遠くを見る癖
もう見ないとなると少しは寂しいもので、捲簾は大学も休みで無人の研究室を見渡した。
雲の厚い昼下がり。
半分カーテンの閉まった部屋に差し込む弱い光が、あちこちで戸棚のガラス戸やずらっと並んだ試験管やそのへんに蓋もせずに並んでるシャーレだとか血液ガス分析装置だとかにぼんやり反射して幻想的と言えないこともない。
だが捲簾は嫌いだった。壊れ物や精密機械ばかりで無意識に息をつめ足音を殺してしまうこの部屋が嫌いだった。何人詰まってても静かなこの部屋が嫌いだった。煙草も吸えないこの部屋が嫌いだった。どうもここにいることで優越感を感じているらしき同級生も嫌いだった。
何でこんなところに5年もいたんだ。
最初から間違った。時間を無駄にした。何も国家試験を来年に控えた今になって気付くこたなかろうと思うが、気付いただけ、きっとマシだ。記念になんかパチっていこうという気にもならなかったが、一応白衣だけは名札と一緒に鞄に突っこんで、捲簾はもう振り向かずに部屋を出た。途端に肩の力が抜ける。
我慢してた。ずっと我慢してた。
無機質な研究棟を抜け、外部の人間が出入りするために表向きはゴージャスな学生棟の教務のポストに退学届を突っこんだ。
これで終わり。
「うわ!」
いきなり後ろから膝を押されて危うく転びかけた。
「…なんで犬がいんのよ」
「おいで」
口笛に呼ばれて長い毛並みのそのでかい犬は正面階段を駆け下り、窓に腰掛けた天蓬のところへ戻っていった。
「…何してんの」
「お見送り。誰もいないと寂しいでしょ」
「 見送られたくないから日曜に来たんだけど」
「知ってます」
5年間同じ専攻で何となくべったり一緒にいたが、こいつの事は最後までよく分からなかった。嫌われてるのかもしれない。
捲簾はゆっくり絨毯を踏んで天蓬に近づいた。そこを通らないと帰れない。
「次の動物慰霊祭、来月か」
「…この子は殺しません。環境学の教授が動物アレルギー防止薬の実験に使うんです」
「そりゃ気の毒に」
無表情だった天蓬は、ようやく眉を顰めた。
「なんだその眼輪筋と皺眉筋の動きは」
「やけにヤツ当たりますね。禁煙に成功した人が喫煙者にやたら厳しいのと同じ理屈ですか」
「好きな奴ほど一旦嫌になったらどこもかしこも反吐がでるほどヤになるのと同じ理屈だ」
天蓬は舌で煙草を弄びながら口の中だけで「ふーん」と言った。
会話が続かない。
捲簾はなんとなく踊り場に腰掛けて犬と視線の高さを合わせて撫でてやった。
他の奴らよりは、まだ医学を志すその志し方が捻くれてて、天蓬はよかった。ここを出たらもう二度と会わないだろう奴と何も後味の悪い別れ方をするこたない。
「…そういやおまえ法医学いくって?」
「早耳ですね」
「監察医になんのか」
「ですね。多分」
「げー趣味わる。変死体の解剖ばっかすんだろ?苦しんでる人を病から救いたいという医療の根本はどうなっちゃったんだ?」
天蓬はちょっと笑った。
「生きてる人間のほうが僕には怖いです」
「…へぇ」
こいつにも怖いものがあんのか。最初の人体解剖なんか誰でもびびるし、最初に目の前で人に死なれたら普通落ち込む。こいつだけは顔色ひとつ変えたことがなかった。俺も周囲から浮いてたが、こいつも浮きまくってた。
素敵ですよねえ捲簾。筋肉と骨と脂肪だけですよ人って。人間の心って厄介だと思ってましたけど心臓だってただの肉ですよ。ちゃんと触れる。ほら。
「どこ行くんです」
「決めてねぇ、これから探す。まだ若いし」
「…そうですか」
ゆるゆると上がる煙草の煙。
…ダメだな。続かねぇや。俺も離島医療やって赤ヒゲ先生になって無医村で骨折から出産まで全部面倒見て村民に先生先生慕われて一生現役で終えるのに憧れたりした頃があったんだけど。
いいやもう。終わったことだ。
捲簾は天蓬がぶらぶらさせてる足からぽたんと落ちたスリッパを横目に立ち上がった。
「んじゃ」
「ええ」
何か言いたいことがあったんじゃねえのか。俺も何か言いたいことがあったんじゃねえのか。
捲簾はポケットに両手を突っこむと階段を一段抜かしで下まで降りた。上からやたらのんびりした声が降ってくる。
「刑事になるってのはどうですかね。似合いますよきっと。間違って誰か殺しちゃっても診断書誤魔化してあげます」
何言ってんだ。
「それか変死してみるってのはどうですかね」
だから何を言ってんだ。
「捲簾」
なあ、俺なんで5年もここにいたの。
「もう決めちゃったんですか?」
決めちゃったに決まってるだろアホかおまえは。もう俺は迷ってない。
ただ。
どうしようか。
玄関でもう一度振り向こうか。
fin
お誕生日に。
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