クラシック
もっと言葉が自由だったらいいのに。
悟浄みたいに。
「おお、新鮮」
悟浄は思わず口に出した。男子トイレの個室の中。
トイレでこそこそ煙草を吸うなんて生まれて初めてだ。そうだ初めてだ。洗面所ならあったがトイレは初だ。
悟浄はうきうきと二本目の煙草に火をつけた。広いところで吸うのが気持ちいいもんだと思っていたが、如何にも悪いことしてるみたいで、これはまたなかなか。
煙が一瞬目の前に溜まり、じりじりと目の前の扉を這い登り、めんどくさそうに仕切りを跨いでいく。
この宿は時流を汲んでか全館禁煙だ。部屋でこっそり吸ってしまえばいいようなものだが、八戒の「一晩ぐらい我慢できますよね〜大人なんだから」に煽られて「俺は平気だけど坊主は無理だな」「てめえだろそれ」「俺は中身もあそこも大人だし」「どの口で言いやがる」などと意地を張り合った結果同室にされて、どちらも吸うに吸えなくなったのだ。
ポケットに突っ込んだ腕時計を引っ張り出し、また戻し、寒くもないのに掌を擦り合わせた。楽しいのだ、こう、こそこそしている感じが。
こんなことで感動できるなんて我ながらなんてお手軽な男。
それに比べてどこかの誰かさんは最近また鬱周期だ。
何てめんどくさい男を俺は…
バン!
いきなり手洗いの戸が開いた。
悟浄は叫びかけた口を慌てて塞いだ。さっき吐いた煙が、よりによって今この瞬間、仕切りを越えた。
入ってきた影は、何故だか入り口で立ち止まったまま動かない。
おいおい何してやがる、3時だぞ3時、とっとと小便して出ていけ、窒息する、いやもしや貴方は宿の従業員さんであるとか?
死にかかったところでようやく、半分笑った声がした。
「悟浄?」
「おまえかよびびったぁ!出てくまで息吐けねーかと思った!」
「部屋で吸えばいいのに。三蔵ならもう寝てるでしょ」
「匂いで気づかれる」
「外は?」
「しつけぇな、ここで吸ってみたかったの!」
八戒はしばらく黙ってから「すいません」と言った。
…変な反応。悟浄は前屈みになって扉に耳を押し当てた。顔は見えない。音しかない。八戒はさっきからずっとコツコツ爪を弾いてる。声も所在無さ気だ。ふわふわしてる。
「…眠れねぇの?」
「はい?いいえ?」
「だから眠れねえんだろ?トイレに来て用も足さねえで」
「いえ、しますよ。します。はい」
相変わらず妙なテンポの返事と靴音が中まで入ってきて、傍で止まった。
「…今、上着捲った」
「…ええ」
「今、ジッパー下ろした」
「…悟浄」
「今、パンツの前開けた」
「…悟浄、黙っててください」
「お、引っ張り出した」
「…悟浄、他のこと喋っててください」
「出た?」
「悟浄!」
「元気出た?」
八戒はようやく、少し笑った。
「全然」
重症だ。
時折一睡もできない長い長い夜が、繊細なこの男を訪ねてやって来る。日頃溜めに溜めた悩みだの憂鬱だのが、この夜を狙って待ってましたとばかりに押し寄せる。眠れない夜のことを、八戒はいつもとんでもない恥のように、隠す。男として分からなくはないが。
「…恥ずかしいじゃないですか、なんか。…みっともないし」
「意味が分からん。親友じゃねえのか俺ら。恥ずかしがるような仲か?俺は悲しいぞ」
「貴方だから恥ずかしいんですよ」
「何で?」
八戒が手を洗う水音がして、止んだ。顔が見えないほうが喋りやすいだろうと、悟浄は便器に座り直して、3本目に火をつけた。
「…というかもう全部恥ずかしい。貴方見るたび恥ずかしいし名前呼ぶたび恥ずかしい。ごじょうって。悟浄って。何て名前なんですかそれ。もはや放送禁止用語ですよ。卑猥な。呼んだだけで勃ちそう。悟空みたいな健やかな子供が軽々しく口にする用語じゃないし三蔵が言うには百年早いっていうか」
「おまえ何言ってんの!?」
八戒は、あーあと溜息をついた。
「…何言ってるんでしょう」
俺が好きだと言ってんだよ!
「…貴方に言いたいことがあるんですけど…こう、もっとちゃんと…思ったことがうまく言えなくて。貴方みたいに…うまく…綺麗に…さり気なく言えればいいんですけど、思いつかなくて。考えてたら眠れなくて辛くて。…悟浄、女性を口説く時いつも何て言います?」
扉に耳を当てたままだった悟浄は、思わず頭で戸をガコンと鳴らしてしまった。
「…おまえ、素?」
「え?」
「す、素直に言えばいいんじゃねえかな」
「じゃあ何ですか、貴方お目当ての女性の隣に座った途端好きだとかやらせろとか服の中が見たいとか言うんですか?それはちょっと最低ですよ」
悟浄は危うく戸をぶち破りそうになった衝動を何とか抑えた。な、なんて男を俺は。
「…指、細いね」
「え?」
「指細いね。…指が細くて綺麗だねとか、指が細くてそこが好きまで言わないで寸止めにして相手に任せるの。脈がない場合は、単に指が細いって言っただけで褒めても口説いてもないから恥かかないで済むし、脈があったら向こうが勝手に深読みする」
「…さすが悟浄」
「…そりゃどうも」
「指が太かったらどうすればいいんですか?」
「睫長いね、とか。色白いね、とか。探せばなんかあんだろ」
「何もなかったら?」
「何もねえ女口説くな」
悟浄はコンと中からノックして、鍵を外した。
「入れよ。楽しいぜ、隠れて悪いことするみたいで」
意図するところが伝わってるのかいないのか、八戒はまだ思案顔で入ってきて、といっても狭いのでほとんど悟浄の膝を跨がんばかりになったが、後ろ手でドアを閉め、しっかりと自分の手で鍵をかけた。
そして真顔で言った。
「何もない男だったら?」
…あんまりだ。
fin
ホモカップルがトイレにいて、本当に排泄で終わるなんて信じられない。
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