僕
の
犯
罪
学
2
「…いつから」
びっくりするくらい声が掠れた。
「んー…おまえが煙草に火ぃつけたくらい、かな」
……なんだ。それじゃあ、まだ、言い訳の余地が。
振り返りかけて、血が凍った。悟浄がうっすら浮かべた微笑。
「…おまえ、バカだろ」
煙草をもみ消す悟浄の指を、八戒はぼんやり見つめた。
「イッたかどうかくらい、何となく分かんじゃん、男って」
目も喉もカラカラに乾いているのに、じっとり嫌な汗が噴き出すのが分かる。夜明けまで、まだ、あと2時間。
「どこ」
「………え」
「クスリ」
八戒の視線が動いた先、荷物の中に突っ込んである白い紙袋を悟浄は無造作に引っ張り出し、中身をベッドにばらまいた。目の前のことは全部見えているのに頭も体も動かない。状況は分かっているのに、処理する回線が切れている。
悟浄はカプセルを三粒、指で弾いて八戒の前に滑らせた。
「呑みな」
唇は動いたが、声にならない。
「おまえさ。覚えてなきゃ無かったことだと思ってんだろ」
「………」
「じゃあヘーキヘーキ。どうせ目が覚めたら何にも覚えてねえんだから。ほんのちょっと頭が痛ぇくらい。何てことねーよ。すぐ治る」
石のように動かない八戒の掌に、カプセルが乗せられる。
「何度も言わせんな。呑め」
悟浄の口調は、目を覚ましてからずっと同じだ。いつもより少し気だるそうなだけで、淡々と。消えない微笑が八戒を竦ませる。動かない八戒に、悟浄は軽く溜息をつくといきなり凄い力で手首を掴んで、引き寄せた。
「……っ!」
「あんま手間かけさせないでくれる? 気分爽快ってわけじゃねえんだ、俺も」
歯列を割って悟浄の指が突っ込まれた。
「口開けて」
麻痺していた頭にどっと恐怖が雪崩れ込んできた。本能が、勝手に悟浄を押し退けた。
「ご、悟浄…」
「何」
優しいともとれる口調は変わらない。
「…すいませ」
「おまえってホント凄いな。あやまったら済むと思ってんだ。ほんと、すげえわ」
背中が壁に突き当たった。
「何されるか分かんねえって怖ぇだろ」
八戒は長い時間をかけて、ようやく頷いた。
「何されたか分かんねえって、もっと怖ぇよ」
肩に、悟浄の手がポン、と置かれ、八戒の体は人形のようにベッドに引き倒された。
「呑んだほうがラクじゃねえ?」
初めて下から見上げる悟浄の目が燃えるようで、それが怒りのせいであってもあんまり綺麗で、逸らせたくても逸らせない。八戒は目を見開いたまま、微かに首を振った。今悟浄の前で意識を手放すのは恐ろしすぎた。
「じゃあ呑みたくなったら言えよ」
首筋に、悟浄の唇が墜ちてきた。触れられた瞬間、体が勝手に跳ね上がった。
怖い。悟浄に対して一方的に受け身でいるのが怖い。慣れた手つきでスルスルとシャツの裾をたくし上げる悟浄のやり方は、これ以上ないくらい手際よく柔らかくて、逃げようと思えば逃げられる。だから余計。
悟浄の掌が、脇腹を撫で上げた。
「…っ!!」
「大人しくしてな。俺がしてたみたいに」
胸の先端が指と指の間にぎゅっと挟まれ、恐怖で金縛り状態だった体からガクンと力が抜けた。声を出すまいと思えば思うほど嗚咽を堪えているような息が早く浅くなりながら漏れていく。放っておくと震え出す八戒を宥めながら、悟浄の唇が触れるか触れないかの距離で下へ下へと降りていき、時折引っ掻くように爪で嬲っては痙攣する体をまた押さえ込む。
これが手の届かない人を欲しがった罰なら、カミサマの御技は絶妙だ。焦がれに焦がれた悟浄に愛撫されるのが怖くて怖くて気が狂いそう、なんて。
抵抗する気なんか微塵もないのに、足を割られて反射的に声が出た。思わず悟浄を押しとどめようとした手は、容赦なく叩き落とされる。
「…俺がいつ嫌がったよ」
理屈じゃ体が利かない。自分が今までしてきた事も全部分かっている。理不尽な目にあってるなんて思わない。それでも勝手に数センチでも数ミリでも悟浄から離れようと全細胞が後ずさる。
「悟浄、ちょっ…」
「あーもーうるせえな」
悟浄が体を起こした。
自由になった下半身の代わりに、はずみで浮いた上半身が悟浄の体重で押さえ込まれる。流れるように左手が手首を、右手が黒髪を掴んだと思ったら、いきなり唇にキス。
「……っ!?」
舌がゆっくり八戒の唇をしゃぶるように行き来して、吐息に押し開けられた途端奥に侵入した。八戒の舌を無理矢理引き出してぐっしょり絡めるディープなキスに状況を忘れかけたが、喉の奥にコロンと落とし込まれたモノの正体が即座に分からないほど呑気ではなかった。カプセルが嚥下するのを指で確かめると、悟浄は八戒を突き放した。
「寝てろ」
普段飲み慣れていないぶん効きが早い。
シーツと体が磁石の+−のように縫いつけられて離れない。息苦しさと吐き気とで、霞んでいく視界がゆらゆら揺れている。
悟浄。
寝ても起きても見るのは同じ夢。
「僕は……」
生まれて初めて味わう暴力的な睡魔に、目の端に映りかけた紅い影も言葉も途中でもぎ取られた。
「おはよー八戒。珍しーじゃん、寝坊?」
食堂に入った途端、頭にガンガン響く元気いっぱいな挨拶が飛んできた。
「……おはようございます悟空」
「頭痛か?」
出来る限り平静を装ったつもりが。無駄に勘の鋭い三蔵が、こめかみを無意識に押さえた八戒に反応した。絶句した八戒の前に、絶妙のタイミングで熱いコーヒーが差し出される。
「…最近夜は冷えるから、そのせいじゃねえ?」
どこかできいたセリフ。マグカップを受け取ると、八戒は悟浄に微笑み返した。
「ありがとうございます…悟浄」
わざと悟浄が残してくれた体中の紅い跡を服の上からたどりながら、コーヒーの香りを吸い込んだ。
これが罰なら、なんて甘い。僕はきっと地獄に堕ちる。
fin
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