬は便所下駄を引きずりながら、館内の階段の踊り場で息をついた。怒りのあまり息が熱い。
本当に、不思議でしょうがない。
自分に何か恨みでもあるのか。
ずぼら具合が嫌だとか顔が嫌だとか下駄が嫌だとか何とか言ってくれればいいのだ。そうすれば、直すか直さないかは別にして対策がうてる。整形まではできないが、あの男の前で下駄を脱ぐくらい、してやってもいい。
「元帥はいいですよ!俺らで探しますから」
軍議直前に大将に逃亡された部下達が口々に申し出るのを「捲簾の居場所は僕がよく知ってますから」などと余裕かまして出てきたはいいが。
知るか。
知ったことか。
大将に振り回される軍師の図など、部下に見せる訳にいかない。いや、勿論他の誰にも。
天蓬は煙草に火をつけると、ポケットに手を突っこんで深呼吸し、ゆっくり階段を上がり始めた。
おそらく捲簾は、夜通し酒を呑んでいた。今朝一瞬すれ違っただけだが、軍服に厚く染み付いた煙草の匂いは間違いなく一晩分。探りを入れたが、部下の誰も相伴に預かっていない。おまけに捲簾は昨日、上層部の定例会議に出席している。
「…荒れたんでしょうね…」
呟いた天蓬は、自分の不機嫌が薄れたことに、まだ気が付かなかった。可愛いもんだ。
一晩中、ひとりでやけ酒。
となると逃亡目的は酔い覚まし。
酔い覚ましには外。
風がふくところ。
人が来ないところ。
…来れないところ。
天蓬は屋上へ通じるドアをそっと押し開けると、白衣と下駄を脱いで、そのへんに放り投げた。屋上といっても物干しがあるわけでもテラスがあるわけでもなく、屋根の瓦を葺くための足場のようなものだ。せいぜい4メートル四方の石畳に申し訳程度の手摺り。地面までたっぷり五階分、足を滑らせたらもれなく昇天。こんな手摺りを乗り越える馬鹿はいない。あの男と屋根葺き職人以外。
風にはためくネクタイの先をシャツの胸ポケットに突っこんで、天蓬は手摺りを軽々と乗り越えた。
緊張するな。体の力抜け。
戦闘中の捲簾の口癖。無茶苦茶だ。どこのどなたが今そこにある危機を前に弛緩できる。そんなのは貴方だけだ。
貴方だけだ。
捲簾は屋根の上で寝ていた。
予想通りの状況だったにもかかわらず天蓬は何度か目を擦った。寝返りを打ったら転げ落ちるだろうに。
「…捲簾」
頭の後ろで手を組んで、剣も差したまま、本当に本気としか思えない穏やかな寝息。
天蓬は慎重に捲簾のすぐそばに辿り着くと、身を屈めた。
「…熟睡ですか?」
捲簾の吐く、まだ微かにアルコール臭い息のせいで眩暈がした。ここで下手に揺り起こすのも危険だ。
天蓬は体を起こし、突っ立ったまましばらく捲簾を見下ろしていた。
一瞬、血迷った。
落ちればいいのに。
「……人を跨いじゃダメだって、お母さんに教わらなかったか?」
捲簾がようやく片目だけ開けて、眩しそうに天蓬を見上げた。
「俺の両脇が、いい立ち位置なの?」
「……と言いますか」
跨いで見たかっただけだが。
その辺りの自分の感情が上手く説明できる自信がなかったので、天蓬は策を弄するのをあっさり諦めた。
「…気分がいいなーと思いまして」
「あ?」
しばらく滲んでいた捲簾の目の焦点が合ってきた。色素の薄い瞳に光が入る。
「…おまえ、もしかして俺にすっげえ頭きてる?」
「僕がいつも貴方のフォローをしたくてしてると思わないでくださいね」
「…へぇ、したくてしてるんだとずーっと思ってた。じゃーやめるか?」
天蓬は曖昧に笑うと、足を小突いて「どけ」と合図してきた捲簾の上から退いた。
それで、終了。
自分を一から十まで好き放題振り回す捲簾へ、
せいいっぱいの、二分三十秒の独裁。
fin
浅倉様のリクエストは「どっちかが寝ているのをどっちかが発見する話」。そ…そのまま…。
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