夜  の  子  供  た  ち






悟浄の帰りが遅いのはいつものことだ。いつものことなのに、何故か今夜に限って暇を持て余し、散歩がてらふらっと外に出て、何となく賭場に顔を出してしまった。
「おや八戒、いらっしゃい。珍しいね」
 マスターの声でカード片手に振り返った悟浄は、一瞬目を見開いてから露骨に眉を顰めた。
「…何」
「…呑みにきただけですけど」
 多少むっとしつつ水割りを頼むとカウンターの端に腰掛けた。
「あなたに用事はないです。どうぞ続けてください」
 悟浄は首を捻りつつテーブルに向き直ったが、集中力を欠いたのか立て続けに勝負を落とし、周囲から大ブーイングをくらった。ゲームの間中、何度も悟浄が自分を振り返ったのは気配で分かったが、わざと目の前に並んだボトルのラベルから目を離さなかった。
 麦焼酎・燈火酒・清瑠酒・柚滴酒・杏露酒…と7、8種暗記し終わったところで、いつの間にやらそばにいた悟浄が肘を掴んだ。
「帰んぞ」
「…僕、まだ来たばかりですが」
「おまえ、俺の同居人じゃねえのかよ」
 だから一緒に帰宅しなきゃならないなんて道理があるか。言い負かすのは簡単だったが、男ふたりが帰るの帰らないのと人前でもめるのも大人げない。
「マスター、これ悟浄につけてくださ」
「だからおまえ俺の同居人だろうがよ!わざわざ断るなんざ、嫌味かよ!」
 端からみたら完全に夫婦喧嘩だ。
 表通りにでるまで悟浄は腕を離さず、離したと思ったらさっさと先を歩き出した。
「…何を怒ってるんです」
「怒ってねえよ」
「怒ってるじゃないですか」
「怒ってねえって!しつけえと怒るぞ」
 わざとその場で立ち止まる。置いて行かれるか振り返るか。
 小さくなっていく悟浄の背中を眺めていたら、はるか先の曲がり角の手前でようやく立ち止まった。
「とっとと来いっつの!!」
 追いついて横に並ぶと、悟浄は無言だが先刻よりはゆっくり歩き出した。
 青い月。
 夜風が気持ちいいぶん、悟浄が横にいながら空気が苦いのが悔しい。
 悟浄の不機嫌の理由は職場に家族にやってこられた気まずさか、悟浄の聖域にずかずか侵入した不作法のせいか、どっちにしろ理解できない類のものじゃない。ルールを破ったのは自分だ。あやまってもいいのだが、あの程度で短気を起こす悟浄も悪い。
 足下にくっきり貼り付いた悟浄の影をわざと踏んだ。
「…気分悪ぃ」
 いきなり考え得る限り最高の低音。
「僕もです」
「…まぁだ宵の口だっつーのに、こんな鬱気分でおまえと家で顔付き合わせるの我慢ならねぇ」
「お互い様です。自分ひとり被害者みたいな言い方やめてください。あなたいつもそうですよ」
 確かにこのまま帰ったところで気まずさが増すに決まってる。
 望んで住んだ家なのに、帰るのが辛いなんてやりきれない。
「…いつもそうってどういう意味だ」
「あなたひとりが我慢してるわけじゃないって言ってるんです」
「あ、そ。俺に不満があんなら言えば?」
「言って直るなら言いますけどね」
 お互い馬鹿馬鹿しいわ気分が悪いだわで、もういい加減すっきりしたいのだが引っ込みがつかない。
「勝負だ」
「はあ?」
「家まで競争。負けたほうがあやまる」
 やけくそで吐いただろうセリフに即座に頷いた。
「望むところです」
 くだらない喧嘩には単純な仲裁。
 悟浄の方が多少多めに酔ってるはずだと思いきや、スタートから数秒で早くも後悔した。
 速い。
 考えてみれば、並んで全力疾走なんかしたのは初めてだ。一瞬カフスを外してやろうかと思ったがそれも何なので、大きく息を吸い込むとざっと草を掻き分け横道にそれた。
「あ、てめ!!卑怯もん!!」
「家につけばいいんでしょうが!!」
 幸い月が照ってるおかげで足下は明るい。木の根を飛び越えて木立を突っ切ったが悟浄は追ってこない。スモーカーだから持久力はないはず、と根拠のない自信と勘のみで林の中を直進し、道なりに戻った途端、動物のようなうなり声。
「見つけた!!!」
「…うわ」
 馬鹿正直に正式ルートを辿った悟浄が、Tシャツの上に引っかけた上着から腕を抜くのが見えた。
「なめんじゃねえぞ、このクソ野郎!!」
「息あがってんじゃないですか!!」
 かくいう自分も喉に声が貼り付く。
 残り200メートルちょい、よりにもよって上り坂。
 滑る土に靴底がとられるのにも構わず走って走って一歩先に玄関に触れようとしたら、後ろから容赦ないタックルがきた。
 バン!!
 縺れあって激突した扉が勢いで中に開いた。
「うわわわ!!」
 暗い床に倒れ込む。しばらくは声も出ない。悟浄の息なのか自分のなのか分からない。
「……僕の勝ちですよ…」
「じょーだん……ぜってー俺のが速い」
「…速くても勝ちは僕です」
 ゴロンと仰向けにひっくり返って見上げた天井が青い。
「……きれーだな月…」
「……そーですね…」
 頭の奥に鈍痛がきて、何年かぶりで本気を出した足も手も痺れるような熱。床に意志をもってひっぱらっれているのがはっきり分かる疲労感。

 …ここが悟浄と自分の家。

 唐突に子供のように素直な感情の波がきた。
 普段絶対口に出さないような単純な事実。
 何故賭場に行ったかなんて決まってる。
 少し寂しかった。一緒に戻ってきたかった。
 そういう日。
「…いい歳して、何、かけっこやってんだか…」
「…あやまんねーからな」
「も…どーでもいいですよ。…いつまでも子供みたいに」
 一歩先に、無理矢理余裕を見せて起きあがった。
「あやまってあげます。すいませんでしたね悟浄。大人げなかったです」
「…どうせ俺はガキですよ」
 悟浄は汗で張りついた髪を額から剥がしながら、ひとりごとのように呟いた。
「…大人の仲直りは無理だな」

卑怯者。


fin

春菜様のリクエストは「くだらないことに真剣になる八&浄」。
ゲームでも知恵の輪でもなんでも、ということでしたので
ここはひとつかけっこで。
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