波が頭上で白く砕ける。
光を受けて崩れる水の粒が、不意にはっきりと腕の形になって
捲簾を掴んだ。

お     い     で






「海が嫌いな人なんているんですね」
 長年付き合った抜刀隊ですらこの言い様だ。
 世の中には寝るのが嫌いな奴もいりゃ食うのが嫌いな奴もいるんだよ。
「大将だから意外なんですよ。嫌な思い出でもあるんですか」
 竜王の執務室を出た途端、同席した部下から勢い込んでの質問がとんできた。
「別にねーけどなんとなく」
「水恐怖症とか泳げないとかじゃないですよね」
「それはヘーキ」
 まだ何か聞きたそうに頬に貼り付く部下の視線に気付かないふりで、俺はさっきから黙ったままの天蓬を促してその場を離れた。
 好きにも嫌いにも理由はいらないと思うが、何故かみんな理由を聞きたがる。
 俺には「海が好きそう」なイメージがあるのか。そんなことを口に出したこともないのにそう思われるのが不思議だ。どいつにもこいつにもそう思われているのが不思議だ。ただ不思議。
「おまえは驚かねえのな」
「別に興味ないです」
 毎度のことだが、天蓬が俺を何だと思っているのかさっぱり分からない。無断で部屋に入って何時間そこに居座ろうが文句は出ないが、気を許すというよりは完璧な無関心だ。多分、何にも興味がないのだ。これくらいの奴が丁度いい。俺には。
 天蓬の部屋に入ると俺は直進して窓をあけ、こいつが部屋の明かりをつけてコーヒーサーバーのスイッチを入れる。そうしてから窓際で互いの煙草に火をつけ合い、何を喋るでもなく一服。順序が入れ替わることも立場が逆になることもない。
 理由がいるか?
「…みんな海が好きだから、貴方がそうじゃないんでがっかりしたんですよ」
 そろそろ海のことなど忘れかけた頃、天蓬がポツンと呟いた。
「おまえも好きなの?」
「特に好きでも嫌いでも」
 ところで天界に海はない。極々たまに下界で見る海は、大概青くて穏やかで優しい。
「ここの奴らは海なんか知らねえんだよ、竜王以外」
「知ってるところだけでも好きなら充分じゃありませんか。貴方僕のこと知らないでしょう」
「まあな」
「でも知ってるところは好きでしょう。それと同じ」
 天蓬元帥はいつも穏やかでよく笑う。と軍の奴らも金蝉たちも口を揃えるが、俺に向かって笑ったのは初対面の時だけだ。俺の機嫌をとらない。俺に愛想笑いもしない。だから本音を隠すために何重に嘘をついていようが、こいつをまるごと許してる。
「…俺に興味なさ気なところは好きだな」
「ありますよ」
 天蓬は真顔で俺を見た。
「嫌いになりました?」


天界に海はないので海軍もない。下界で討伐すべき妖怪様が海獣だと知って、最初竜王は海神の立場上、自ら遠征の指揮をとろうとした。が、生憎そう簡単に上級神をほいほい下界には下ろせない。「ついうっかり」殺生してしまう恐れがあるからだ。
「海が嫌いだから行きたくないって訳にもな」
 西方軍の連中は、ひさしぶりに海が見られるというので大はしゃぎだ。遠征を明後日に控えて、俺は海図を引っ張り出した。長いこと丸めたまま放っておいたせいでカーブがとれず、無理矢理延ばしたらパキッと割れた。
「海図の見方なんか忘れたっつの。何年前の地図よこれ。大陸がふたつっきゃねーぞ」
 というのは冗談だが海底火山が何百も噴火して地形がまるごと変わっていても不思議じゃない製造年月日だ。
「…役にたちゃしねえ」
「どっちにしろ地上戦になりますよ。ターゲットは岸に引きずり出します」
「ほら貝でも吹くのか?」
「魔法の音波で。詳しく説明しますと」
 天蓬の口から「魔法」と言う言葉が出た時は「ここから先はどうせ貴方には理解不能なので聞かなくていいです」の意だ。一応大将に説明したことにしておかないと問題が起きたときに俺に責任を押しつけられない。
 天蓬が窓を背に専門用語を駆使して蕩々と宇宙語を喋る間、俺は煙草をふかしながらソファーに背を預けて目を閉じた。

海。

生き物だ。

何故あの声が聞こえない。

「人間は海で生まれました」
 いきなり天蓬の声が音から言葉になった。
「だから人は海を懐かしみ海にひかれ海に還るんです。海に還れない我々は、ただただ憧れるだけです」
 眩しさに眉をしかめながら目を凝らすと、天蓬が手に持った資料をぽんと机の上に投げ出したところだった。逆光でシルエットになってるおかげで表情はほとんど窺えない。
「…何の話?」
「西方軍が海に出た時、貴方が海水に掴まれるのを何度も見ました」
 天蓬が下駄を引きずってソファーに沈んだ俺のそばまでやってきた。びっくりするほど顔色が悪い。
「…見た?」
「何度も」
「…声も、聞いた?」
「いつも」


絶対的に圧倒的なもの。海そのものなのか、海の中の何かなのかは知らないが、絶え間なく捲簾を呼ぶ潮鳴り。死が存在しないはずの天界にあって、常に死のそばにいて死を覚悟しているような異端な捲簾を海が誘う。あってはならないからこその甘い誘惑。


お    い    で  。





戻 っ て お い で 。




「僕も海が嫌いです」
 初めて天蓬がふわりと笑った。
「貴方の場所はここですよ」

いつもいつも海を前に俺たちは試される。
波の音に耳をすませて海がいつも優しいなら
貴方は海に試されるほど

強くない。
 
 
 

fin

榊様のリクは「西方軍、海へ」ということだったんですが西方軍をどうしても海に連れていけず
言い訳は榊様に直接するとして海なんです。海。
私は海に限らず山とか空とか砂漠とか森とか広大な自然に対して恐怖しか覚えないのです。
広大なゴミの山とか広大な埋め立て地とかはいいんです。
最近怖いのは宇宙です。

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