夏。切り子のグラス。金色の茶。微かな海鳴り。
濡れた床。風鈴。青い蚊帳。赤い髪。
知ってる。
僕は悟浄を知っている。
その夏、八戒は小さな港町で、ちょっとした有名人になっていた。
目を覚ましたらそこは病院なんて誂えたような事は起こらず、八戒は倒れていた海岸から自分の足で立ち上がって通りに出、通行人に助けを求めた。後頭部がずきずき痛んで足下がおぼつかず、掌にそれを確かめた時の血がべっとりついていたので、実にスムーズに病院まで搬送された。
ここで記憶の一端を握りしめて決して離してはいけなかったのだ。離さずしつこく手繰り寄せていればそこで終わっていた話かもしれない。うっかり意識を途切れさせ、次にきちんと病室で目を覚ました時には、鏡の中の自分の顔すら見覚えがあるようなないような有様だった。
記憶喪失という現象は別に珍しくもないんですよ、短い間に記憶が抜け落ちすぐ戻るという程度のことなら誰でも日常的に繰り返しているんです、覚えていては生きていけないことは本能が削除することもあるのです、だからまあ思い詰めず。
医者は穏やかにとんでもないことを言い放った。
そうか。僕は自分の名前も忘れなければ生きていけないような人生を送ったのか。
夏。灼けた砂に手をついて必死で体を持ちあげた、目も眩むような暑い夏。
何度も包帯の上から傷を撫でながら、海岸を下を向いて歩いた。貝や流木でもあるまいし、現場に戻ったからといって無くした過去がぽんと落ちている訳でもないだろうが。
貴方はおそらくこの土地の方じゃないでしょう、所持品も何もないのだから旅の途中に強盗にでも遭ったんじゃないですか、でなければこんな小さな町で貴方を見知っている者がひとりも名乗り出ないということはない、まずは怪我を治すことです。
この町の人間はみんな優しい。八戒は人当たりがよく穏やかで、容姿も物騒な事件に巻き込まれるような世界の人間には見えなかったので、可哀相な被害者として誰からも労られ、怪我が治ったらうちに来いと申し出る者もいた。終戦直後。皆貧しくて、それでも誰も彼もが人に優しくしたくてたまらなかった。生きたくて仕方がなかった。自分にまつわる記憶以外のすべての記憶が鮮明であればあるほど、人に優しくされればされるほど不安になる。
本当に自分は被害者なのか。優しくされるに値する人間だろうか。
悟浄に会ったのは、夕方の散歩途中だった。海が見下ろせる坂の上で、八戒を病院へ運んでくれた店の主人と立ち話をしていた。
「ああ八戒。調子はどう?」
八戒という名は医者の戦死した息子の名だったが、急場凌ぎのその名にも違和感がなくなっていたので、微笑んで「相変わらずです」と返事した。悟浄は煙草をふかしながら胡散臭そうにこっちを見た。そんな態度に出られたのは事件以来初めてで、八戒は思わず正面から悟浄と目を合わせてしまった。
閃光。
「あんたが記憶喪失になったって人?」
悟浄はかなり乱暴に八戒の腕を掴んで引き寄せ、顔を覗き込んだ。
「わー何これ。きれーな顔。案外どっかで輪姦されたかなんかしてショックでトンじゃったとか」
「悟浄!病人に何てこと言うんだあんたは!」
「ほんとに覚えてねえの?そんなことある?都合悪いこと忘れたふりしてんじゃねえの?」
店主は今にも絞め殺したそうに悟浄を睨み、八戒の顔を窺った。
「…会ったこと、ありますよね」
知ってる。この男、知ってる。
悟浄は家の引き戸を開けた。
「どうぞ遠慮無く。生き物は俺しかいねえから」
引き戸。立て付けが悪くて開けるのにコツがいる。暗闇からボコボコと映像が浮かび上がる。引きちぎられたような断片はなかなかひとつに繋がらない。この家に覚えがある。この戸を自分で開けたことがある。一度じゃない。何度も。…何度も。
「蚊帳…」
「あ、吊ったままだった」
悟浄は畳を踏んで手を延ばし、蚊帳に触れた。
手。手が、蚊帳を握って、その光景を、確か下から。下?
蚊帳の中だ。…布団の中から見た。赤い髪と青い蚊帳。
……悟浄、蚊帳が破れますよ。そんなに…きつくしたら。
「座れよ。立ってるほうが好きじゃなけりゃ」
悟浄はさっさと蚊帳を畳んで麦茶を注いだ。
「おまえ結構、あれだな。そんなナリしてえらく積極的だな」
「…そういう訳じゃ」
「俺、いまいち頭ぶつけて記憶がなくなるとかそういうの信じらんねぇの悪いけど。まあ人をたばかるならたばかる事情があるんだろうから頑張れよ色々と。はいお茶」
「僕のこと知ってるでしょう?」
悟浄は曖昧に笑った。どういう意味の笑顔だ。掴み所がない。
「病院、何時に戻ればいいんだっけ?あそこの医者ヤブらしいぜ、気ぃつけな。盲腸誤診して近所のおばちゃん殺しかけたことあるしよ。だいたい八戒って何、趣味悪ぃ。オヤジに似て冴えない男だったぜ」
「貴方のこと覚えてます。この家も知ってる」
「煙草平気?平気じゃなくても吸うけど」
匂いを嗅いだ途端、涙が出た。
知ってる。懐かしい。懐かしくて哀しい。
悟浄は一瞬息を呑んだが、慰めも問いつめもせず、黙って煙草を揉み消した。
……悟浄。風鈴じゃ、誤魔化すのも限界。
何で知らないふりをする。自分を知らない訳がない。
一晩中この家で、蚊帳の中で、悟浄と風鈴を聞いた。去年の夏か。一昨年の夏か。もっと昔?
「…風鈴って、ありますか」
「風鈴?…どっかにあったと思うけどまだ出してない。何で?好きなの?」
「ガラスが緑色で金魚が描いてあるやつ、ないですか」
悟浄はしばらく首を傾げたまま天井を見上げ、どんなだっけと呟きながら押入を開けて中から箱を引っ張り出した。
チリン。
記憶と同じ風鈴が、悟浄の指に掛かっていた。
「悟浄に見覚えがある?…梁井の向こうの?あのチンピラですか?」
チンピラかどうかは知らないが、ともかく八戒は頷いた。
「彼のほうは、僕を知らないと言うんですが」
医者は眉を顰めて首を振った。
「…錯覚ということもありますよ。既視感って御存知ですか。記憶の混乱。よくあることです」
この医者にかかると何でもかんでもよくあることで済むようだ。
でも、じゃあ、風鈴は。
八戒が家に押し掛けるのを、悟浄はまったく咎めなかった。
特に歓迎もされなかったが「昼間は寝るから来るなら夜来い」と言われて八戒はあっさり病院を抜け出すようになり、ある時帰りが遅い悟浄を軒先で待っていたら「あがってろ」と鍵の在処を教えられた。ろくに話もしないまま得体も知れない男に、いくら田舎町とはいえ、誰がこんな無防備な真似を。悟浄が自分を知ってる証拠だ。何か、それこそ削除しなければならないような過去があるのだろうか。悟浄が知らないふりをし続けなければ、やり直せないような。
悟浄は決して嫌われてはいなかったが、手加減なしの言動と賭博師という職業柄、付き合う連中も素行が良ろしくないとかで、僅かに警戒されているふしがあった。
「悟浄はやめときな。近寄ったらろくな事がない。あいつは、つまり、最低だ」
八戒は苦言を呈した店主に、精一杯の感謝と好意を込めて微笑んだ。
「そうします」
どこまで人が良さそうに見えるのだろう自分は。悟浄のことは知っている。狭く深く。腫れ物に触るような労りより、好奇心に充ち満ちた優しさより、悟浄の率直さが今は欲しい。
率直。自分を知らないという大きな嘘を除いては。
その晩八戒は、悟浄の家の縁側で主の帰りを待っていた。
悟浄が吊った風鈴が記憶と同じ場所で海風に吹かれて間断なく鳴り続け、音につられて脳裏を掠める映像は余りにも甘く汚く生々しい。自分は少し異常なのかもしれない。他には何ひとつ思い出せないのに、悟浄に触れたいつかのあの夏ばかり。
悟浄の、服の中を、知っている。顔を押し当てて匂いを吸い込んだことがある。
記憶の中の悟浄は浴衣で、後ろから火のように熱い体で凭れかかってきた。
する? 何を 何って
掴んだ指に噛みつかれる。蚊帳が落ちる。網にかかった魚のようなもどかしさが、焦りが余計。
なあ、死ぬ。死ぬって。もう無理。限界。
何度も何度も貪りあって名前を呼び合ったはずなのに、不意にそこだけ音が消える。僕の名前は。
申し訳程度の庭の垣根が突然鳴った。八戒はぎょっとして立ち上がり、闇に目を凝らした。
「…誰かいるんですか?」
気配がしたと思ったが、気のせいか。
庭に気をとられて悟浄の帰宅に気付かなかった。
物音がしたと思ったら、どんっと火のように熱い体が凭れかかってきた。
「する?」
「…何を」
「何って」
あの夏と同じに悟浄は浴衣で、急に気が削がれたように体を離した。
「花火あがってたろ、さっき。ここから見えなかった?来ればよかったのに。おまえだったら連れて歩きたがる女が何人でも」
夢中で悟浄の手を掴んだ。
「ここでしても?」
「…何もったいぶってんの。どうせ最初っからそのつもりだろ」
足下に蚊帳が絡まるのを避けようとする悟浄の落ち着きが腹立たしい。
「もう余裕が」
「…詐欺じゃねえか病人」
貴方がこんなにしたんじゃないか。こんなじゃなかった。悟浄に会うまでこんなじゃなかった。
指に噛みつかれる。同じ場所。甘い痛み。体がバラバラになりそうな愛おしい痛み。肩から半分落とされたシャツと肌の間を撫で上げる悟浄の指。鳥肌が立つ。この体だ。探してたのはこの体。
八戒を支え損ねて後ろに倒れそうになった悟浄が、蚊帳を掴んだ。
「……悟浄、蚊帳が破れますよ。そんなにきつく」
自分は悟浄が好きだったのだろうか。懐かしくて切ないが、好きだったのだろうか。
悟浄は最後まで、名前を呼んではくれなかった。
「…まだ傷が塞がりませんね。暑くて鬱陶しいでしょうが、もう少し辛抱してくださいね。傷の治りはどうしても体質や気候で差が出てしまうので」
「平気です。慣れました」
医者は丁重に包帯を巻き直しながら、冷静極まりない患者を見下ろした。
「…警察はまだ何も言ってきませんね」
「僕ぐらいの年齢でふらっと家出するなんてよくあることですから、あまり本腰入れてもらえないんでしょう。このご時世ですから身寄りがひとりもいないのかもしれない」
一向構わないように聞こえたらしく、医者は怪訝そうな顔をした。
「あ、いえ、少しずつですが風景が浮かぶことがあるんです。何かの弾みに名前も思い出せそうな気がするんです。ただ、そのたびに頭痛がして」
医者はようやく頷いて、鎮痛剤を出してくれた。
「他に何か症状は?」
「誰かに」
八戒は途中で言葉を呑み込んだ。誰かにつけられてる気がする。
海と空が一分毎に色を変える夕暮れの砂浜を、八戒はゆっくりと歩いていた。悟浄の家に行くには海岸を突っ切るのが一番の近道だ。
自分の記憶をひっぱり出そうとしているのか、それとも偶然か、悟浄は執拗にいつかのあの夏と同じことを繰り返す。ぶれそうな映像の中で、悟浄が水色のアイスキャンデーを舐めている。
貴方が甘いものが好きなんて意外ですね。
美味かねえけど暑いから。オレンジとソーダ、どっちがいい。
食べながらすぐ気を散らすから、暑さで溶け出して悟浄の腕を流れ出す。
突然襲った激痛に、八戒は思わず立ち止まった。
今のは。
「どこ行くの。また悟浄んち?」
突然、女に声をかけられた。歳は二十歳になるかならないかで、まっすぐな黒髪が肩の上で揺れている。そこそこの美人だが、目つきが険しい。
「…どなたです」
「言ったって知らないでしょ。あんたこそ誰なのよ」
また悟浄の関係者か。
八戒は口を開きかけたが、それより早く女は目の前までやってきて凄い勢いでまくし立てた。
「大人しそうな顔してどこまで図々しいの。いつまでも悟浄に甘えないでよ。こっちにはこっちの生活があんの。あんたが来る前の生活があんの。かきまわさないで!」
あいつは、つまり、最低だ。
「おまえも食う?オレンジとソーダ、どっちがいい」
悟浄は冷蔵庫からオレンジを引っ張り出した。
「…まだ何も言ってませんけど」
「こっちのほうが色綺麗」
そんな勝手な。
腕をベタベタに汚して流れる砂糖水の行方など、悟浄は一向に気にしない。
「…食べるか煙草吸うかどっちかに集中しないと溶けますよ」
「ここどうした?赤くなってる」
悟浄の袖の中に滑り込んでいく水を目で追いながら、八戒は右頬をそっと撫でた。
「知らない女性に殴られました。悟浄に近づくなと」
「ほっほぉ」
「…強面の男性に絡まれたことも。悟浄の連れなら夜道に気をつけろと」
「へー誰かなぁ。モてるなあ俺」
悟浄は何でもなさそうに言って煙草とアイスの棒を一緒に灰皿に突っこんだ。
「その上でここにいるって事は覚悟の上だろ。おまえが勝手に寄ってきたんだから俺は知んない。来んの止める?」
もう遅い。
「…悟浄。僕に」
「ん?」
「僕に、会ったことありますよね。…夏に」
今まで何度もそうしたように、悟浄はまた笑って流した。
「前から知ってた気がするって、いつものあれ?」
「悟浄」
たちまち悟浄は八戒の声音がいつもと違うことを察した。
「…会ったよ夏に。今年の。坂の上で。…あれが初対面」
やっぱり。八戒は思わず目を瞑った。もう遅い。
「おまえ、もしかして本気で言ってたの?」
「…まさか」
まだ笑えた。
あの夏、なんてどこにもなかった。
水色とオレンジのキャンデー。甘くてべたつく、風鈴と蚊帳とセックス。
千切れて飛びそうに浮かぶ映像の中で、初めて悟浄が自分の名前を呼ぶのを聞いた。
八 戒
過去を思い出したんじゃなかった。
自分は過去を思い出したんじゃなかった。
未来を拾ってしまったのだ。
これから明け方まで、声が枯れるまで、腕が痺れるまで貪り合う。いちいちツボを外して焦らす悟浄の指に好き放題に嬲られて何度も達かされる。
庭に誰かいる。自分たちの痴態を蚊帳越しに見てる。嫉妬か、恨みか、両方かで震える誰かが、明け方になって自分たちが動けなくなるのを待っている。
「…八戒、もう無理。限界」
悟浄を好きだっただろうか。魅かれたが、好きまでいけただろうか。ひと夏の相手としては最高だったけれど、悟浄にとってはどうだろう。
これ以上のことを他の誰かとするだろうか。せめて自分がいたことを忘れないくらいには快かっただろうか。自分がどれほど酷い人間だったかも思い出さないまま、後悔にも自己嫌悪にも縁がないまま、最後にひと夏、目も眩むような時間を恵まれた幸せな男だったと、何時か気が付くだろうか。
悟浄に来年の夏はくるだろうか。
よくあることなんです。よくあること。
八戒という名前の男が夏に生まれて夏に死ぬ。前も後もない、それだけのこと。
悟浄がくれた長い長いキスの後、さっき見た未来がやってくる。
そっと畳を踏んで、背後から誰かが忍び寄る。
自分の息の根を、もうすぐ止める。
fin
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