それはいきなりやってきた。

「おんやぁ?」
 会議中の間の抜けた合いの手に、一斉に部下たちの視線が捲簾に飛ぶ。
 捲簾は手にした資料を前後に動かし、次に右目と左目を交互に瞑った。
「遠回しな嫌味ですね。不満があるならはっきり言ったらどうです」
「不満も何も。見えない」
 天蓬の手からホワイトボードのあちこちを叩いていた指示棒が落ちた。
「見えない?」
「文字に焦点が合わねぇ。白紙に見える」
「裏なんじゃないですか、それ」
 そんな訳はないが、天蓬は部下の間を細波のように走った動揺をうち消すように軽く応じた。遠征間近だというのに軍大将が、不用意に何てことを口走る。
 最前列の部下が恐る恐る手を上げた。
「…大将。もしや老眼では」

 医局から天蓬の部屋にやってきた捲簾は、扉を開けるなり喚きちらした。
「老眼なんて歳じゃねえって医者に笑われた!あのガキ絶対先陣外してやる!」
「それは良かった。貴方に老眼が出るんじゃ僕もぼちぼち近眼遠視の二重苦です」
 捲簾は軍服に不似合いというかお似合いというか、とにかく医者に押しつけられたサングラスを毟りとり、点眼薬と一緒に天蓬に放り投げた。
「手術だと。明日」
 天蓬の手から今度は煙草が落ちた。
「…今後、僕が何か物を持ってる時に喋るのやめて頂けますか。特に割れ物など」
「俺、ガキん時に目ん中いじってんだろ。そこに負担かかって眼精疲労の酷いのになってんだと。だから眼球の奥から筋肉ちょっと引っ張んの」
「目の中いじったなんて話、初耳ですが」
「弱視で手術したの。言ったぜ最初に」
「聞いてません」
「言いました」
 捲簾はソファーの定位置に寝っ転がると、自分の両目を交互に指さした。この真っ赤な色はクスリの色だろうか、容器の色だろうか。なんとなく、目に入れるにはふさわしくない色に見える。天蓬はどうでもいいことをつらつら考えながら金色の蓋をのろのろと外した。
「遠征に支障はねーけどさ、あのテの手術って目は見えてっからさ。眼球めがけてこう注射針迫ってくるの見えんだぜ?怖ぇ?怖ぇっしょ?」
「口に入りますよ」
 捲簾の顎をつかんで黙らせると、覆い被さるように目薬を構える。茶色の光彩。
 そうか。この目、生まれたままじゃなかったのか。
 捲簾が必死で目を見開き続けてそろそろ泣くと思った頃に、ようやく天蓬は厳かに通達した。
「…こういうの苦手なんです、目の中に捻じ込んじゃいそうで。自分で入れてもらえませんかね」
「先言え」

 今日一日できるだけ目を使うなという医者のアドバイスに必要以上に忠実に従い、捲簾は熱いタオルを目の上に載せて心おきなく寝ていた。遠征前に軍大将の姿が丸一日消えたものだから、ガンガンかかってくる内線はすべて「捲簾大将は重病なのか」という泡をくった部下や上司たちからの問い合わせだ。
「僕の部屋に面会謝絶の札でも下げたんですか!?自分の部屋で養生してくださいよ鬱陶しい」
「看護士に任命する」
 目薬も差せない天蓬にどう眼精疲労を看護しろというのだ。
 眼科と切っても切れない身体のせいか何なのか、天蓬は目の不調には過敏だ。普段の捲簾ならそこにいることすら忘却の彼方に押しやれるのに、今日は読書に集中できず、捲簾の寝ているソファーに何となく腰掛けた。彼が日頃酷使している可哀相なその長椅子は、2人分の体重を受けただけで他愛なく軋む。捲簾が顔だけこちらに向けた。
「この音、俺、好き」
「僕は嫌いです。その手術、失敗はないんでしょうね」
「失敗の文字がない辞書は俺とおまえしか持ってねーんじゃなかったっけ」
「失敗したらどうなるんです」
「どうなるんでしょうね」
 歌うように呟くと、捲簾は目の上にきちんと畳んで置いてあったショッキングピンクのタオルを捲って片目を開けた。
「今のうちにおまえの顔でも眺めとくか?ぼやけていつもの2割増いい男に見える」
 返事はなかった。
 ようやく捲簾は、不意の眼病発覚に本気で動揺しているらしい副官に気がついた。睡眠不足のマッドサイエンティストの如き様相の天蓬は、捲簾ではなくぼんやり壁を見ている。染みだらけの壁のほうが上司の顔より鑑賞に堪えるのだろうか。
 天蓬はゆっくり眼鏡を外すと、鼻についた跡を軽く揉んだ。
「実は僕は目が悪いんです」
「…馬鹿にされてるのか俺は」
「視野も狭いし、レンズ越しにしか物が見れないので」
「性格の話か?」
「どっちもです。代わりに貴方の目を信用してたところがありますので、ちょっと驚きました」
 自分の頭脳が秀才のそれなら捲簾のそれは天性だと思う。考える過程をすっとばして即行動に移す知的とは言い難い男だが、それで懲罰房に放り込まれる以上の大失敗もないところから察するに、目がいいのだ。あれこれぐだぐだ考えず、裏を読もうと背伸びもせず、まっすぐ物を見て見たままを処理できる。
 捲簾はタオルを持ち上げていた手を元に戻して視界から天蓬を追い出した。単に手が痺れたのだ。
「くだんね。過剰信仰もいいとこ」
 背中に、捲簾の膝蹴りが入った。手探りで肘を掴んだ捲簾に引っ張られて危うく顔面同士がぶつかりそうになり、天蓬はなんとかソファーの背に手をついて5センチの距離で捲簾と向かい合った。いや正確にはショッキングピンクにマジックで「食器用」と書いたタオルと。
「…床用でよければ、目に良さそうな緑のタオルと替えます?」
「自分のルックスにしか自信がねえから、俺の目がどうかなると不安なんだろ」
「そうだとしてもそうですなんて言う訳ないでしょうが」
 自分の頬、瞼、唇、耳と、輪郭を味わうように捲簾の指が丹念に辿る間、天蓬は身体が浮き上がるような妙な感覚を持て余して、結局指が離れるまでそのまま大人しく待っていた。目では見られていないのに、皮膚の奥の奥まで一枚一枚剥がれて覗きこまれるような。
 最後に髪をひと撫でして、ぱったんと捲簾の両手が落ちた。
「きれーな顔」
「見えてないくせに」
「ここに」
 捲簾は、両手の人指し指を天蓬の目の前でゆっくり擦りあわせた。
「目がある」

「じゃ、昼には終わるんで」
 翌朝執務室に律儀に顔を出した捲簾は「迎えに来たかったら迎えに来い」と言い残し、鬱陶しそうにずり落ちてくるサングラスを押し上げながら廊下を遠ざかって見えなくなった。部屋の前で腕組みしたまま見送っていた天蓬は、角を曲がる直前、捲簾が振り向きもしないで片手を上げたのに小さく舌打ちした。
 背中にもあるんですか。
 ゆうべ、捲簾は「ここにも、ここにも」言いながら額と胸を指で突いた。
「だから心配すんな」
 心配してたんじゃなく期待しすぎて動揺したんですけど。
 今度は盛大に舌打ちして、天蓬はどさっとソファーに腰を下ろした。捲簾の体温が溜まっているような錯覚。あの男は恵まれすぎる。強すぎる。自分の努力を平気で無にする。どんどんどんどん引き離される。
 あんな目つぶれてしまえばいいのに。そしたら一生そばにいる。

 天蓬は煙草を銜えると、朝の光で眼鏡を丁寧に磨き始めた。
 
 
 
fin

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