崩壊の朝
恋人に死なれるという経験を、何割の人がするんだろう。
しない方が少ないんじゃないの。
悟浄はわざわざ他のことをしながら言う。雑誌を捲ったり髪を縛ったりしながら、もう100人は恋人に死なれたような言い方をする。
ほら夫婦だって元恋人なんだし。
八戒は感心して頷く。悟浄は100人の恋人に死なれたような言い方すらできるのだ。
「…あーあ」
八戒は空に向かって煙草の煙を噴き出した。
どうしてこうもまあバカみたいにいい天気が続くんだ。時間が流れてる気がしない。
工学部棟の屋上はわりと穴場で、昼休みだというのに構内の喧噪に関係なく静まりかえっている。理系の頭には外で風に吹かれようなんて発想がないのだろうか。二本目に火を付けたところで、実にやる気のない音をたてて背後の扉が開いた。
「八戒〜。三講も四講も休講〜」
靴を引きずりながら近づいてきた悟浄は、柵に、凭れるというより激突した。轟音と振動が思わず飛び退いた八戒の体を伝って銜えた火までガタガタ揺らす。
「…何事です」
「眠い」
悟浄はいつも簡潔だ。
「レポートで完徹。1分後には俺は寝ている」
「服が汚れますよ」
悟浄は柵をずり落ちながら手を伸ばし、八戒の胸ポケットからセーラムを半分抜き出した。
「…おいおい遺品だろコレ。吸っちゃうか?」
「煙草ですからねぇ」
残されたものが絵だったら壁に掛けて眺めたし、鉢植えだったら水をやった。煙草だから吸ったのだ。
ここ1ヶ月の八戒は頭がうまく働かず、目の前にあるものをそのまま処理することしかできずにいる。毎日同じ時間に起き、登校し、講義を受け、バイトして、下宿に帰り、寝る。誰かが冗談を言うと笑うべきところで笑ったし、食事も日に三度きちんと食べ、一日一日を正確に熱心に寸分の狂いもなくこなした。何かを踏み外すと、もの凄い勢いで全部崩れそうで。
「おまえの相手がスモーカーってのは意外だわ」
「女は煙草でも吸って寿命縮めないと好きな男が軒並み先に逝っちゃうのよ〜ですって」
「おもしれえ女」
ちっともおもしろくなさそうに言うと、悟浄は勢いよく箱をポケットに押し戻した。
「縮めすぎだ」
「ですね」
八戒は彼女が死んだ夜、何故か悟浄に電話した。
何故か。
ゼミが同じでたまに集団で呑みに行くだけの、八戒に付き合っている相手がいたことすら知らない男。友達とも言えなかった。さぼりがちの悟浄とは、会った回数が片手で足りた。
既に頭の動きが尋常でなく鈍っていた八戒は、電話機が目に入ったので受話器を取り上げ、目の前にゼミの連絡網が貼ってあったので悟浄にかけた。番号に同じ数字が多くてかけやすかったのかもしれないし、前日の飲み会で同席したせいかもしれない。何かの予兆があったのか、八戒はその夜、度を超して飲んだ。トイレで酔いを覚まそうと顔を洗っていたところへ悟浄がふらっとやってきた。
「へえ」
こっちはこっちで足下が危うい悟浄は、遠慮無く八戒に体重をかけて肩越しに鏡を覗き込んだ。
「眼鏡取るといっきなり顔違うなぁ」
冷やした頬が熱くなった。眼鏡を取った自分の顔を、八戒は知らない。視力が半端なく悪く、矯正を眼鏡に頼る人間は皆そうだ。取ると鏡が見えないからだ。悟浄は「へえ」とまた声を上げた。
「うわ〜そうなんだ。目悪い奴ってそうなんだぁ。なるほどね〜。そっかぁ知らなかった。ふーん、ひとつかしこくなっちゃっ…………」
「悟浄?」
「失礼」
悟浄は肩からぱっと手を離すと凄い勢いで個室に飛び込んだ。
「…大丈夫ですか?」
礼儀として一応声はかけたが返事はなく、代わりに立て続けに水が流れた。八戒は小さく溜息をついて洗面台に向き直り、顔を洗い直した。介抱が必要なタイプには見えない。むしろこっちが介抱してもらいたい。見捨ててトイレを出ようとしたその途端、ほとんど独り言のような呟きを聞いた。
「…はは…傑作。自分の顔も知らねーんだ」
八戒がいるのを知ってか知らずか悟浄が漏らしたその一言は、八戒の心臓を鷲掴んだ。家に戻る道すがら、酔った頭をぐるぐる回った。漠然とした不安にピントがあった。そう、確かにそうだ。自分は自分のことも知らない。他人のことなど分かるもんか。
今思うと八戒は、自分でも気づかないうちにあらゆることに行き詰まっていたのだ。他人のことは分からない、そんな当たり前のことが苦しくて苦しくて、ようやく分かり合えたと信じていた彼女のことすら結局は、知ったつもりで何ひとつ。
悟浄は突然の電話に驚いたふうでもなく「よお」と言った。目の前にいるようだ、と思った。その時、そう思ったのだ。そこで八戒は「恋人が今日死んでしまった」とそのまま伝えた。「だからどうだという訳でもないのだが他にすることが思いつかないのでかけた」とまで正直に言った。何度も繰り返すが応用ということがまったくできない状態だったのだ。
「そう」
悟浄の返事は簡潔だった。
頭のどこかに残っていた冷静な部分で、自分が夜中に突然こんな告白をされたらさぞ対応に困るだろうと思った。
自分だったらどうするだろう。大丈夫かと尋ねる。大丈夫な訳あるか。大丈夫だったらそれは恋人ではない。死因を聞く。ちょっと生々しい。葬式の日取りを聞くとか。聞いてどうする。励ます。どうやって。しっかりしろとでも言うのか?しっかり?どうやって?
悟浄はまったく予想外のことを言った。
「よしよし」
……よしよし?
あ。ああ、これ、子供の頭を撫でてやる時のあれだ…と思った瞬間八戒ははっきりと悟浄に頭を撫でられてボロボロ泣き出し、喉がからからになるまで水分を絞り出してから、ふつっと泣きやんだ。通話時間を見たら30分以上電話を繋いだまま泣いたことになっていて、八戒は飛び上がって「悟浄」と呼びかけた。
「疲れたか?」
悟浄の声は30分前と同じだった。八戒はもう一度通話時間34分というデジタル表示を確かめた。
「はい」
「じゃあ寝ろ」
切れた。
八戒は受話器をまじまじと眺め、ツーツーと音が鳴り出してから受話器を戻した。そして歯を磨き、布団に潜って寝た。
起こしたのも悟浄だった。電話が鳴り、おはようと聞こえたのでおはようございますと返事した。
「朝だぜ」
八戒はベッドの上に座り込んだまま、腕を伸ばしてカーテンをひいた。
本当だ。
朝だ。
それから今日までの1ヶ月、悟浄とはほぼ毎日会っている。
三日に一度は電話が鳴った。二講出てた?ああそう。メシ食った?あ、そう。じゃあ明日。
目の前にいるようだ、とその度に思う。
最初は、悟浄と会った回数が少ないから電話とのギャップがないのかと思った。普段頻繁に会う相手と電話で話すと、表情が見えないぶん急に淡泊に感じたりする。でも違った。悟浄は声が深いのだ。声に全部込める。顔が見えないからといって手抜きしない。悟浄でなければ、あの言い方でなければ、和紙が水でも吸うようにじんわり浸みたりしなかった。きっと泣きもしなかった。悟浄のことは分からない。予想外のことばかり言う。だから電話した。悟浄がよかった。世界が終わったあの夜に、何か新しい言葉が欲しかった。何でもいいから欲しかった。よしよしだろうがまあまあだろうが、きっと何でもよかった。
悟浄は宣言通り、コンクリートに座り込んで鉄柵を斜めにずり落ちた妙な姿勢で熟睡していた。
よくもまあ、こんなところで眠れる。
八戒にはベッド以外の場所で熟睡した経験がない。もう知りたい事なんか何もないと思ったのに、知りたいなんて思いたくもなかったのに、今この瞬間目の前に見たこともない動物がいて、初めて見る姿勢で寝ている。
八戒は放り出された足を跨いで身を屈め、悟浄の服のポケット全部に手を突っ込んで、みっつめで携帯灰皿を探り当てた。
「借りますよ」
返事はない。風が悟浄の髪を嬲り、すぐ傍でさらさらと音を立てる。
初めての匂い。香水とハイライトの重い匂い。
八戒は視線を寝顔に定めたまま、そろそろと悟浄の上に腰を下ろした。ポケットに入れたままの掌を広げ、悟浄の体に押し当てた。薄い布を突き破ってくる高い体温と強い鼓動。
生きてる体が愛おしい。今自分の傍にいて、無防備に眠ってくれる体が暴力的に愛しい。
八戒は慌てて手を引き抜いた。
何考えたこんな時に。正気じゃない。崩れかけてる。午後の講義は休講だ。突然スケジュール外の余暇ができると何をすればいいのか分からない。
「悟浄!」
八戒は悟浄を揺り起こした。
「……なんなのよ」
「僕、何すればいいですか。暇なんですけど」
八戒の頓狂な言動にも、悟浄はすっかり慣れている。
「寝れば?」
「ここで?」
「寝れなきゃ泣けば?」
「ここで?」
「泣けなきゃ飛べば?」
八戒は柵の向こうを仰いだ。
「…ここから?」
「死ねるぜ」
空が、自分の頭上を軸にぐるりと1回転した。死ぬ?
「俺思うんだけどさぁ、死ぬなんて案外本人にはたいしたことねーんじゃねえの。死ぬまでが大変なんであって、死んだ時にはもう死んでんだからさ。大問題なのは残った奴だけで。死にたきゃ死ねば。止めねえよ。あ〜もう絶対止めねえ。止めません」
八戒は立ち上がって、鉄柵を両手で握ってみた。暖かい錆の匂い。乾いた風。
朝だぜ八戒。
悟浄はがばっと跳ね起きた。
「俺には大問題だっつってんのが聞こえねえのか!!」
「…聞こえましたよ」
気がついたら笑っていた。次から次へと玉のように、零れてきて止まらない。そうか、自分は後追いの心配をされていたのか。だから悟浄はこんなに熱心に傍にいて見張ってたのか。なんだ。可笑しすぎて泣ける。
「…笑いすぎ」
「だって、悟浄、貴方、今なんて声出して、はは、あ、ありがとうございます」
「笑いすぎ!!!」
八戒は眼鏡を外して涙を拭った。
「それは、ええ勿論、ちょっとは後追いも考えましたよ」
「そういう顔してたよ」
悟浄は憮然として答えた。
「世の中に飽きましたーって顔してたよ。飲み屋のトイレでもう既に」
「…貴方と電話で話すまでのことです」
「ふーん?」
あの時の気持ちを説明しようとしたが、巧くできそうになかった。朝が来た、あの時の気持ちを。
「大丈夫、妙な真似は絶対しません」
八戒は早口にまくし立てると、頭を下げた。
「ご心配おかけしました。もう僕に時間使ったりしないでください。なんだったらノート取っときますから講義もさぼって平気ですよ、御礼になるかどうか分かりませんけど、僕、貴方には本当に感謝して」
「黙れ」
八戒はぴたりと黙った。
人が喋っている途中でセリフを千切って投げるような真似を、悟浄がしたのは初めてだ。自分はよくするが。今度はまた何言い出すのかと内心身構えた八戒の前で、悟浄は膝をはらって立ち上がった。
「俺を優しくていい人だなんて思うなよ」
「…は?」
悟浄が近づいてくるのをぼんやり眺めていたら、そのままの勢いで唇が唇にぶつかった。
「俺が弱みにつけこまねえなんて思うな!!」
「…は」
扉が勢いよく閉まると同時に、かけ損なった眼鏡が手から滑り落ちた。
ああ、今自分の顔が見えたら今度こそ死ぬ。
微笑っていたらどうしよう。
崩れる。全部。まず膝が。
fin
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