極
東
の
渚
「海…!?」
目前に広がった光景に悟空が歓声を上げた。
砂浜と、それを取り囲む岩場。果てのない青が夕陽と溶けて流れ出す間際。うち寄せる、柔らかな波。
「海…じゃねえよな…」
「湖ですね」
手元の地図に、水面に乱反射した夕陽が当たるのを遮りながら八戒が言う。
「湖!?こんなでっかいのが!?」
「水平線のあたり、影があるでしょう。悟空なら見えるんじゃないですか?」
「あ、あれ雲かと思った。あれが向こう岸?」
「岸と言うより山地です。あんなに低く見えるくらいですから内陸にしちゃかなり巨大な湖ですけどね。明日一日走れば越えちゃいますよ」
「えーっ、もったいねー!」
まだ興奮醒めやらぬ悟空がジープから飛び降りようとするのを、三蔵が止めた。
「待て馬鹿猿!明日も一日中嫌っつーほど見れるだろ。とりあえず今夜の宿だ、宿!」
「そうですねえ。この辺りの宿屋は一軒しかないはずですから、さっさとキープしに行かないと」
言いながら八戒は、さっきから後部座席で黙りこくったままの悟浄をそっと窺った。
「…それからですね」
水面から吹いてくる風が真紅の髪を舞い散らし、八戒の視界を遮った。
「やっぱりここでしたか」
夜中に宿を抜け出す悟浄に気がつかない八戒ではない。ベッドの中できっちり千数えてから後を追ったのだが、まっすぐ悟浄の居場所にたどり着いてしまった。
「後でひとりで来るつもりじゃないかとは思ったんですけど」
夜の「海」は塗り込められたような漆黒の闇だ。普通の人間なら岩も水も砂も見分けがつかないくらい。
「嫌な奴」
「何がです」
「男が夜中にひとりで海を見に来る状況を読めよ」
「読んだから来たんです」
「…ほんと、嫌な奴」
「何とでも」
悟浄が腰掛け代わりにしていた流木から、ほんの少し離れた砂浜に、八戒は腰を下ろした。
「酔っぱらいを水場に放すと引きずり込まれまるのが相場ですから。見張ってます」
思った通り悟浄からの返事はない。
随分長い間、ふたりは一言も喋らず「海」を眺めていた。静寂が耳に浸みる心地よさは、彼から教わった。
悟浄は元々は無口だ。
悟空や、もしかしたら三蔵も気がついていないかも知れないが、目的もなく話すのが嫌いなのだ。
ふたりに軽口をたたくのは、そうした方が何もかもうまくいくことを知っているからだ。
八戒に必要最小限のこと以外話さないのは、そうしていても何もかもうまくいくことを知っているからだ。
3年前のあの日のことはまだよく覚えてる。同居を始めて間もない頃。
あんなにぺらぺら喋りまくっていた悟浄が突如ぱったり話すのを止めた。話しかけると普通に返事をする。怒っているわけでも疲れている訳でもない。八戒以外の人間とは、相変わらずよく喋った。
「自分のことどう思うかって聞かれるのが、昔から一番苦手」
悟浄につられて黙りがちに寝酒に付き合っていた八戒に、悟浄はぽつんと呟いたものだ。
「好きなら冷たくしねえし嫌いなら一緒にいねえだろ。行動で示してるものを、わざわざ言葉にする必要があるか?」
「…それでも言葉が欲しい時もあるんじゃないですか」
「おまえも欲しいの?」
おまえには必要ないと思ったけど、俺の勘違いか。
そんな風に追いつめられて誰が逆らえるだろう。それ以来、もう、聞けない。
嫌いなはずの言葉を使って、悟浄は八戒の口を完全に塞いでしまった。
もう随分長い間。
「…悟浄。嫌がらせしてもいいですか」
「イヤだっつってもするんだろーが」
「僕のこと、どう思ってるんですか?」
悟浄がライターを擦る音。
八戒が好きな瞬間だ。ほんの小さな火が、悟浄の髪と瞳のせいで燃え上がるように見えるから。
「聞きたいんです」
また、すとんと沈黙が落ちてくる。沈黙は今更辛くない。何時間でもねばるつもりで、八戒は足下の砂を掬っては指の間から零し続けた。
思いがけなく現れた「海」のせいだ。どろどろした黒い海が、凄まじい力で八戒を掴んで引っ張っている。何かの底へ。
「…俺は目に見えないものは信じない」
ようやく悟浄が口を開いた。
「言葉のことですか?」
「気持ちのこと」
「貴方の?」
「おまえの」
微かに、悟浄の視線が流れてきた。もう近づいてもいいサインだ。
言葉が消えたぶんだけ言葉なしで伝わることが確かに増えた。悟浄は多分、正しい。
それでも言葉を使う以外、不自由な生物には伝達手段がないのだ。
砂を払って立ち上がった八戒は、悟浄の隣にとん、と腰を下ろした。
「…僕は好きですよ」
「悪いけど、いらねーんだわそんなもん」
煙草の火が、音もなく落ちて砂に埋もれていく。
「心臓をよこせ」
骨も肉も全部味わい尽くして分からせてやるのに。
言葉よりこの唇が、気持ちよりこの心臓の方が信じられるなら、いくらでも引き千切ってあげるのに。
せめて一言、言葉で望んでくれたらこの手で音のない海に沈めてやれるのに。
返せるのは身動きできないほど込めた腕の力と、噛みちぎらんばかりの激しいキスだけ。
fin
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