a  c c i d e n t






「八戒。八戒、起きろ!」
 疲れただろうから運転代わってやる、なんて優しいことを言ったと思ったら、ものの5分でこれだ。
「……なんですか悟浄。せっかくうとうとしかけたのに…」
「悪い。これ聞いたら、もう一回寝ろよ」
 寝れるもんならな、と小さく呟いた悟浄の声にはっきり目が覚めた。
「…何事です」
「故障だ」


 その時、三蔵と悟空、悟浄と八戒は別行動をとっていた。明日にはここから400キロ西の街で落ち合うはずだった。組み分けにはまったく意味はない。あみだくじの結果だ。少なくとも、悟浄はそう思っていた。
「ジープを三蔵達に貸したの、間違いでしたかねえ」
 八戒が周囲を見渡しながら呟いた。
 見渡す限り砂と岩。太陽が傾きかけて、視界一面がオレンジ色に染まろうとしている。
 悟浄が工具を片手にレンタカーの下に潜り込んでから40分。未だエンジンはうんともすんとも言わない。
「あ、でも三蔵と悟空じゃ修理なんかできっこないですしね。不幸中の幸いというか。ああ、でも約束の時間には確実に遅れちゃいますね。三蔵には貴方があやまってくださいよ。最近三蔵、僕にアタリきついんですよ。僕にまで銃向けますからね。何かしましたかね僕。……ちょっと、聞いてます?」
「…俺、さっきからずっと考えてたんだけど」
 車体が造る日陰に座り込んで相槌の有無も気にせず喋り続けていた八戒は、悟浄の久々の発言でようやく黙った。悟浄の趣味で選んだ真っ赤なジープ(屋根付き)の車体の下を、八戒は熱い砂に肘までついて覗き込んだ。
「何か言いました?」
「…俺が思ってるより精神的に強いのかなあとか、気ぃ使ってんのかなあとか、楽天家なのかなあとか、冷静なのかなあとか、可能な限りポジティブに考えてたんだけど」
「…回りくどいですね」
「おまえ、もしかして全然状況分かってないんじゃねーの?」
「はい?」
「その1、一番近い街まで400キロ。歩けねえわな。その2、今の時期は近くの鉱山も閉鎖中で他に車は通らない。その3、もうすぐ日が暮れる。その4、俺は車が趣味でも何でもねえ一介のギャンブラーだ。その証拠に故障の原因がよく分からん」
 やっと車の下から這いだした悟浄は、手の煤を払いながら何の感慨も込めずに言った。
「三蔵の心理研究より遺言状の文面でも考えた方が建設的かもな」
 奇妙な沈黙。
「ああ…それは大変ですね」
「大変ですねっておめえよ…」
 呆れ顔で煙草に火をつけた悟浄に、八戒は真顔で追い討ちをかけた。
「僕、今、完全にはしゃいでましたね」
 八戒の奇怪な言動に充分免疫のある悟浄は、しばらく今のセリフについて吟味していたが、何をどう解釈したのか、にやりと笑って八戒の肩をぽんと叩いた。
「いーよ、はしゃいでな。死ぬときゃ一緒だ」
「…それもいいですね…」
 日が沈む。


「案外、このまま帰って来る気なかったりして」
 悟空が冗談まじりに言った途端、三蔵のオーラが一層険悪になった。
 ジープ組のふたりは一足先に約束の街に到着して宿屋に落ち着いていた。別行動をとっていた3日間、ずっと三蔵の不機嫌を持て余していた悟空の一言は、三蔵の急所を見事に直撃したらしい。
「……そうかもな」
 地獄の底から這い上がってきたような三蔵の声は、悟空の一切の動きを見事に止めた。
「…冗談だって。そんなわけないじゃんか」
「どうだか。あいつらはふたりでいたら何やるか分からん」
 ああ、そういうことか。
「つまり、悔しいんだ三蔵は」
「…あんだと?」
「妬いてるんでしょ。羨ましいんだ、ああいう関係が」
「冗談じゃねえぞ、俺らばっかり振り回されて」
「振り回されてるのは三蔵だけ」
 三蔵の頭の中に一瞬で何万語もの罵詈雑言が浮かんだが、口に出したのは結局一言だった。
「…殺すぞ」
「三蔵には俺がいるじゃん?」
 毒気の欠片もない笑顔に、三蔵の強張った身体からすっと力が抜ける。
「…湧いてんのか」
「それに八戒と悟浄って、まだ途中みたいだよ。わざわざ八戒がくじ操作してくくらいだからさぁ」
 途中。意味は分からないが、何やらヤバそうだ。
 三蔵は苦々しくフィルターを引きちぎった。


 手元の紙にいびつな四角形を幾つかと、それらを結ぶ何本かの線を書き終えた悟浄は、ぽんっと勢いよくサインペンの蓋を閉め、車内灯の白い光にかざした。辺りは既に漆黒の闇だ。
「いいか八戒。エンジンがこうあって、ここでギアボックスと接続してんだよ。で、この位置の鉄棒が折れてだな、エンジン自体の位置がずれてギアのかみ合わせが狂っちゃったわけだ」
「…そうなんですか?」
「多分」
「たぶんって、たぶんじゃ困りますよ」
「正論も時と場合を考えろ!さっきから文句ばっかで何もしてねえだろうが!」
 確かにはしゃいでていいと言ったのは自分だ。だが何もここまで楽しそうにするこたーないだろう。
 八戒には少し不幸好きの気があるが、それにしても度を越している。
「要するに予備の部品なしでエンジンを支える方法を考えるんでしょ?貴方が手で支えてりゃいいじゃないですか」
「ほっほお〜表面温度が150度、重量115キロのエンジンを素手で何時間も。そりゃあ素敵にいい考えだな!ふたりでここでのたれ死ぬよりひとりが犠牲になる方がかしこいわ」
「すみません。失言でした」
 悟浄ならやりそうだ。

「遅かれ早かれ死ぬって時には、人は何をするものですかねえ」
 とにかく朝日がでるまで体力温存、という結論に達した悟浄と八戒は、地面に豪快に寝ころんで空を見上げた。雲が多くて星が見えない。これで雨でも降り出そうものならまさに万事快調というやつだ。
「…また縁起でもないこと言うんじゃねえよ」
 風が出てきた。八戒の視界の隅に、さっきから赤いものがちらちら舞っている。
「貴方が先に遺言状とか言い出したんじゃないですか。悟浄なら何します?」
「ひとりの時?」
「ひとりとふたりと、どっか違うんですか?」
「あたりめーだろ。女とふたりなら当然ヤるし」
「ひとりだったら?」
「…ひとりでもヤるかな…頑張って」
「…うわ最悪」
「まあ…野郎とふたりが一番いいな。気楽で、怖くなくて」
 次の質問を掌でこね回していたら、計ったような答えが悟浄から返ってきた。
 悟浄は優しい。
「一緒に危機を乗り越えたふたりがくっつくって話、よくあんじゃん?あれって生物学的に正しいんだってな。一緒に楽しかった相手じゃなくて、一緒に異常な状況を体験して苦しんだ相手を本能的に選ぶようになってるんだと」
「生き残るために?」
「そうそう。だからまあ、こういうのはさ、格別プラスに働くんじゃねえの?生きて帰れたらの話だけど」
「すいません。僕、今、苦しんでないんですけど」
 八戒の顔が真上にきた。睫が触れる。起き上がろうとしたら両肩を掴まれて砂地に引き戻された。
「…八戒さん?」
「やりません?」
 柔らかな黒髪が悟浄の両頬を撫でる。八戒の長い指が、紅い髪に滑り込み握りしめる。
「何を」
 語尾がキスに吸い取られた。八戒の舌が歯茎をなぞって下唇をしゃぶり、ゆっくり離れた。いつもは切れ長の涼しい瞳の奥が、油をひいたように光っている。確かに、危機だ。流されそうだ。
「生涯最期のキスがおまえ相手だなんて死んでも浮かばれんわ」
「あ、そうですか。すいませんね」
「俺、青カンって趣味じゃねーのよ」
 悟浄は八戒の身体を柔らかく押し返した。
「あーあ!おめーのおかげで何が何でも生きて帰りたくなってきた。寝てる場合じゃねえ」
 いつもいつもいつも。知っているのに知らないふりをするところや、平気でなかったことにする悟浄の癖が大嫌いだ。
 悟浄に関しては、嫌いなところのほうが多いと思う。誰にでも同じように笑って話して、気を使っていることを悟られないように気を使うその小賢しさとか。感情を剥き出しにする振りをしておいて二重三重に巡らされた垣根の高さとか。立ってるだけで人目をひくそのルックスとか。
 悟空や三蔵は、自分たちのことを「素晴らしく仲がいい」と思っている。確かによく一緒に行動する。居心地もいい。何を言えばどうでるか、お互い知り尽くしている。大抵のことは許し合うが、どこから先には踏み込ませてくれないかも分かってる。
「八戒」
「…何ですか」
「おまえ、なんか隠してないか」
 運転席に頭をつっこんで悟浄が何やらごそごそやっている。
「何をです」
「策をよ。本当は何かあるだろ。方法が」
「ないでもないですが」
 凄い勢いで悟浄が振り返った。
「あるのかないのかはっきりしやがれ!!」
「鉄棒の代わりがあればいいんでしょ。あるじゃないですか、貴方の愛用の武器が」
「錫丈?…ああ…あ…そうか。使えるか…なっ」
 背後から襟首をひっつかまれたと思ったら、上体がシートに俯せに縫いつけられていた。
「おいおいおいおいっ!」
 八戒の吐息が首筋を舐める。
「じゃあカーセックスで」
「じゃあじゃねえだろ」
「やりたいんです」
 八戒の声と唇が同時に耳に墜ちてきた。
 カツン。
 指先が、痺れる前に皮膚に吸い付いてくるほど馴染んだ感触を探り当ててくれた。
 主人に従う生き物のように八戒目がけて鎖が舞う。
「…っ!」
「今はだーめだって言ってんでしょ?しつこいと8枚切りにしちゃうよ?」
 八戒が喉元の刃に気圧されて一歩下がると、これ以上その気なしと見てとったのか悟浄は一振りで鎖を収め、車のバックに回り込んだ。
 いつものように、何事もなかったように、何も聞かずに。
 この非常事態に、いつもの如く欲情する自分と、いつもの如くのらくらかわす悟浄は変なのだろうか。
 自問してみたが馬鹿馬鹿しくてすぐ止めた。現実感がない。自分と悟浄がこんなところで二人きりで死ぬなんて事、ある訳がない。そんな恵まれた死に方が出来るわけがない。
「八戒、ちょっとこっち来て。俺がエンジンかけるから振動見てて」
 ざくざく砂を踏んで悟浄が戻ってきた。
「何とかなりました?」
「エンジンはかかると思うけどギアがなあ…。ついでにこれ治して」
 あまりに無造作に言うものだから、八戒は差し出された右手をとってから血の量に驚いて思わず放した。手の甲から手首まですっぱり切れた深い切り傷。
「痛くないですか」
「いてえに決まってんだろ。錫丈長すぎんだもん、無理矢理サイズ合わせようと思ったら手元くるった。あ、やめやめ。気孔つかうな勿体ない。減るんだろそれ」
「…貴方、今、治してって言いませんでしたかね」
「言いました」
 あまりにしゃあしゃあとした態度に怒る気力もなくして、八戒はあっさり降参し傷口に舌を押し当てた。じわじわ滲み出る血を丁寧に舐めとって、ついでに指先に噛みついてやった。
「いつまでも適当にかわしてりゃ済むと思ったら大間違いですからね」
「何のことだか分かんねえけど」
「もったいぶってると、いつか僕にふられますよ」
 悟浄はうっすらと笑ったが、何も答えずにさっさと運転席によじ登った。
 ドッ。
 車体が大きく揺れる。
「あ、エンジンかかりましたね。ギアどうです?」
 窓の外から八戒が声をかけると、悟浄はうつむいたまま「ああ」と曖昧な返事を寄こした。
「え?何ですか?」
「これでギアはいらなかったら最後だぜ」
「…そうですね」
「本当に最後か?まだ他に何か手があって隠してるんじゃねえだろうな」
「とっとと入れてくださいよ、ガソリンが勿体ないじゃないですか!!」
「…いや…入れてる」
 車の中と外で窓越しに顔を見合わせる。
「ファーストもセカンドもアウト。ダブルプレイってやつか」
「あはははは。三蔵、この人殺してくださ…」
 いきなり車体が跳ね上がった。
「乗れ!!」
 叫ぶと同時に八戒が運転席のドアを蹴破って飛び込んできた。
「うわわわわわっ!」
「悟浄、悟浄!前!」
 何とかハンドルを切り替えた悟浄も、なんとか助手席に落ち着いた八戒も、しばらく荒い息が収まらない。
「も、もう少し穏やかに発進できないんですか!?」
「こんなでかい車で三速発進できただけでも誉めろよ、自分でも信じられねえ!!」
「三速!?」
「一回止まったら二度と発進できねえぞ、ちゃんと前見てろよ」
 しばらく沈黙が車内を漂った。規則正しいエンジン音。 
「…走ってますねえ」
「ああ寿命が十年は縮まったな!煙草寄こせ煙草!」
「悟浄、貴方の錫丈が摩擦熱で変形してますよ」
「うるせえよ!」

 だからまあ、こういうのはさ…

「あんな特殊な状況下であんなことしても意味ねーんだよ」
 悟浄がぽつんと呟いた。
「…普通の状況下でやり直せってことですか?」

 格別プラスに働くんじゃねえの?

「楽しかったですねえ」
 八戒が窓を開け放して大きく延びをするのを横目で見ながら、悟浄は大きく煙を吐き出した。
 朝日が後ろから、背中を押した。



fin

「大人の八浄の日常」でいただいたのに完全に非日常です。しかも長いよ〜。
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