お  い  し    






「どーぞ、八戒」
 悟浄が差し出した切り子細工の御猪口に、半信半疑で口をつけた。
「…味が違う…え?何で?」
「だろ?」
「こっちの方が辛い感じ。さっきブランデーグラスで飲んだやつと、中身一緒ですよね?」
 御猪口を月明かりに翳してみたが、そんなことでこの現象の謎は解けない。不覚にも素直に感嘆の声をあげてしまった自分の反応に気を良くしたのか、悟浄はまったく同じカクテルグラスに等分に注いだ「水」を目の前に滑らせてきた。
「飲み比べてみて、お客さん」
「これは同じでしょ、いくら何でも」
言いながら、交互に一口ずつ味わってみた。
「…あれ」
「右の方がおいしいだろ。右のは、こうして中身をかき回したやつ」
 円を描くようにゆっくりとグラスを振ってみせる。
 悟浄のように言動が雑な男に、ガラス細工のように脆くて透明なものが映えるのが不思議だ。どう考えても自分の方が性格は繊細だと思うのに、肉厚な湯飲みやマグカップの方が性に合う。そのせいかどうなのか、今日の催しでは完全に悟浄がホストだ。
「嘘でしょ。だって全然味違いますよ」
「こーやってグラスをガチャガチャ動かすと…」
「…まずくなった」
「な?振動とか光とか、分子一個一個にかかる負荷で味が変わるの。温度で味が変わるのは分かるだろ」
「ああ、熱い方が甘いですよね」
「そゆこと」
 事の起こりは1時間ほど前。
 外出先から息を切らせて帰ってきて玄関を開けた途端の第一声がこれだ。
「八戒、月見!月見酒!」
「…名詞並べりゃ何でも通じると思ってたら言語能力が退化しますよ。主語と動詞はどこいったんです」
「早くしろ、月が傾くじゃねえか!」
「…十五夜でしたっけ」
「あーもー風流を解さない奴はやだね!」
 言わせてもらえば、自分に自然を愛でる習慣がない訳ではない。月は一年中空にあるのに、十五夜だとか桜が満開だとか何かしら特殊な名目がなければ月も花も忘れている悟浄のほうが余程無粋だ。
「あいにくお酒きらしちゃってんですよねー…みりんならありますけど飲みます?」
「水でいい」
「は?」
「水でいいって」
 酒の買い置きを切らせた自分への当てつけかと思ったら、悟浄はさっさとミネラルウォーターのボトルとありったけのグラスを窓際に並べてしまった。この家に切り子の御猪口や琉球ガラスのぐい呑みがあった事実にも驚いたが、それより何よりこの時ほど悟浄を不気味に思ったことはない。
「…何の真似ですかこれは」
 酒屋でもらったキャラクター付きタンブラーまでしっかり並べ終えると、その如何ともしがたい男はいきなり部屋の照明を落とした。一気に射し込む、怖いくらい強い光。
「…うわ」
「これが十五夜の威力だぜ、ちょっと付き合え。あ、団子は?団子」
「…ゴキブリ用のホウ酸団子ならありますけど。何度もお聞きしますけど水飲んで何が楽しいんですか?」 
 思ったことをそのまま口に出したら、悟浄は怒るどころか我が意を得たりとばかりに先刻の蘊蓄を聞かせてくれた。
 一番好みと思われた「ブランデーグラスに氷をひとつ入れて、ほとんどかき回さない」水を舐めながら改めて月を眺めると、月に酔いそうな頭を美味しい水で宥める感覚が面白い。まるで手品のように、悟浄の手の中でコロコロ変わる水の味。
 グラスの淵を濡らした指でなぞって、驚くほど正確に音階を刻める彼の器用さにも驚いた。
「…女性うけする技だけには、ほんっと長けてますよね」
「まあな。ほら見てな、ここ」
 悟浄の指さしたテーブルの上では、窓枠に並んだバラバラのグラスに、これまたバラバラに注がれた水の透明な影が、一分ごとに動く月明かりでゆらゆら揺れている。重なっては離れて、不意に青く瞬いた。
「あ」
「な。ずーっと見てると紫とか赤になんの。水もグラスも透明なのに不思議だろ。全然飽きねえんだよ」
「…へえ…」
「綺麗だろ?」
「綺麗ですね」
「こんなこと知らずに生きてたら人生の半分無駄だぜ」
 僕の考えは少し違う。ただ純粋に綺麗なものを見れば見るほど、自分の汚い生き方が無駄に思えてくる。
「おまえさん、このうちに来て、あんまり楽しそうじゃなかったから」
 独り言のような悟浄の言葉に弾かれて目を上げると、悟浄はもう影からも水からも視線を離して眩しそうに月を見ていた。
「ていうか、人生楽しそうじゃなかったからよ。そういう俺も特に楽しくなかったけど、おまえさんが来てからは生活にちょっと希望を持ったというか」
「…何でですか?」
「さあ。まだ俺が知らない綺麗なものがあるんだなと思ったからじゃね?」
 今までその信じ難いほど綺麗な髪や目を、あまりに無頓着な自分への扱い方を、脆いものを平気でそばに置ける度量の大きさを、潔くて綺麗だと認める人はいなかったんだろうか。ただでさえ綺麗なものを更に綺麗に魅せる術を認める人はいなかったんだろうか。
 僕も認めませんけど。悔しいから。
 綺麗な月明かりの下で悟浄が作った綺麗な水が、自分と混じって汚れていく。
 悟浄のこともいつかそうしてやろうと思うと楽しくて、月を見上げてそっと微笑った。




fin

リクエストは八浄で「月夜の晩の話」。
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