八戒がその場にいない時に、八戒のことで何か分からないことがあると、悟空は俺に尋ねる。それは大概、何かの事柄についての八戒の反応だ。俺は首を捻って真面目に考えるが、その予想は実によく外れた。許してもらえるだろうと推測したやんちゃをこっぴどく叱られたりした。悟空はそのたび、今急に思い出したとでもいうように、ある種の感慨を込めて呟く。
「悟浄って、八戒と住んでたんだよねえ」
俺も、何を今更と呆れたりせず律儀に返す。
「住んでたんだけどなあ」
八戒について、自信をもって答えられることがひとつだけある。
食べ物の好みだ。
俺は3年間、八戒と同じ住所を共有していた。会話はあまりなく「長い目で見れば一つ屋根」の下に住む下宿人同士のような距離を保っていた。生活サイクルは完全にすれ違い、家にいてもどちらかが寝ている時間のほうが長かった。俺は八戒に何も要求せず、八戒は俺に何も要求しなかった。
ただ必ず、俺たちは同じものを食べた。
それは八戒のたったひとつの「お願い」だったのだ。
俺にはそれがさほど重要なことだとは思えなかったが、言うとおりにした。八戒の料理はまあまあだったし、俺には特に好き嫌いがなかった。決まった時間に食わされるのでなければ苦でもない。
八戒は朝・昼・晩と食事を二人前作ると(それはきっちり一人前を作るより遥かに簡単だそうだ)決まった時間に食べて、俺のぶんを冷蔵庫に仕舞う。俺は気の向いた時に(それは夜中だったり早朝だったり昼の3時だったりしたが)時間差で八戒の作ったものを平らげた。一緒に食うことはあまりなかったが、たまに時間がぴったり合った。
「美味かった」
なかなか感想を述べる機会がないので、俺はそういう時にまとめてコメントした。
「こないだの蓮根と小茄子煮たやつも。好きな味」
「また作ります」
「でもちょっと甘いか」
「もう作りません」
八戒は俺に茶を注いだ。
「これって、そんな大事なことなの。つまり食事」
「人間は食べたものでできてるんですよ」
俺は箸を落っことした。八戒はぎょっとして俺を見た。
「…どうしました?」
馬鹿みたいだが、俺はそういうふうに食べ物のことを考えたことがなかった。電池かなんかだと思っていた。入れとけば動くものかと。
とすると俺と八戒は、ほとんど同じものでできているのか。
「凄ぇな!」
「凄いでしょう!」
極々たまに、俺がメシを作った。八戒は正直に美味いと言ったり不味いと言ったりしたが、全部食べた。同じ調味料を試すのでお互いの味付けが似てきた。俺は酒のせいでわりと少食だったが、細いわりによく食う八戒と同じ量が定量になった。伝染ったのだ。
八戒が何かを食う様を眺めるのは面白かった。何の迷いもなく流れるように、食うためだけに食う。食ってる間は目の前の食い物の話しかしない。俺の視線に気付くと「なんですか?」と聞くので、見てると面白いと答えた。「貴方も面白いですよ」ふたりの皿はいつも舐めたように綺麗になり、それは素敵な礼儀作法というよりは手加減を知らない動物のようだった。だから俺たちは、ご馳走様を言うときに必ず、恥ずかしいような妙な気持ちになった。月に1度は待ち合わせて外で呑むが、お互い好き勝手に頼んで互いの皿から摘むので、結局同じものを食って帰ってきた。
3年間。栄養がどうとかは二の次で、ゲームのようにほとんど同じものを食べ続けた。どちらかが外で美味いモノを食うともう一方に自慢げに報告し、報告されたほうが後でこっそり食べに行った。明らかに失敗した料理でも、自分が我慢して食べたものはもう一方に食わすべくきちんと冷蔵庫に入れた。
いつだったか、この話を三蔵と悟空にした時、ふたりは「だから何」という顔をした。
こいつらだって昔は住居を同じくし、同じ料理当番が作った同じ飯を(量は違えど)食っていたが、そのうえ同じ時間に寝起きして同じサイクルで生活していたから、食事だけピックアップする理屈が分からないんだろうと俺は解釈した。
俺たちには食事しかなかった。
同居3年目の秋の初めに、それは終わる。
肌寒い夕方で、起きたら八戒が出掛けていていなかった。もの凄く腹が減っていたが、とりあえず八戒が帰ってくるまで待つことにして、ソファーの上にひっくり返った。
空腹というものはぼんやりと強烈だ。体の曖昧な範囲が痛いような重いような疼くような、何処がどうという訳でもなくもやもやと、辛いだけはしっかり辛い感覚が何かに似てる。
電話がなり、三蔵が重々しく西へ出掛ける旨を俺に伝えた。俺は了解して電話を切った。八戒がどう思うかは、例によって全然想像がつかなかった。
30分ほどで八戒が帰宅し、俺は事情を説明した。
「ふーん」
八戒の返事は呆気なかった。
「何着ていけばいいんでしょうね」
俺は何故かその時、キレた。
元々腹が減って不機嫌だったこともあるが、旅に出ると決まったその瞬間俺が考えたのは、これからは4人で同じものを食うんだということだった。それはとても残念なことに思えた。だいたい八戒は明らかに着ていく服の心配なんかしていない。勿論俺が悪い。八戒は最初からそういう曖昧で適当な奴だったのだ。今になって勝手にカチンときた俺が悪い。
今までどおりお互い適度に無視しあっていればよかったのに、そのまま円満に終わればよかったのに、この3年間で気付かないほどジリジリと何かが進んできて、気が付いたら無視するにはあまりにも近くにこいつがいたのだ。単に、気が付いたのが今日だった。
「俺はおまえのそういうところが嫌いなんだよ」
八戒はしばらく俺を見詰めたあと、視線もそのままに食卓の上に財布を放り投げた。
「どういう意味です」
「いっつも曖昧に笑ってて俺が何言おうが何やろうがどうでもいい顔してよ。ふーんって何だよ、何かねえのかよ。3年一緒に住んでてそれが終わることに関して何か感想はねえのか?」
「…言ったってしょうがないことを言ったってしょうがないでしょう。どうせ好きにしかしないくせに。夜中にバタバタ帰ってくんなとか煙草は外で吸えとか言ったところでやるでしょう。西にだって行くことはもう決めてるんでしょう。僕が何か言ったところで変わるんですか」
「俺は」
聞きたかっただけだ。
…ぼんやりと強烈。
体の曖昧な範囲が痛いような重いような疼くような、何処がどうという訳でもなくもやもやと、辛いだけはしっかり辛い感じは、八戒に感じるものだった。
食事をしていない時の八戒とはほとんど会わず、でもいつも八戒の居場所を確認してから自分を動かした。今日は何を食べただろう、もう食べただろうか、これからだろうか、美味しかっただろうか、それは八戒の体のどこになるんだろうか、そんなことばかり考えてた。
「悟浄」
八戒は、いつもなんとなく浮かべていた微笑を引っ込めた。まるでものを食う時のような大真面目な顔だったので、これから言うことは本気だろうと思った。
そして、俺が思っていたのと同じことを言った。
俺たちはあまりに真面目に食事に向かい合っていたので、いろんなことに、この日まで気付かなかったのだ。
その日の実際の晩飯は酷いものだった。
「…何時」
「さあ」
「12時過ぎてなかったらピザ」
「貴方が玄関まで受け取りに出れるんだったら頼めば?」
俺も八戒も、ちょっと立ち上がれそうになかった。人の前に出られるような見た目でもなかった。夕飯をすっ飛ばして何時間もかけて舐め尽くし、こいつから出たものは全部呑んだが、まだ足りなかった。勿論八戒もそうした。それは俺たちの、ただひとつの約束事だった。
結局そのへんの服だかなんだかで手を拭い、冷蔵庫の前まで這っていって、ハムを(すぐ食えるものがそれしかなかった)腹這いのまま口に放り込んだ。酷いものだったが美味しかった。こいつと食うと、いつも楽しかった。
八戒はスライスハムの最後の一枚をビニールから剥がして呑み込んでしまうと、指を舐め、信じられないことに、そのままぶつかってきた。
「まだやんの?」
「嫌なら嫌って言えばいいでしょう。物わかりのよすぎるとこが嫌いなんですよ」
肉やら油やら八戒やらの味が舌の裏から浸みて、耳の後ろにズンときた。
どうなるかな。
俺は、こいつの中で何かの養分になんのかな。
こいつの細胞のひとつでも、俺でできたりすんのかな。
「辛っ!」
悟空がレンゲを放り出した。
「このスープ辛ぁ〜!」
「あ、すいません。メニューに辛口って書いてありました」
「水飲め悟空」
確かにその店のスープはかなり辛く、三蔵すら早々ギブアップした。
「俺もういいや」
「おまえらも無理して飲むな。あとで胃痛くなんぞ」
さっさとメインに移ったふたりを尻目に、残りのふたりでゆっくりスープを啜った。
「…うっわ、匂いが既に目にくるわ」
「…これはあとでキそうですね。唇腫れたら嫌だなあ」
その辛さは胃壁に貼り付いて責められるように痺れたが、不快ではなかった。
俺と八戒はほとんど涙目になりながら、ふたりで4人分、全部飲んだ。
fin
良様リク、85(or天捲)情事後&キス。
本当に本当にお待たせしてごめんなさい。
一瞬「飢餓同盟」とかぶるかと思ってヒヤヒヤしました(第三者的感想)。
お腹すいた。
■BACK