タイタニック沈没







タイタニック号。処女航海で氷山に衝突し、海に沈んだ豪華客船。
S.O.Sのモールス信号が発信された初の海難事故。


「俺がおまえに、面白いと思ったものを貸せと言ったのは間違いだった」
 ノックもなしに部屋に入ってくると、金蝉はポンと先日貸したばかりの本を投げ出した。
「おや。お気に召しませんでしたか」
「おまえにとって面白いだろう事はよっく分かる。そういう意味では面白い」
 ソファーに寝転がったまま「世紀末辞典第2巻」の袋とじを綺麗に裂くのに全神経を総動員していた天蓬は、その声でやっと顔を上げた。
「どういう意味です?」
「おまえが常時日頃尻に敷いてる捲簾大将はどうした?今日はいないのか?」
 金蝉の言葉で、おおかた言いたいことは分かってしまった。
「いたらこんな作業任せますよ。僕、昔から付録の工作とか糊付けとか手先の事が苦手で。…確か部下の誰だかと昼食に出てるはずです。ああいう言葉の使い方を一通りしか知らない人は、目上には嫌われても下の人間には懐かれますから」
「ありゃ天然だから捲簾の掌握術をパクるのは無理だぞ。天蓬元帥が最近妙に部下に優しいと評判になってるが」
「…僕はいつでも誰にでも優しいですよ」
 微笑むのに失敗した。

 生憎金蝉は軍部と直接関係のない立場だが、味方につけておいて損はない。「タイタニック」の代わりが思いつかず、とりあえず悟空への土産の「アン●ンマン、危機一髪」を小脇に抱えて天蓬は部屋を出た。
 昼食の時間はとっくに終わっているはずだが、捲簾は部屋に顔を出さない。
 捲簾も、金蝉のように分かりやすく皮肉をとばしてくれる男だったら楽なのだ。あの飄々とした物言いと、欲望に忠実な立ち回り。裏表のない性格。馬鹿と紙一重の素直さ。捲簾を自分に忠実な犬と信じ込んで、見事にしてやられた。今思い出しても腹の立つ。
 いい気分だろ、天蓬。
 自分の作戦に何の異議も唱えずのってきた捲簾を、内心小馬鹿にした途端の痛烈な皮肉。あの男は頭が切れる。腕もたつ。下手すればこっちがいいように使われる。何としてもあの男をおとさなければ、天界きっての軍師の名が泣くというものだ。
 要は捲簾を孤立させてしまえば済む。天蓬を通さなければ上にも下にも身動きできないようにしてしまえばいい。
 …大人しく自分の言いなりになってればいいものを。
「元帥、お疲れさまです」
 部下のひとりが廊下で道を譲り頭を下げた。途端ぷっと噴き出した。
「何です失礼な」
「いえ、あの…アン●ンマンが目に入ってしまって」
「悟空に持って行く途中だったんです。大人が読んでも結構面白いんですよ?特に食●ンマンの横顔が笑えて」
「金蝉童子のところの御子なら、中庭で捲簾大将と泥団子作ってましたよ」
 どろだんご。
「…悟空まで丸め込むとは油断も隙もない」
 天蓬が漏らした呟きは、幸い部下の耳には届かなかった。
「大将のような方が上にいてくれると助かります。あの人の無茶見てると小気味よくて」
「でも馬鹿ですよ」
 身も蓋もない天蓬の返事に、彼は一向動じない。
「あはは、元帥に言わせればみんな馬鹿になっちゃいますよ。話しやすくて部下思いで、贔屓も妥協もしない。僕には自慢の大将ですけどね。あ、勿論元帥がいらっしゃらなければ手綱の切れた馬みたいなもんで危なくて寄れないですけど」
「僕はあの人の家畜番じゃありませんよ」
 天蓬はようやくこの部下が捲簾のお気に入りだったことに気がついた。道理で自分の辛口トークにびくともしない。実に教育が行き届いている。
「元帥は大将と逆ですね。遠い方です」


「で?何を不機嫌なの元帥様は」
 泥の中から天蓬に引っ張り出された捲簾は、自分で洗った軍服をさっさと窓からつり下げた。
「何で僕の部屋に干すんですか」
「日当たりがいいから。あーあ、何この切り方。袋とじにはコツがあってだな…なんだエロ本かと思ったら死体写真か、趣味悪」
「捲簾、お話があります」
 改まった声に、捲簾はTシャツにもぞもぞ首を突っ込みながら椅子に座った。
「何でしょうか」
「僕は貴方ほど部下に好かれてないんでしょうかね?」
 捲簾は、鳩が豆鉄砲食らったようなキョトンとした顔で天蓬を見詰めた。キョトンとしながら脳はフル回転しているかと思うと、またムカつく。
「…畏敬の念を抱いているのではないでしょうかね?」
「何ですかそれ」
「カリスマなんじゃねえの?ああ、憧れの元帥様って感じ。俺は、よお大将!って感じ」
 そこまで言って、捲簾はへろっと笑った。
「あ、もうおまえの考えてること分かっちゃった。俺の人脈断とうとしてる?」
「それ以上喋ると殺しますよ」
 おとそうとしている当の獲物に手札を晒すようじゃ軍師も終わりだ。今のところ自分は捲簾に好かれている、武器はそれだけだ。好きになったらこっちが負けだ。
「タイタニックを沈めたのは何だと思う?」
 頬杖をついて風にはためく軍服を眺めていた捲簾は、ふと金蝉が置いていったままの本を指で弾いた。
「氷山でしょう?」
「いーや。この船は絶対に沈まないという信念」
 信念。
 この船が沈むという事実を、最期の瞬間まで信じなかった船長の信念。
 無敗を誇る自分の信念が沈めようとしている不沈艦。
「俺はいつでも沈む準備万端だぜぇ、天蓬」
 天蓬は思わず目を閉じた。
 
 負けようか。



fin

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