あの日の続き






「僕、悟浄の家に住まわせてもらうことにしました」
 悟能、いや八戒がこう言った時、三蔵の顔にアリアリと浮かんだ「この物好きが」という批難の色や「だってあの人、ゴミの収集日も覚えてないんです」と何だか分からないボケをかます八戒に浮かんだビミョーに誇らしげな笑みより何より、注目に値すべきは俺だ、俺。俺ですよ皆さん。

 聞いてねえよ。

 危うく「はっかいはっかい」と妙な名を連呼する悟空の髪を2,3本引きちぎるとこだった。さっき道端で再会してココに来る間、確かに俺の頭の中は「三蔵殺す」でいっぱいだったよ。が、だからといって八戒の、んな重大発言を聞き逃す訳がない。
 仮に聞き逃したとしよう。上の空で俺が「ああ」とか「うん」とか返事したとしよう。
 なら三蔵や悟空の前で「何の話だ」などと問いつめたら、こいつの立場がない。
 洒落にならない暗い過去や自虐的な言動を見るに、俺の中の八戒は「壊れ物」だ。「僕の話、全然聞いてなかったんですか。そりゃ僕なんかと暮らすより女性のほうがいいに決まってますよね。行く当てないんですけど気にしないでください。花喃のところにでも帰ります」とか何とか言われたらこっちが堪らん。
 そこで心中は嵐でも表面上は穏やかに3人をメシに誘って(おまけに奢らされて)楽しい場をセッティングし、夕方に八戒とふたり揃って斜陽殿を出た。
 さて。
「あのよ八戒」
「なんですか?」
 八戒は風にサラサラの髪を嬲らせながら、ゆったり微笑んでいる。
「おまえ、俺んちくんの?」
 一瞬、間が開いた。
「ごめんなさい。三蔵に勝手にあんなこと言っちゃって」
 俺の口から勝手に深い深い溜息が漏れた。
「あー…やっぱり俺聞いてねえよな。そうだよな。……何考えてんだてめえは!」
「だからごめんなさいって言ってるじゃないですか」
 八戒は急に俺に向き直ると、ぺこんと頭を下げた。
「悟浄、お願いします。しばらく置いてください」
「嫌」
 口では殊勝な事を言いながら断られることなど考えていなかったようで、八戒はキョトンと俺を見た。自信家だったり卑屈だったり分かんねえ奴だ。
「…ダメですか」
「俺は誰かと一緒に住むっての、むいてねえから」
「1ヶ月も僕と住んでたじゃないですか」
「怪我人を泊めて面倒みるのと、同居するのとは違うだろ」
 正直言うと、俺は怒っていた。
 元はと言えば、こいつを拾った時点で家に居着かれることなど覚悟の上だった。いや、その展開を願って日本全国の俺のファンの心がひとつになった瞬間だったはずだ。それを如何にも死にたかったのにと言わんばかりに被害者ぶって「やり残したことがある」などとどー聞いても自殺宣言だろってセリフを吐いて消えたのはこいつなのだ。俺の気持ちはお構いなしに憑き物を落としてケロッとしているこいつに、即OKなんか出したら俺の立場はどうなる。
「…どう…違うんです」
 八戒が、どう言えば俺を口説き落とせるか、脳みそをフル稼働させながら考えているのが分かった。もっと考えろ。
「前者の場合は役割ってのがあるだろうが。俺が看病する。おまえは回復に努める」
「…ええ」
「おまえが女なら目的ははっきりするんだけどよ、男じゃなーんもないじゃん。俺に何かメリットある訳?」
「じゃあ僕を看病するメリットって何なんです」
「俺のおかげで人が命を救われたという分かりやすーい達成感」
 八戒は遂に黙り込んでしまった。そこで黙ってどうする。
「…分かりました」
 分かるな。
「今晩一晩でいいです。泊めてください」
 悟能だった時はもっとくすんで見えた緑の瞳が、失った右目のぶんの役目を果たそうとでもいうように深く深く澄んで、怖いくらいだ。
「まあ…いいけど、それくらい」
 自慢じゃねえが押し掛け女房には慣れてる。肉じゃがが得意とかパジャマ姿が可愛いとか、そんな手で堕ちるそのへんの童貞くんと一緒にされたら大迷惑。
 こいつは俺に「さん」付けするのは止めたようだが、敬語を崩す気はないようだ。けど俺にとってダチってのは何でも気軽にタメ口で言い合えて、対等で気を使わず貸し借りもない、そういう関係だ。こいつとはそれがない。…いや、まあ、最終的に俺はこいつと住むと思う。乗りかかった船っつーか、三蔵への意地もあるけど、目を離すと何するか分かんねえ危険人物を外に放すくらいなら、そこで自分を傷つけたり人を巻き込んだりするくらいなら、うっかり命を助けてしまった俺が責任もって面倒みるのが筋じゃねえか。
 ただ理由はいる。俺が八戒と住む理由。
 20年間生きてきて、人と深い関わりを持つということは最終的にマイナスの方が多いと思った。それでも俺がこいつと関わることで信念がひっくり返るなら、嘘でもいいから俺を真剣に騙せばいい。俺が「悟能が死んだ」と聞かされて味わったあの虚しさと同じくらい真面目に。

 八戒は懐かしそうに部屋のあちこちを点検すると、深々と溜息をついた。
「…落ち着く」
「おまえの家じゃねえよ」
「分かってます」
 何故か一直線に洗面所に向かった八戒をほっといて、机の上のライターやばらまかれた小銭をポケットに突っ込み俺はすぐさま玄関に向けてUターンした。
「悟浄?」
「賭場。おまえは好きにしてな。シーツやら食いもんやら、場所分かるな。変わってねえから」
「…いってらっしゃい」
 顔だけ覗かせた八戒の妙な微笑が気になったが構わず家を出て、数百メートルも進んでから思わず天を仰いだ。
 あいつの歯ブラシ、そのまんまだ。

 ひさしぶりの賭博に身が入らない。ほらもうマイナスだ。
 こういう時はそのへんの女ひっかけて一汗かけばすっきりするんだが、例え怪我人でなくても家に人がいると思うとそんな気にならない。俺が一番言われたくない「らしくないわね」の一言をくらって早々に退散した帰り道で、いきなり雨が降り出した。も、最悪。また腸はみ出した薄幸美人でも拾っちゃいそう。
「お帰りなさい」
 ずぶ濡れで扉を開けると、八戒が窓際に椅子を引き寄せて、ぼんやり窓枠に頬杖をついていた。
「…何してんの」
「別に。座ってください、お茶入れますから」
 俺の顔めがけて、正確にタオルが飛んできた。
「酒のがいいなあ」
 イジメの延長で嘆いてみたが、八戒は軽く眉を潜めただけで湯を沸かし始めた。
「八戒って名前、変だよな」
「……」
「十戒にふたつ足りないし。何が足りねえの?あ、殺人と姦淫か」
 自分でもはっとするほど強烈な皮肉だったが、八戒は薬缶に目をやったままだ。
「悟浄、髪もちゃんと拭いて」
「怒んねえの?」
「一晩しかいられないのにケンカなんかしたくないです」
 自分勝手なのは分かっていても、思わず八戒を殴り倒したくなった。
 本気でその気かよ。何か俺に…こう…アプローチしろよ。パジャマ着てみるとか。
 八戒は涼しい顔で、湯呑みと急須をテーブルの上に置いた。
「どうぞ。生憎、緑茶ですが」
「綺麗だな」
 茶葉から茶を煎れるなんて面倒なことは滅多にしないので、香りと色が新鮮で思わず呟いただけなのに、八戒は俺がとんでもないことを口走ったかのように息を呑んで俺を見た。
「…お茶に言ったんだけど」
「…分かってますよ」
 冷えた手のひらを器の肌で温めてから一口啜った。
「美味い」
 本当に美味かった。茶をしみじみ味わったことなんか生まれて初めてだ。
 世のお母さんたちが団欒の場で「お茶でも淹れましょうか」という訳が初めて分かった。茶じゃないんだな問題は。きっと。
「おかわり」
 空の湯呑みを差し出した俺を、八戒がマジマジと見つめている。
「何よ。毒でももったの?」
「…悟浄、僕と住みませんか」
「は?」
 こぽこぽと二杯目を注ぎながら、八戒はもう一度ゆっくりと繰り返した。
「僕と、住みませんか」
 …続きはないのかよ。
 八戒は無言で湯呑みを目の前に置いた。どうやら俺を言葉で口説く気はないらしい奴の、手の中からふわっと立ち上る柔らかい湯気が、空気まで溶かしていく。
 こいつと住む理由。
 …これでいいか。
「人生は時にお茶一杯の問題だって、誰が言ったんだっけ?」
「僕ですよ」
 嘘つけ。
 互いに似すぎていて、肝心な事は言葉で言えない。俺が机に滑らせた鍵を、八戒は黙ってポケットに入れた。
 
 
fin

リクエスト「気合いを入れてお茶を煎れる八戒」。
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