ナイトマザー






 その夜「お互い最も冷淡に扱っていい相手」と同室になった俺と三蔵は、誰に咎められるでもなく各々のベッドの上で弛緩しきって煙を吐いていた。
 一日を終わりにする時間は日によってまちまちだがテンションは似たようなもんで、一日中ジープに揺られて戦って喧嘩して怒鳴って笑って疲れ切ったその後に腹が満ちたりなんかすると、もう例外なく脱力の極みだ。もうすぐ三蔵がこっちの了解も取らずに灯りを消し、俺は暗闇で音を立てずにできること、例えば煙草を吸ったり爪を磨いたり床で腹筋したりナニをナニしたりしてから寝る。
 そんなふうに一日が終わるはずだった。平和に。
 悟空の怒鳴り声が聞こえたその時も、俺らはしばらく何も聞こえなかったようにそのままの姿勢でいた。
 口をきけば喧嘩になる間柄だし疲れてもいたし、正直「夢かしら」と思ったのだ。だが隣のベッドを見たら「今のは俺の幻聴じゃあるまいな」とボスが俺に目で問い質していたので、夢ではないことが分かった。慌てふためいた俺らは煙草を銜えたまま廊下に飛び出し、ノックもせずに隣室に突入した。三蔵は悟空の、俺は八戒の事になると、やや慌てふためきがちになるのだ。
 扉を開けると八戒が凍り付いたように立ち竦んでいて、悟空が泣き喚くといった風情で怒鳴っていた。
 繰り返す。八戒に、悟空が、怒鳴っていた。
 我が目を疑う事態に耳まで気が回らず正確な言葉は忘れたが、酷いとか信じられないとか許さないとか、そういうことだ。
 俺と三蔵は、仲裁に入ることにまったく慣れていない。三蔵の選択肢は「両方撃ち殺す」しかないし、俺は触らぬ神にたたりなしで黙って見物するのが常だ。仲裁に入るために生まれた八戒の日頃の言動を思い起こして「まあまあ」と言ってみたが、そんな無力な合いの手は悟空の罵声に呆気なく弾き飛ばされた。
「…ごめんなさい」
 八戒は悟空の罵声の合間に何とか呟いたが、謝って済む問題じゃない事は自分が世界中で一番分かっているような宙に浮いた口調だった。悟空は容赦なく「謝って済む問題じゃない」と言った。
 謝って済む問題じゃないなら、どうしたって済む問題じゃない。
 悟空は八戒を怒鳴りつけながら、その事に途中で気付いてパニックになり、ますます激昂し、引っ込みがつかなくなり、しまいにはバカとかもう知らねぇとかどっか行けなどと無茶苦茶な罵倒に発展した。
「…おい、なんか知んねえけど言い過ぎだ」
「うるせえ赤ゴキ!」
「何だと山猿!」
「混ざるなアホ」
 三蔵は悟空の両肩をひっつかんで二、三度揺すぶってから、視線を合わせた。
「どうした悟空。落ち着いて話せ」
 悟空は三蔵の顔を真正面から見た途端、いきなり黙り、何度か口を開きかけ、また閉じ、ぼろっと涙を零した。うわあ。
 ああいかんいかん俺の担当はこっちだったと振り返ったら、八戒は蒼白になってペタンとベッドに座り込んでいた。
「え…えー…あ−、どうした八戒。おおお落ち着いて話せ」
「…貴方こそ」
「なんだ、どうした、何した」
「…数珠を」
「数珠?」
「あの…透明な…悟空の」
「ああ、はいはいあれね」
「…割っちゃって」
「はあ!?」
 俺は正直に声をあげた。透明な悟空の数珠というのは、会ったばかりの時に三蔵が悟空にやったやつだ。寺にいるからにはそれぐらい持ってろということだろうが、悟空の宝物だった。それが悟空の宝物であることは、俺と八戒は骨身にしみて知っていた。別に毎晩磨き上げて大切に仕舞うとか、常に身につけるとか、これは俺以外触るなと宣言するような分かりやすい大事に仕方はしていなかったが、実に実に何気なく、もしかしたら無意識で、出発の前には数珠をしまった鞄のポケットを外から撫でたりしていた。それを、それが入った袋を、八戒は先ほど景気よく踏んづけてしまった。
「ふ、踏んだぐらいで割れたか。やっす」
「…そういう問題じゃないです」
「…分かってる」
 勿論そういう問題じゃない。わざとやった訳でもない八戒が悪いとは言えない所謂単なる事故だが、そういう問題でもない。悟空がいくら怒っても数珠は直らないがそういう問題でもない。悟空は怒って八戒は謝るしかない。仕方ない。
 八戒はなんとか立ち上がって、頭を下げた。
「ごめんなさい悟空。…本当に、ごめんなさい」
 悟空は無言のままだったが、三蔵は盛大に眉を顰めて「はあぁ?」と言った。素直な奴だ。
「呆れたな猿。あんな剣幕で八戒をぎゃーぎゃー怒鳴りつけるような事じゃねえだろ、驚かせんな。 あんなもんプラスチックの安物だ、欲しけりゃまた買ってやる」
 いや、そういう問題じゃないんだ三蔵。
「だいたいぽんと床に置いとくのが悪いんだろうが。おまえが悪い。いいか悟空、形あるものはいつか壊れ…」
「そういう問題じゃない」
 悟空が絞り出した声は、第三者である俺の心臓すら音を立てて鳴らした。
「俺は、だって、知らなかったんだよ!」
 すぐ隣で八戒が、長く、静かな息を吐いた。
「……知らなかったんだよ」
 そうか。
 知らなかったのか。
 壊れるまで、それが宝物だったことを知らなかったのか。

 悟空は、何で三蔵にもらったものが宝物だったのか、知らなかったんだ。


 絶句した三蔵と悟空を部屋に残して、俺と八戒は廊下に出た。
「散歩でも行かね?何か、ちょっと寝れねーや俺」
「…夜中ですよ」
「だから何だよ」
 暗くてよく分からないが若干血の気が戻った模様の八戒は、虫の音が微かに聞こえる外まで黙ってついてきた。多分俺の部屋で寝ることになるだろう。俺は正直かなり動揺していた。悟空のあの熱い塊が三蔵に届く現場に居合わせてしまったことに、動揺して、感動して、なんだか忘れられそうになかった。羨ましくもあった。
 自販機まで歩いて熱い茶を買い、また宿までの道をゆっくり戻った。
「人のことはよく見えるって、ほんとだな。悟空本人より俺らのほうが悟空のこと知ってたんだな。三蔵も、あんだけ悟空悟空なのに、あの様子じゃ気付いてねえな」
「…ですね」
 八戒の速度が落ちたので、俺は途中で止まって、八戒が横に並ぶのを待った。
「割った時のあの音、ずっと鳴ってるです頭の中で」
「そう」
「…どうしたらいいんでしょう。悟空に。なんで僕…いえどうしようもないんですけど」
「美味いメシ食わせてやりゃいいんじゃねえの。数珠なんかどーでもいいんだよ三蔵がいりゃ」
「です、ね」
 こんな殊勝な八戒は滅多に見ないので、俺は随分と遠慮無く八戒を眺め回した。
「…何です。貴方さっきから腹立ちますよ、人が落ち込んでるのにヘラヘラと」
「あ、ごめん」
 ヘラヘラしてたか。口を噤んだ俺を、八戒は何だか不思議そうに眺めた。
「…僕が泣くとこ、見たいですか。泣こうと思えば泣けそうですけど」
 何でそんなことを聞くのかさっぱり分からなかったが八戒ならどんな八戒でも見たかったので、俺は何度か瞬きしてから「見てみたい」と答えた。
「こんな時に、なんですけど」
「うん?」
「貴方は多分、僕のことが好きなんじゃないかと思います」




 あの夜のことを、俺は三蔵とだけ、時々話す。
 いい夜ではなかったし、笑い事でもなかったのに、当事者のふたりに聞こえないようにその話をする時は、いつも俺は身体が温まるし、三蔵は何度繰り返されても「聞き飽きた」と言わない。
 ふたりも泣いたのに、優しかったな。
 本当に優しい夜だった。



fin

中条様のリク「怒る人」。
誰が誰に怒っててもいいけど金蝉が怒られるのは可哀相なのでやめてくださいとのことでした。
そうですね。(力強く)
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