浮 気 レ ッ ス ン
「浮気者」
実に爽やかな朝だった。
出勤の挨拶に寄った信頼厚き腹心の友に、真っ直ぐ見据えられて開口一番こんな台詞をくらえば、捲簾でなくても二、三歩よろめく。
「…朝っぱらから何抜かすんですか、うちの副官は」
天蓬は最初のひとことを勢いよく言ってしまうと、もう興味を失ったように床に座り込んだまま手元の本に目を落とした。
「昨日の晩。どこにいました?」
「昨日は某おねーちゃんと一緒にいましたけど。ギャル系の」
「何系だろうが知ったことですか。やることやったんでしょう。じゃあ浮気ですよね。浮気したんですよね」
「何が言いたいの?」
天蓬は、延々と上司をそこに立たせておいてページを繰り続けた。捲簾が黙って辛抱強く待っていたのは、天蓬の視線が文字を追っていないからだ。
ようやく天蓬は視線を上げ、凭れた壁にコンと後頭部を打ち付けた。
「貴方の本命の彼女は、なんとか言う医局の眼鏡の子じゃないんですか?」
「一応、今はそうかな」
「じゃあ浮気ですよね」
何を今更天蓬に女遊びをとがめなければならないんだ。プライベートに口出ししたことなど一度もなかったのに。
「浮気だったら何だっつーの」
「貴方の彼女が知ったら、怒りますか」
「浮気だったら、怒るだろうな」
「もう別れる!とか言いますかね」
「もし浮気だったら、言うだろうな」
そうですか。声には出ないが唇がそう動いた。
天蓬は普段こんな回りくどい物言いをする男じゃない。意図はさっぱり掴めないが、何か腹に溜めていることがあって、それはきっと余程の事なのだ。
「…あいつにバラしたいの?」
「その前に浮気したって認めてください」
「してない」
捲簾は間髪いれずに返した。天地がひっくり返っても浮気を浮気と認めるな。浮気者の鉄則だ。
「一晩一緒にいたんでしょう」
「いたけどやってない」
何をかくそう真実だ。夕べの子とは初対面だ。初日からがっついて一気に最後までいってしまったら後の楽しみが薄れる。
「やってなくても気持ちが浮ついたら浮気でしょうが」
「浮ついてないから。俺は何時如何なる時にも常に冷静沈着だから」
「じゃあどこまでやったら浮気なんです」
「おまえな!」
冷静沈着であっても我慢の限界はあるのだ。右耳の脇ギリギリ、壁にのめり込まんばかりの勢いで蹴りをくれてやったが天蓬は身動きもしなかった。
「ぐだぐだぐだぐだしつっけえな。おまえじゃなきゃ顔面に入れたぞ」
睫が触れるほどの距離で眺めても、天蓬の目には何の表情も浮かばない。
「おまえに言い訳する義理なんぞどこを叩いてもねえぞ。中に入ったら浮気だ。それが俺の基準だ。分かったら先刻から何が気に入らなくて何の権利があって何様のつもりで俺に喧嘩売ってんのか今すぐ説明し」
胸倉を掴んでいた捲簾の手首に冷たい指が巻き付いた。驚いてつい力が抜けた。
「捲簾」
捲簾は呆然と、自分の右手が天蓬のいいように扱われるのを眺めていた。宙に浮いた手の甲をジリジリと唇が辿り、人指し指と中指が二本まとめて呑み込まれ、浮遊感が襲ってくるまでしつこく舌で嬲られて、やっと解放された。
「これは浮気ですか」
天蓬の中で濡れた指と反対に、カラカラに乾いた喉に声が引っかかる。
「…だから浮気だったら何なんだよ」
「貴方の彼女が知ったら、怒りますか?」
おかしいな。捲簾は、目の前の副官の、憎たらしいほど整った顔からようやっと視線を剥がした。
昨日一晩過ごした女どころか、本命のはずの女の顔もよく思い出せない。
「浮気ですか?捲簾」
浮ついてるしな。
fin
あやね様のリクエスト「捲簾の指をなめる天蓬」。
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