俺が退屈していると奴はやってくる。
やってくると言えば簡単だが、名門旧家の名物御曹司が蛍坂を降りてくるだけでも結構な大事件なので、俺は往来のざわめきが近づいてくることで奴がやってきつつあることを知るわけだ。まあ俺は日常的に退屈なので、つまり確率の問題だ。
「こんにちは悟浄」
八戒は町中の好奇の視線などそよ風ほどにも感じていない。慣れたのだ。10年近くも浴び続けて。
「…ごきげんよう八戒」
「暇そうですね」
俺は窓辺の盆栽に当てていた聴診器を耳から外した。
「貧乏人は粗食食らって汗水垂らして働いてっから健康なんだよ。おまえと違って」
八戒は後ろ手で戸を閉めた。家の中まで遠慮なく進入してくる連中の視線が、パチンと閉め出された。
「いつものお薬、都合してもらえます?」
蛍坂というのは文字通り、蛍石という緑がかった石を敷き詰めた石畳の坂だ。八戒の生誕を記念して父親が贈ったそうだ。坂を。
この町で舗装らしい舗装をされている道はこの坂しかなく、登り切ったところで八戒の屋敷しかない。八戒のために作られた道。八戒の継いだ財産が如何ほどなのか、しがない町医者の俺には、しかも暇で暇で職業を忘れそうな俺には想像がつかない。
上がり框に座って足をぶらぶらさせている八戒は色が白く抜けた度を超した美男子で、普通なら女も男も放っちゃおかない。が八戒は普通ではないのでそうはならなかった。完璧に配置された目鼻は人形のようでまるで血肉を感じさせず、人を不安にさせた。何よりまずいのは瞳が緑だったことだ。蛍石を敷いた時には息子の目が緑色だなんて夢にも思わずにいた先代は、奥方の不貞を疑った。やがて蛍坂の上には、跡継ぎであるまだ十に満たない八戒と、一握りの親族、そして使用人しかいなくなっていた。先代夫婦は消えたのだ。元華族の屋敷内は法治外国家だ。当主と奥方の行方は未だに知れない。
どの腹から生まれた鬼子だ。
先代夫婦を食っちまったんじゃねえのか。
手酷い騒音を聞き流しながら、緑の目の御曹司はここに来る。町中を、涼しい顔でゆっくりと歩いて。聞こえよがしの陰口を冷え冷えとした目で押し返すその不敵さが、浮世離れした佇まいが、ますます噂に拍車をかける。
「なんでここが最近はやんないのか、知ってんのかい悟浄」
その日は二階の屋根を葺いてて落っこちたという近所のばあさんがやってきて、俺に悠々と湿布を貼らせていた。
「ばあちゃんみたいに屋根葺きに精出す輩が減ったからな」
「たわけ」
湿布を貼った肘が腹に飛んできた。
「これ以上健康になろうなんてムシよすぎんじゃねえのかババア!」
「やかましい!」
ばあちゃんは仁王立ちになると俺に指を突きつけてまくし立てた。
「あんたをガキの頃から知ってっから言うんだ!どんだけ苦労してきたか知ってっから親切で言うんだ!あんたはいい子だよ、懐っこくて優しい子だよ、だからそんなナリでも生きてこれたんだ、それをあんな汗水も知らない気味の悪い御曹司と憐れみあってつるんでたら昔と逆戻りじゃないか!」
俺はぱちんと鋏を鳴らし、ばあちゃんが黙った。
「二度と落ちんなババア。もう看ねえ」
その夜、初めて蛍坂を登った。
八戒は夜眠れない病で、一度に大量に薬が出せない。といって奴がわざわざ町中の見せ物になりながら俺のところへ来る必要はない。遣いを寄越せば済むことだ。汚れ仕事を受けてきた梁井出の孤児と、元華族様ではあまりにも身分が違う。本来ならお言葉を頂くだけでも畏まる立場だ。容姿が人間離れしているのをいいことに、八戒の持病をいいことに、薬をたてに呼びつけていたのは俺だ。
昼間、俺はわざと薬を違えた。飲んでも害はないがどう間違っても眠くはならない。そもそも色が違うから、床につく前に気が付くはずだ。「薬を届けに来た」という方便がなければ登れないほど蛍坂は長く、暗く、敷居は高かった。
巨大な動物が蹲っているような屋敷の戸を力一杯叩くと使用人が出てきて、どこまで続けば気が済むかと怒鳴りたくなるような長い廊下を延々歩かされてから、部屋に通された。待たされている間、俺は懐から八戒の名を書いた薬袋を引っ張りだした。
もうこの町で医者はできない。元々俺は闇医者だ。極道者の腹塞いだりクスリ回したりで食い繋いでいたところへ、八戒がらみでますます患者は減った。俺はどこでだって生きていけるが八戒は違う。跡取りを攫う訳にはいかない。これ以上さらし者にする訳にもいかない。
…お別れだな。
俺は諦めるのに慣れていた。しんみりしていたら、沈痛な空気を吹き飛ばす勢いで八戒が襖を開けた。
「わざとでしょう!」
八戒は薄い寝間着を羽織っただけだ。
「…おまえ、着やせするタチだな」
「僕のせいで町中で注目浴びるのに耐えかねましたか。僕が気に食わないなら回りくどい嫌がらせしないではっきりそう言えばいいでしょう!」
あれだけはっきり見とれていて無用な茶飲み話で引き留めていれば、想いも少しは通じていると思ったが、存外御曹司というのは鈍いもんだ。それより絡繰り人形でももう少し愛想があるほどに無表情なこいつが、ほとんど涙ぐまんばかりの勢いで怒鳴り散らしているのはどうした訳だ。
「何ぼけっとしてるんです。わざとじゃないんですか?」
「…だから今こうして薬をお持ちして…」
「わざとじゃないですか!」
「わざと会いたかったんだ!」
タイミングとしては最低ではあった。これが最後だと思うと肝が据わり、俺はそう長くもない人生のありったけを八戒に話した。ただでさえ評判の悪い八戒を、わざと町中に引っ張り出した。俺が八戒に近づける唯一の人間であることを世間に知らせたかった。八戒が俺以外のすべての人間に嫌われればよかった。嫌われれば嫌われるほどよかった。他にどうすればいいのか分からなかった。他人に興味を持ったことがなかったから、人がこんな時にどうするものなのか、分からなかった。
八戒は黙って聞いていた。それから「そんなこと」と呟いた。
「とっくに知ってましたよ」
開かずの間というものがある。
特権階級は外から血を入れることを極端に嫌う。親族内で血族結婚を繰り返す。誰もいなければ兄妹でも親子でも交わる。妙なのが生まれると開かずの間で飼い殺す。古い屋敷にはだいたい似たような伝説がある。
俺は開けずに用が済むほど部屋の余った家を知らないので、今初めて見ている。
「これが開かずの間?」
「とりあえず、開けちゃいけないことにはなってますね」
目の前の扉は黒の引き戸で、取り立てて不気味というほどでもない。そもそもこの家が全部不気味なので、取り立てるほどじゃないのだ。
「悟浄が思っているようなものとはちょっと違う」
「よかった。誰か監禁でもされてんのかと思った」
「先代がここに入ったっきり出てこないんです。奥方も」
八戒は自分の親であろう人物のことを、他人のように話した。
「出てこないって?何年も出てこないってこた、居心地がいいのか?」
「ここに入るとどんな望みも叶うんだそうです。そう言われてます」
とりあえず遮ろうとした俺を、八戒は聞けと手で制した。
「先代夫婦は元々仲が悪かったんです。結婚といったって親族会議で勝手に決められたうえに年が30も違った。奥方は夫を愛していなかった。かといって離婚もできない。家からも出られない。奥方は思いあまってこの部屋に入った。死んでもいいと思ったんでしょう。家訓を破ってやろうという気持ちもあったかもしれません。でも三日後に、無事に出てきた」
「…良かったな」
「出てきた時には腹に子供がいたそうです。それが僕。確かに奥方は子供を望んでました。でも欲しいのは大嫌いな夫の子ではなかった。奥方はなかなかに面食いで、先代はお世辞にも美男子とは言えませんでしたから、理想の若い男に抱かれて理想の息子を生みたかった。だから大喜びで僕を可愛がった。先代は怒りますよ。どう見ても自分の子供ではないし、もしかしたら人間の子でもない。ますます荒れて奥方を殴る蹴るの大騒ぎ。奥方の逃げ場はやっぱりここしかなかった。昔、願いを叶えてくれた部屋。そして今度は出てこなかった。先代は直系だけあって部屋に入ることを随分躊躇いましたが、結局周囲が止めるのも聞かず奥方を追っかけて入ってしまった。彼なりに、奥方を本気で愛していたのかもしれません。それっきり出てこないから本人には聞けませんが」
八戒は腕組みをしたまま目を戸に据え、奇妙な事を淡々と語った。
「夜はきちんと薬で眠っていないと、誘惑に負けてふらっと入りそうになる。呼ばれるんです、あっちに。使用人も止めません。僕がいなくなれば辞められると思ってる。どうせこっちにいたって貴方とどうにもなれないし家からも逃げられない。もう戸の中でも外でも同じことです」
俺は初めて八戒の正気を疑った。
あっちとかこっちとか言ってるが、まるで扉の向こうにもうひとつ世界があるような言い方だ。人が部屋に入って消えるなんてこと信じてるのか。入って出てこないんだから、中で死んでるに決まってる。
「僕は来年結婚することになってます。会ったこともない従姉妹と。ごめんだ」
急に俺の髪がふわりと舞い上がった。
風が吹いてくる。部屋の中から風が。
何か来た。
すとんと、頭の中に何かが。
…俺がこっちにいる必要はない。
俺は確かに愛想がよかった。人に媚びるしかなかったし、人に縋るほかなかったし、でなければこっちから潰すしかなかった。それが生きる術だった。生まれた場所のせいで。髪と目のせいで。俺のせいか、そんなことが。ずっと辛かった。本気で笑ったことなんか1度もなかった。でも人生を投げようと考えたこともなかった。運命だと諦めた。疑問を持ったことがなかった。考えたことがなかった。なのに急に、虚しくなった。そういうものが一度に頭の中に入ってきた。
八戒は一歩後ずさった俺を見て、微笑んだ。生きるために笑う必要のない男が、初めて笑った。
「行きませんか。一緒に」
本気の証拠に八戒の目はほとんど青く光っていた。白い手が引き戸の鍵を外した。
中に入れば望みが叶う。俺の望みが。
「悟浄」
八戒は出てこなかった。
十日も御曹司の姿が見えないなんてことは今までになかったから、町ではさっさと先代と同じく神隠しにあったという噂がたった。
ということは鬼は八戒じゃなかったのか、と。まあ今更どうでもいいことだ。
俺はまた蛍坂を登った。この坂は嫌いだ。八戒の目の上を歩くようで。
御曹司が消えたんだからいずれ患者も戻る、と引き留めるばあさんを振り切って、身の回りのものは全部捨てるか焼くかした。もう必要ない白い粉薬だけは、まじないのような気持ちで懐に突っ込んだ。
俺はあの日、部屋には入らなかった。正直言って怖かった。何も起こらないかもしれない。事実、奥方は1度出てきた。それでも八戒の話は、聞いた途端に消化するには俺の脳の容量を超えていた。
俺が竦んでいると、八戒は俺の手を一度握ってすぐ離し、振り向きもせず戸を開けて中に入った。
「おい、待…」
その瞬間俺は見た。
部屋の中に、月を。
屋敷の戸を叩いて八戒に会わせろと言うと、真っ白な顔をした使用人はあからさまに動揺して「いない」と答えた。構ってる余裕もなければ遠慮する理由もなかったので、一発鳩尾に入れて屋敷に入った。
開かずの間まで行く途中、誰にも会わなかった。誰が何人住んでるのか知らないが、人の気配さえしないのは不思議なことだった。あの日あんなに怖かった屋敷は妙に温かく、俺は幾度も折れ曲がる迷路のような廊下を一度も迷わずに進んで、目当ての部屋に到着した。
奴の望みが何だったのか知らないが、ちゃんと叶っているといい。俺の望みはひとつだけ。
夜だった。
部屋の中には夜が満ち、あの時見たのと同じ月がぽっかりと浮かび、胸に入れると痛いほど澄み切った風が吹いていた。
一歩踏み出すと、足下で白い砂が鳴いた。
…綺麗だ。
ここには綺麗なものしかない。余計なものは見なくていい。他の誰の声も聞かなくていい。
こんなところで、八戒と。ずっと、ずっと、永遠に。
「悟浄」
八戒が砂を踏んでやってきた。月明かりで髪の縁がキラキラ光る。なんて綺麗な男だ。なんて綺麗な。
「十日も待たせることないのに」
「焦らしたんだよ」
八戒の目の色だけは怖かった。何度見ても慣れなかった。
奴の望みは何だったのかな。今、誰といるのかな。
俺は生まれて初めて本気で微笑い、八戒の頬にそっと触れた。
黒い瞳の八戒に。
fin
くわちゃん様からのリクエストはあちらがわ+月の砂漠+天国。
注1/蛍坂という坂が実際にありますがまったく関係ありません。
注2/蛍石という石が実際にありますが非常に脆いので踏んだら割れます。
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