温度差発電
「水じゃないですか!」
怒鳴ってる理由もセリフの意味も分からなかったので、俺はしばらくポカンと八戒を眺めていた。その間の長さが更に怒りを煽ったらしく、荒々しい足音とともに俺の視界に八戒がズームアップしてくる。何をされるのか知らないが少なくとも頭を撫でてくれる訳はないので、とりあえず壁まで逃げた。
「まあ、待とう」
自分が悪いんだったら「待て」はなんだし、こいつが悪いんだったら「待ってくれ」もなんだ。
「待とうじゃないです水です水。お風呂が水!」
うーむ、意味が分からない。
「貴方、さっきお風呂入ったでしょう。で、出てきたでしょう。僕になんて言いました?いいお湯だったって言ったでしょう。言いましたよね」
「あ」
風呂から出たら、俺は必ず「いいお湯だった」と言うことにしているというか言ってしまう。女と寝たあとはいつも「最高」でメシを作ってもらった時は必ず「美味かった」。とりあえず言っとけば間違いない。今日は間違ったけど。
「…そうそう。水だったのよ」
「…へぇ」
返ってきた相槌は、苛々を押さえ込んだせいで聞き逃したいほどの低音だ。
そんなに怒るほどの事かとよく見ると、我が同居人は右手にタオルを握りしめ、パジャマを着ている。つまり俺が言った「いいお湯」を真に受けて脱衣所で全部脱ぎ、風呂の蓋をあけてから中身が水であることに気づき、俺のようにタオル一枚でずかずか居間まで来れるようなキャラクターではないので、仕方なくパジャマを着てから怒鳴りにきたらしい。
「…水だったんだけど、今日暑いじゃん。何となく入っちゃったら冷たくて気持ちよかったんで、でもまあ風呂は風呂だし、いい水だって言うのも何だか」
「なんとなく・はいっちゃった・ら?」
八戒はゆっくりはっきり俺の言葉を復唱し、やたら真剣な眼差しでこちらを向いた。
「頭どうかしてるんじゃないですか」
凄い。
真顔でこんな事言われたの初めてだ。
悟能だった八戒を拾って8日後に判明したことだが(うち7日間は悟能意識不明重体)こいつと俺とは価値観というか物の見方というか生きるテンポがまったく違う。したがって俺はいつものように軽く流した。
「ま、今後気をつけるわ」
「つけませんね絶対。貴方よく舌を火傷するでしょう」
いきなり話題が切り替わった。
「…そうね」
「日が暮れても明かりつけないでしょう」
「そうだけど、それが何」
「そのうち死にますよ」
何故か急に疲れた口調で吐き捨てて、八戒はさっきまで俺が座っていたソファーにドサッと腰を下ろした。何だか知らないがつっこむと面倒くさそうなので台所に逃げようとしたところが、背後からボンとソファーの背を叩く音がした。
「話があるから座れと言ってるんです」
言ってねえ。
「貴方ときたら風呂が熱湯でも水でも何となく入っちゃうし、出されたものはそのまんま口に入れて美味いも不味いも熱いもないし、部屋が暗かろうが寒かろうがなすがままだし。どうして状況に合わせて物を考えて快適かつ安全に過ごす為の手段を講じないんです。今だって人の話全部聞き流してる」
「いや、聞いてる聞いてる」
聞いてはいるけどよく分からん。
ビールを諦めて、俺は煙草に火をつけた。
「僕が怒り続けると厄介だから一応しおらしくしてるだけで、本当は納得いってないでしょう。反論しようとも思わないでしょう。貴方は自分に興味がないんです。明日死んでもいいと思ってんです。自分の周囲の何にも興味がないんです。優しいんじゃなくて無関心なんです。だから毎日毎日判で押したように同じテンションで同じ顔で笑ってられるんです。どーでもいいから妥協できるんです。貴方は目の前に人が落ちてたから拾って、怪我してたから看病しただけで、何も考えてない。ほんとは僕がいようがいまいがどーでもいいんです」
八戒は宙に視線を据えて、そこに言うべき事が箇条書きしてあるかのように淡々と喋った。息継ぎもないそのセリフは途中からだんだんだんだんテープの早回しのようなスピードになり、最後になると何を言ってるのかさっぱり分からないまま、突然終わった。
ふっつり黙った八戒に、俺は多分もの凄くいつもの調子で、そう言っとけば大概間違いがないと思われるセリフを言った。
「そうかもなぁ」
八戒が部屋を出ていった後、俺はようやっとビールのプルトップを引き上げた。
昼間のスープで火傷した舌の先が、炭酸に触れた途端ざらっと痛む。
…痛いけど、痛いって言うほど痛くもねぇよな。
いつもならすぐ忘れてしまうのに、今日はいつまでもいつまでもあいつの言葉が耳から入って喉にひっかかった。
僕は人形と住んでるんじゃないんですよ。
女も酒も金も好きっちゃ好きだけど、なけりゃないで済むしな。興味がない。うん、そうかもな。全部なんとなく目の前を流れていくだけだ。
けど、だから、それで、何をあいつは怒ってるんだ。俺が俺や俺の周囲のものに無関心だから、だから何。
俺、何か悪い事したか?あいつに文句言ったことも干渉したこともねぇじゃん。喧嘩もしねぇでうまくやってたじゃん。
何であんな泣きそうな顔すんの。
そんで、何で、ビールがこんなに不味いの。
翌朝、いつものように八戒が俺を8時半に起こし、起こされたので俺は大人しく起きた。
手渡されたコーヒーに口をつけようとしたその瞬間。
「そのコーヒーには毒が入ってます」
顔を上げると、八戒は俺に背中を向けて目玉焼きをフライパンから皿に移すところだった。一瞬背後のテレビを振り返ったが、電源も入っていなかった。
「…今、何つった?」
振り向いた八戒は、皿を自分と俺の前に置き、向かいに腰掛け、真っ直ぐに俺を見た。
「そのコーヒーには毒が入ってます。飲むと死にますよ、ホウ酸ですから」
「…マジで?」
八戒は微かに笑って「いただきます」と手を合わせた。
「八戒」
「なんです?冷めますよ」
「ほんとに入ってんの?」
「分からないんですか?」
カップから立ち上るコーヒーの香気は寝起きでぼんやりした頭にはもの凄く心地よかったが、昨日の香りも一昨日の香りも、いやコーヒーを飲んだかどうかも覚えてない。
俺は淡々と食事を続ける八戒を眺めた。 八戒が卵を塩胡椒で食う派なのも知らなかった。
俺はずっとずっとずっと人の考えてることを分かろうとか知ろうとか思ったことがなかった。だから誰のことも好きにも嫌いにもならなかった。俺がそうだから皆もそうだと信じて疑わなかった。
こいつのやること言うこともご多分に漏れず俺には理解できなくて、同居して半年もたつのに理解できないままなのは、俺がこいつを見てもいなかったからだ。
俺さえその気になれば、ちゃんと分かるのに。俺さえきちんとこいつを見てれば分かったのに。
八戒は俺に関わろうとしてくれてる。
好きなのか憎いのか両方なのか知らないが、そんな物好きな奴が半年も前からずっとずっとそこにいたのに。
俺がコーヒーを飲みほすのを、八戒はフォークを宙で止めたまま、じっと見ていた。
fin
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