て の ひ の さ か な






「さあ行け事後処理班」
「はーい」
 一同は素直に返事して、ゲートから次々下界に降りた。
 捲簾は人数を数えながらひとりひとり送り出していたが、最後のひとりが背後に突っ立ったまま動かない。捲簾は手の中でボールペンをカチカチ鳴らしながら限界がくるまで黙って耐えた。
「……さあ行け。事後処理班副班長」
「どうぞお先に」
 天蓬は壁のようだ。笑わないし、動じない。ボールを打つと打った早さで別方向から返ってくる。打たないと打つまで待っている。
「先に出ろ。俺は忘れ物が」
 肩越しににゅっと、昨日ピカピカに磨き上げた釣り竿が出てきた。
「あ!」
「なんですかこれ。人参下げて背負うと早く走れるとかいう秘密兵器ですか」
「ベタベタ触んな!指紋がつく!」
 捲簾は竿をひったくりついでに、今日初めてきちんと天蓬を見た。
「…おまえ、軍服どうした」
 天蓬は相変わらずにこりともしなかった。
「回ってます。洗濯機の中で」

 事後処理遠征時の上司たちはすっかりレジャー気分なので、部下たちもそれなりだ。
 天蓬は警戒されないようわざわざ普段着で骨董漁り、捲簾は海に魚釣り。
「大将と元帥どこ行った?そろそろ上に連絡入れる時間なんだけど、何て言っとけばいいの」
「いつもの。おじいさんは山へ芝刈り、おばあさんは川へ洗濯」
「…言っとく」
 しかし今日はちょっと事情が違った。
 ナタク軍は少々出遅れたらしく町はあちこち破壊され、人々は瓦が散乱した大通りを大工道具を抱えてあたふた走り回っていた。
 天蓬はしばらくその光景を眺めたのち、静かに落ち込んだ。
 こんな時に骨董や古書なんて呑気な物を並べて、しかも売ろうとしている商魂逞しい店はない。売ってくれないからといって強奪する訳にもいかず、天蓬は白衣を脱いで(お医者さんですかと呼び止められるので)復興中の町の周辺をぐるりと回り、砂の中から石をひとつ拾った。天蓬は物を愛でるのが好きなだけで特に鉱物に詳しくはないが、黒と白の粒が均等に浮きあがったその小石は形も綺麗で手に馴染み、なんとなく天蓬の気に入った。
「…おにぎり」
 厳かにおにぎりと命名された石をポケットに入れ、天蓬は海へ向かった。
 他に行くところがなかった。


「おじいさんもたまには洗濯したりしないのか?」
「ないね。絶対」
 部下たちに残る仕事は上司の帰りを待つことだけだ。それなりの部下たちは特に不満も言わず、天界と違う空気と景色を楽しむ。大将の荷物に一升瓶が入っているのは勝手にチェック済みだ。うまく行けば、釣りあげた獲物のご相伴に与れる。
「なんで仲悪いんだろうな」
 ささやかな宴に天蓬が同席したことは、まだない。捲簾が誘わないからだ。捲簾が誘わなければ天蓬は来ない。そういう人だ。
「知らないんだろ」
 捲簾の一番の腹心であるところの部下は、魚を焼くに適当と思われる小枝を拾い上げて傾きだした陽に翳した。
「知らないものを、好きにはならないね」
 

 班長は砂の向こうの岩の端っこに腰掛けて、ぼんやり糸を垂れていた。
 付き合いだけは無駄に長いが仕事を離れると口もきかない。釣りをしている現場を見るのは初めてだ。
 あれは、次々に獲物がかからなくても楽しいものなんだろうか。ああして垂らしておくだけなら竿を人の手で持っているのは効率が悪い気がするが、まあ素人には分からない微妙な技があるのかもしれない。
 しばらく遠くから眺めていたが、煙草をふかす以外の目立った動きがないのですぐ飽きた。捲簾のすることなんかどうせ考えても分からない。
 天蓬は下駄のせいでわりと騒々しい音を立てながら、岩を渡って捲簾に近づいた。
「…どしたよ。珍しい」
「さあ」
「やってみる?」
「いえ、どうせつまんないんで。あ、おにぎり見ます?」
「…いえ。どうせつまんないんで」
 捲簾はそのまま視線を海面に戻し、天蓬はちょっと考えて、そろそろと水飛沫の散った熱い岩に腰を下ろした。波が岩にぶつかる地鳴りのような震動が、直接腹にきて体が震える。
 下界はうるさい。
 来るたび思う。なんてうるさい。力一杯荒れ狂って必死で生きてるものばかり。
 天界にそんなものはない。この男ぐらいしかいない。こんな騒々しいところに生まれるから心も体も叩きのめされて、100年足らずしか生きられないのだ。
 …綺麗だが。そりゃまあ確かに、その生き様は綺麗かもしれないが。
「…居心地悪いですね」
「そうか。どっか行け」
「貴方の隣がじゃなくてここが。全部。…僕、何でか来るたびに下界に嫌われてる気がします」
 捲簾はしばらく黙っていた。
 風にのった水飛沫が霧になって、捲簾の髪を濡らしていく。
 変な男だ。はなから返事をする気がない時と、返事をする気はあるが言葉を選んでいる時の違いを、ちゃんとこっちに教える。声や視線でないもので、それを懸命に伝える。敏感で優しい。
 なのに自分はどうしてここまで嫌われたんだろう。最後にきちんと目をあわせたのはいつだろう。5分以上話したのはいつだったろう。
「…それはだな、おまえさんが下界を嫌ってるからだ」
「嫌いじゃないですよ」
「じゃあなんで優しくしないの」
 天蓬は町の大通りで舌打ちしたのだ。
 今日の屋根を繕うのに必死な人々の前で、店が営業していない、ただそれだけのことに大人げなく舌打ちしたのだ。
 すぐさま我に返ったが、恥ずかしくてそこにいられなくなった。そしてここに逃げてきた。
 下界が苦手なのは、生きるのに必死なものたちに、そうじゃない自分を無言で責められる気がするからだ。
 捲簾が苦手なのは、あまりにも懸命に何かをするので、そうじゃない自分を無言で責められる気がするからだ。
 悩むときも迷うときも笑うときも戦うときも、全力でそれをするものを前に、自分が恥ずかしくなるからだ。
  …一生懸命なのはそんなに偉いのか。必死なのがそんなに立派か。
 50%の力で仕留められる獲物には50%しか出さない自分に比べて、捲簾は必ず100%出した。面倒事にはすぐ目を瞑る自分の前で、捲簾は全部かぶった。どんなにいい加減な相槌も聞き流さず、一度話したことは絶対に忘れなかった。
 無駄なことばかりして。お人好しで。不器用で。
 否定すればするほど楽なほうに流れる自分が間違っている気になって、捲簾の何の気ないひとことに過敏になって、卑屈になって、ますます言葉が荒くなり、しまいにはこうしてまともに相手してくれなくなった。

 なんで優しくしないの?

 頬に生暖かい飛沫がきた。
 銀色の魚が宙を飛び、捲簾の手の中にすとんと降りた。そう見えた。
「…何て魚です?」
「知らない」 
「釣りが趣味で知らないはないでしょ」
「釣り方と味しか知らねぇよ。女と一緒」
 捲簾はさっさと針を外すと、犬や猫でもするように、魚の目を覗き込んだ。
「美味しいんですか?」
「釣ってすぐのは美味くねえよ。ほら。混乱して怒ってる」
 ほらと言われても、生きている魚と目を合わせた経験がない天蓬には怒ってるのか泣いてるのか分からない。まあ、捕まって楽しいわけないだろう。捲簾なんかに。
 よく見ようと身を乗り出した途端、その名前もない魚は傍らのバケツにドボンと放り込まれた。中に同じ魚が7,8匹泳いでいて、あっというまにどれがどれだか分からなくなった。
「こうしてしばらく置いとくと、こいつらも腹くくって覚悟を決める。そしたら味が落ち着いて美味くなる」
「覚悟」
「食われる覚悟」
 天蓬はバケツの縁に手をかけて、随分長い間中を見つめていた。覚悟を決める瞬間が見たかった。
「…面白いか?」
「わりと」
「そりゃよかった」
 捲簾は実に何ヶ月ぶりかで天蓬に向かって微笑んだのだが、生憎天蓬はバケツに夢中で見逃した。
「やべ、戻んねえと。時間なくなる」
「まだ大丈夫ですよ」
「焼いて食う時間だバカ。おまえも食うだろ。バケツ持ってきて」
「捲簾!」
 竿を抱えて立ち上がった捲簾は数歩歩いてから振り返り、天蓬が慣れないバケツから盛大に水を零しながら立ち上がるのを待った。
「貴方が苦手なのは、単に嫌いだからだと思ってました」
「俺も思ってたよ」
「どっちかというと好きです」
 捲簾は。
「優しくしたら、好かれますか」
 何か言う。
 
 一歩遅れて覚悟を決めた魚たちが、バケツの中でぐるりと回った。


fin

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