「お呼びでしょうか」
 執務室に入ってくるなり天蓬は真顔でこう言った。
「呼んでない」
「ああ、すいません。つい癖で」
 天蓬は微笑いながら背中で戸を閉めた。 本人を直接部屋まで呼びつけていたのは随分昔の話だ。今は回覧か内線か捲簾大将経由で全部済ませてしまう。
 敖潤は一応天蓬を上から下までざっと眺めてから、また書類に目を落とした。
「ひさしぶりだな天蓬元帥。元気そうで何よりだ。急用か」
 この脳天気な軍師の言動にいちいち振り回されて、ボケなのか計算なのか本気なのか嘘なのかと悩むような真似は既に一生分済ませてある。
 天蓬を見たのは、いや会ったのはひさしぶりだ。見るだけならよく見る。軍議。月一の天帝講演会。月二の酒宴。何年経ってもいつでもどこでも天蓬は同じ顔だ。
 しばらく書類を捲りながら待っていたが何時までたっても返事が戻ってこないので、敖潤はようやく顔を上げた。
「…誰が座っていいと言った」
「ああ、すいません。つい癖で」
 天蓬は客用ソファーに落ち着いたまま手を延ばし、塵ひとつない灰皿を引き寄せた。
「気になる状況を耳にしまして、変に燃え広がらないうちに消火をと」
「忙しいんだが」
「ああ、すいません。まわりくどいのは昔からの癖で。先刻うちのが失礼したようですが、どうぞご容赦ください。憎まれ口しかきけないだけで悪気はないんです」
 今度ははしょりすぎだ。
 敖潤が眉間に皺を寄せたまま、聞こえたセリフを生真面目に翻訳するのを、天蓬は煙を吐きながら何となく楽しそうに眺めていた。
「…うちの。捲簾大将か?」
「そうですね」
「先刻。上官と挨拶もなしにすれ違った挙げ句、飼い犬に手を噛まれないよう気をつけろってアレか?」
「そうですね」
「見てたのか」
「見てた部下から聞きました」
「誰だ」
「本人です」
 敖潤は腹の底から長々と溜息をついた。
「…忙しいんだ、2回言うほどに。要するに大将のフォローか?不精者がわざわざ?電話で済むだろうが」
「捲簾は重大な誤解をしてるんですよ」
 どこまでマイペースだ。
「天蓬元帥が俺の手を噛むかもしれんというのが誤解なら、誠に結構なことだ」
「いえ。僕が貴方の飼い犬だという誤解。貴方の犬だったことは一度もありません」
「まあな」
 天蓬は煙草を押し潰すと、立ち上がって敖潤の正面までやってきた。
「貴方が捲簾の前で僕ひとりをもちあげるから生じた誤解です。部下は平等に扱ってください、本心はどうあれ。あれで結構使える男ですよ。好かれて損はありません」
「成る程。今後気をつける。話はそれだけか」
「妬いてください」
 目の前の机に、天蓬が両手をついた。
 前髪が触れる。
「…相変わらずだな」
「おかげさまで」
 このまま顔を上げたら、時間を巻き戻す、その引き金を自分が引いてしまう。
 …本当に相変わらずだ。こっちに引かせたいのだ。何故今更。
 天蓬とは自然発生自然消滅だった。お互いプライドが高かった。感情を口に出すのに抵抗があった。甘えるにも抵抗があった。相手が自分のことを好きなら向こうが会いに来て当然だと思っていた。来ないということは好きでなくなったのだと納得してしまった。だから、なんとなく意地を張り、二日に一度になり、三日になり、一週間になり、一ヶ月になり、終わった。途中でどちらかが我に返れば、どちらかが相手の本音を確かめればよかったのに、どちらもしなかった。冷静すぎたのかもしれないし、子供すぎたのかもしれないし、単に似すぎていたのかもしれない。
 事情が変わったか? 何故今更だ。
 最近天蓬に変わったことといえば、ひとつしか。
 …捲簾。
 思い当たると敖潤はぐずぐず迷ったりしなかった。
 キャスター付きの椅子ごと1メートル後ろに下がってから顔を上げた。
「仕事に戻れ」
 天蓬はしばらくその姿勢のまま敖潤を見詰めていたが、やがてにっこり笑った。
「潔いですね」
「成長したんでな」
「さようなら」
 初めて心臓がブレた。皮肉の影もない素直な物言いだった。付き合いは随分と長いが、初めて聞いた。
「…言ってなかったんで。というか、貴方には一度も、きちんと、何ひとつ言えてなかったんで」
 お互い様だ。
 どう言ったらいいのか分からないので、敖潤は「そうか」とだけ言った。素直な誰かの影響かと口にしかけて、潔くないと喉で食い止めた。
 天蓬に先に一歩行かれた。自分はまだだ。まだ。
「そろそろ仕事に戻ります」
「捲簾大将から出てる軍事演習日程詰め過ぎだ。放任してないでおまえもきちんと目を通せ。それから抜刀隊の朝練。せめて開始を1時間ずらせ。朝からガチャガチャ喧しいとお偉方から苦情が出てる」
「伝えます」
「掃除しろ」
「します」
「自分でだ」
「…頑張ります」
 天蓬は入り口で振り返ると、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」


 扉が閉まると敖潤は、またガラガラと椅子ごと机の前に戻った。
 さようなら。
 ありがとう。
 いつか、仕方がないから天蓬じゃない奴に。
 頭の中で練習しながら、立ち上がって窓を開け、目の前の空気を掻き回しながら吸い殻を摘み上げた。
 しばらく眺めたあと、ゴミ箱に捨てた。




fin

ゆきえさんと作品交換第二弾。
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