優 し い 犬
ひさしぶりに夜が長い町に泊まったので悟浄は時計の針を睨み続け、22時を過ぎたあたりで部屋を抜け出した。陳腐だろうがなんだろうが、男の傷心は酒で癒すものと大昔から決まってる。
足音を忍ばせて角の部屋の前を通り過ぎ、ほっと安堵の息を漏らしたところでバンと戸が開いた。
「残念でしたー!どちらにお出かけですか悟浄、飲みならどうぞ遠慮無く僕をお誘いください!」
「遠慮してねえ、今晩はてめえにねちねち説教されたくねーの!」
出掛ける準備万端で待機していたらしい親友はさっさと鍵を締め、逃げかかった悟浄の上着の裾をあっと言う間に掴んだ。
「おら耳ついてんのか」
「しませんよ」
八戒の声音が僅かに和らいだ。
「説教なんてしませんよ」
さて、悟浄は三蔵が好きだった。
悟空も三蔵が好きだった。
そのまま、誰も動かないままの膠着状態。
ここまでは一緒に旅行していればジープでも気付くような事だったので、八戒が知っていてもまったく不思議はない。
ところがカウンターで何ヶ月ぶりかに並んで座り、2,3杯ひっかけたところで、八戒はふっと軽い溜息をついた。
「また負け戦ですか」
「へ?」
「貴方は戦う前に悟空にほだされて三蔵からさっさと身をひいた。そうですねー…一昨日。いや三日前の昼。ずばり昼食の後」
悟浄は仰天してカウンターにグラスを1センチ落下させた。
同じ奴に惚れた者同士は、互いを時に恋愛対象より強く意識する。三日前の昼食後、どちらともなく話し合おうという雰囲気になり、悟空に如何に三蔵が好きか、如何に三蔵だけかを熱く語られて、悟浄は一秒も迷わず勝負を降りた。
「言っちゃ何だが気味悪いぜ、おまえエスパー?俺、あん時そんな顔に出てた?」
「別に。鼻歌歌ってましたね」
「…謎めいた男だな俺は」
「単純ですよ」
あの時も悟浄は負けた。
意気揚々と対戦相手が引き上げたのを見計らって、八戒はカウンターを離れ悟浄のテーブルに近づいた。こちらに背中を見せている悟浄は、しかしよく耳をすませると鼻歌を歌っている。八戒はサビが終わるまで待ってから、声をかけた。
「もしもし悟浄」
「何だい八戒」
「何だいじゃないですよ。何やってんです貴方」
悟浄は山を揃えると、机の下を探って脚の継ぎ目に挟まっていたカードを一枚抜き出した。
「イカサマだって分かってたんですか!?」
「近眼のおまえが離れて見てて分かるものに、目の前の俺が気付かない訳ありますか?」
わざと負けた。それ以上の説明はない。背後でマスターが、聞こえよがしに溜息をついた。
「…説明したくなさそうですね」
「よく分かるな。愛してるぜ親友」
「説明してください」
「急に愛が醒めた」
「説明しなさい!」
会話があと二往復したら喧嘩になるというタイミングで、マスターがふたりを店から追い出した。
悟浄の職場には何度も出向いたが、わざと八百長に引っかかるなんて現場を見たのは初めてだ。ゲーム中に何度も立ち上がりそうになる八戒を、マスターが止めた。
「座ってろ八戒、口出すな。男の勝負だ」
「イカサマのどこが男の勝負です」
「男で悪けりゃ悟浄の勝負だ」
悟浄の勝負は自分の勝負だ。こんな勝負があってたまるか。
「金に困ってた」
翌日悟浄はあっさり吐いた。
「…誰がです」
「だからイカサマ野郎がよ」
「貴方だって人に恵んでやるほど有り余ってる訳じゃないでしょうが!」
「俺より更に有り余ってなかったんだよ」
金に困ってたから負けてやるなんて優しさじゃない。侮辱だ。自分だったら傷つく。真剣勝負に同情を持ち込むなんて間違ってる。
「…悟浄。僕が言ってるのはお金のことじゃなく」
「分かってる。俺だって後味悪ぃ。反省してる。もうしない」
もうしないというのは「もうわざと負けたりしない」という意味ではなく「金に困りすぎてる奴とは勝負しない」だ。
マスターの態度から察するに、悟浄はあんな勝負を今までもしてきて、これからもする。きっとする。
悟浄がトイレに入った隙に、八戒は思いっきり冷蔵庫を殴りつけた。
傍から見ていて、これ以上歯がゆい男もそういない。
でも今は。
今度ばかりは助かった。
「もしかしたら貴方の性格を見切っての悟空の作戦だったかもしれませんよ?人間、本気で欲しいとなったら手段選んじゃいられませんし、泣き落とせば貴方が降りるって分かってたのかも」
「そーねー。そーかもねー」
悟浄はあっさり言って、バーボンを舐めた。できることなら浴びるほど飲ませてやりたかったが、既に相当酔いがまわって呂律の怪しい悟浄がギリギリ歩いて帰れるぐらいで止めないと、担ぐ自分が痛い目を見る。
「そーかもなーとは思ったけどねー。つい同情しちゃったねえ」
「相変わらず困った人ですねー」
「おまえほどじゃないけどな」
突然声音が一オクターブ下がった。八戒はカウンターに頬杖をついたまま、ぼんやり悟浄を見た。
「…僕のどこが」
「悟空に入れ知恵したのは誰かなぁ」
溶けた氷がグラスの中で崩れるのと同じペースで、悟浄がカウンターに突っ伏した。
「俺の性格をよーっく知ってる奴。もしかしたら俺のこと好きな奴かも?人間本気で欲しいとなったら手段選んじゃいられねーしさぁ、そこまでされちゃーほだされちゃうよねぇ」
悟浄の指に挟まったままの煙草を抜き取って揉み消すと、八戒は手を上げて勘定を頼んだ。
…なんと、同情されたのは自分だったか。
八戒は上着の袖を捲り上げると、悟浄を抱えて店の外に引きずり出した。
同情なんてとキレイな事を思っていたのは、もう昔だ。
欲しいものは欲しい。
どんなに汚くても欲しい。
軽蔑されても重荷でも欲しいものは欲しい。
泣いてすがれば悟浄は堕ちる。同情でもいいのなら、悟浄はいつでも手に入る。
「…まだ先だ」
八戒は毎日何度もするように、今も自分に言い聞かせた。
もう随分減りはしたが、まだプライドの欠片ぐらいは残ってる。それを投げ捨てるにはまだ早い。
八戒は軽く唇を噛むと、甘ったるくて熱い息に耳元を擽られながら悟浄の体を担ぎ直した。
重い。
崩壊寸前のプライドより、遥かに重い。
fin
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