炎をじっくり眺める機会は今時分あまり無い。 ガスの蒼い火や、一瞬で役目を終えるライターの灯りなんかじゃない、本物の火。 寺にいると火と縁が切れない。仏の前には蝋燭を立てる。本堂に火は絶やさない。祈祷には篝火。死人は炎であの世へ送る。人間の焼ける匂いに取り憑かれ、小坊主を殺して作った人間蝋を毎夜灯した僧の話が怪談に残るほど、火はいつも三蔵の身近にあった。 夜中の読経は三蔵の日課だ。誰に命じられた訳でもない。炎を前に心の平静を保つ、それは彼にとって最高の苦行だ。静まりかえった闇の中、一対一で向き合う。炎を前に精神が散らされる。目を閉じても熱を感じる。その熱は、小さければ小さいほど、ときに太陽より強く存在を主張する。 …太陽と月はどちらが人の役に立っていると思いますか。 …それはもちろん月でしょう。太陽は明るい昼間に出ているけれど、月は暗がりを照らしてくれるのだから。 いつぞや聞いた寓話も笑えない。じりじりと空気が薄くなる。 …たった1本の蝋燭のせいで?回廊とは境がない。あり得ない。気のせいか。だが息苦しい。小さな炎と酸素を奪い合う。息が荒くなる。不意に、炎が大きく揺れた。 生きてる。 人間と同じものを吸って生きている。 三蔵は思わず炎を握りつぶした。錐が掌を貫通したような激痛。 …最後の抵抗に相応しい。 「三蔵」 暗がりで苦労して再度炎を灯した途端、静かな声がした。 「…おまえか。ひさしぶりだな」 突然の登場にも慣れた。炎が灯るのを待って声をかけたのだろう、本堂の隅にきちんと正座した八戒がいた。三蔵の読経が毎晩だと知ってから、散歩のついでとばかりにふらりと現れる。年が変わらないせいか、妙に話も合う。 「貴方の声、落ち着きますね」 「ご無沙汰だから夜間徘徊の癖も直ったのかと安心したが」 「人をボケ老人みたいに言わないでくださいよ」 声の調子で八戒が微笑んだのが分かった。 「お節介も性分なんです。先週ボヤがあったそうですね、境内の物置。辺りの草も燃えたまんまになってました」 「寺も不景気でな」 「火をつけたのは悟空じゃありませんか?」 三蔵は真っ直ぐ立ち上がって微動だにしない炎をしばらく眺めていた。 「言うほどたいした火じゃねえ、子供の悪戯だ。だいたい消したのもあいつだ」 「三蔵」 前触れもなく、火が消えた。 「…火はある種の人にはクスリと同じです。火をみるとすっとする、火を見ることがストレス解消になる、覚えたらもう戻れません。子供だから余計」 「分かってる」 「分かってません」 「分かってる。あいつは自分が異常なんじゃないかと怖がってる。何とかしねえととは思ってた」 「貴方じゃ無理でしょう」 三蔵は溜息をついて懐を探った。指に突き当たったマッチ箱からは何の音もしない。先刻のが最後の一本だった。今日はもう打ち止めだ。 「明日、来られるか」 ほんの少し間があって、何故ですと返事が戻ってきた。 「…悟空と会わせる。おまえの話をしてやってくれ」 この世の何割の人間が火に執着するのかは分からない。 子供の頃から宇宙に魅せられ空を見上げる天文学者や、海底に惚れ込んで世界の海に潜り続けるダイバーのように、火に夢中になる人間が何人いるかは分からない。 ただ翌晩本堂に座った3人は、残らずその類だった。星や海には罪も犯さず簡単に会えるのに、燃えさかる炎には会えない。業火に会うには自分で火を点けるしかない。 「一度、お会いしましたね悟空」 夜中に起き出すのは年端もいかない子供には苦痛だっただろうが、床の冷たさのせいか、悟空の顔は意外とはっきりしていた。予め三蔵に聞いていたのだろう、さして驚いたふうも見せず人懐こい笑顔で初めましてと頭を下げた。 「え?いつ?」 「火事見物で。ほら、何年か前に梁井で大火事があったでしょう」 「2年だ」 三蔵が苦々しく口を挟んだ。 「そうでしたっけ。三蔵と貴方で、ロープのすぐ傍で見てましたよね」 「…覚えてない。ごめん」 「あ、いえ、お坊さんと子供が一緒にいたから。結構目立ってたんです」 悟空の表情がほんの一瞬強張った。寺の窓から炎が見えて、悟空は三蔵にねだったのだ。 なあ三蔵、もっと近くで見たい。 不謹慎なのは重々分かっていたが、その美しさはこの世のものとは思われなかった。見物人は息を呑んで炎を見上げていた。あれは、鑑賞する目だった。芸術に向き合う感嘆の目。 「貴方も火が好きですか。綺麗だったでしょう?」 八戒は柔らかく微笑んだ。 「僕が点けたんです」 梁井で起きた火事は約7軒を焼いた。何故「約」かというと、梁井と呼ばれるその地域はいわゆる長屋横町で、隣家が屋根を共有していたために家の数と世帯数が一致しなかったからだ。 火元と思われた家は7軒の丁度真ん中に当たった。悟浄の家だ。 当時あの町の雑貨屋には大抵悟浄の絵があった。 悟浄は蝋燭の炎しか描かなかった。絵で生計を立てていた訳ではなくほんの遊びで本職は賭博師だから厳密な意味では画家ではない。蝋燭の絵も一晩で描いては名刺代わりに近所にぽんぽん配っていたので、この界隈ではちょっと名が知れていた程度。それも絵よりは賭博の腕のほうが有名なぐらい。 八戒が悟浄を知ったのも、雑貨屋に掛かっていた絵だった。電灯は一般家庭にもそろそろ普及していたが、蝋燭は非常用か祭事用か、でなければ観賞用にしぶとく生き残っていた。最初八戒は「蝋燭有ります」の貼り紙代わりに職人が配っている複製画か何かかと思っていた。三軒目でようやっと、一枚ずつ違う絵だと気付いた。八戒に絵心はないから、その辺りの悟浄の心理は不可解極まった。絵描きなら様々な対象に興味を向けるものではないのか。だがその絵はいつも変質的なほど同じ構図に同じ色で、ちびた蝋燭が燃えている、それだけだった。後ろには壁、下には蝋燭が置かれている机らしきものは描いてあったが、明らかにおざなりだった。 …変人だろうか。 八戒は私塾で子供に読み書き全般を教えている半端な教師で、小説は読んでも絵には疎かった。巧いのか下手なのかも判断がつきかねた。面白くない絵だなというのが正直なところだ。近づきになったのは、雑貨屋で悟浄の名前を店主から聞いている最中に、当の本人がふらっと現れたからだ。 「悟浄、あんたのファンだと」 悟浄は店主から煙草を受け取ってから八戒を見た。 「…おいおい客を困らせてんじゃねえよオヤジ。だから流行んねんだよこの店」 面食らった顔でもしたらしい。八戒は慌てるあまり墓穴を掘った。 「あの、いえ、よく見るから気になって。好きかどうかはよく解らないですけど」 正直すぎる答えが悟浄に気に入られた。 「やろうか。家にいっぱいあるから」 悟浄の家は店の向かいだった。一瞬足を踏み入れるのに躊躇うほど狭く、隣室の音が筒抜けの安普請だ。まだこんな家があったのかと一歩部屋に入った途端、危うく叫びそうになった。 蝋燭の絵が、何十枚とこちらを向いて並んでいた。 想像して欲しい、蝋燭が何十本と灯っているだけの部屋を。10人いたら9人は「不気味だ」というだろう。その感情はどこからくるんだろう。何が異常だと思わせるのだろう。子供の泣き声や通りの往来が五月蠅い絵に描いたように健康的な町中で、この部屋は異空間だ。悟浄はまったく無造作に一枚抜き出して、八戒に放って寄越した。 「どれも同じようなもんだ」 八戒はなんとなく拍子抜けして絵を受け取り、帰る道すがら教師らしく悟浄の心理を分析しようとした。蝋燭が好きなんだろうか。それとも炎?描くのが難しいから、創作欲をかき立てるのかも。 そのまま賄い付きの下宿に戻った頃には日が暮れていた。八戒は部屋の電灯を点ける前に、胸に抱いていた絵を何気なく棚に凭せ掛けた。 「……」 上着を脱ぎかけたそのままの姿勢で、八戒は固まった。 部屋が、蝋燭にぼうっと照らされていた。 八戒と悟浄の付き合いは周囲に驚かれながら細く続いた。教師と賭博師。まったく接点のないふたりはお互いの領域を侵すこともなく、ほんの数時間重なる活動時間帯に夕食を共にした。 |