セル act12
泣き声がする。
悟浄の独房送還が明日に変更になったので、八戒は既決区を後回しにして宿直室に近い未決区から巡回を始めた。まだ刑の確定していない囚人の入った房は、まだ刑務所慣れしていない連中が泣いたり喚いたりと特にうるさく、いちいち宥めたり脅したりしてると夜が明けてしまう。周囲の雑音にはいっこう構わず足早に廊下を通り抜けようとしたところで、いきなり鉄格子が鳴った。
「先生、俺、何もしてねえんだよ!ほんとに!」
流石に素通りする訳にいかず、八戒は数メートル通り過ぎてから立ち止まり、振り返った。
「お休みなさい。夜中ですよ」
「何もしてないんだって!」
「…それを決めるのは僕じゃないんです」
「信じてくれ!」
八戒はゆっくり来た道を戻り、鉄格子の前に立った。この男は他の連中のように、檻の中にいる屈辱で震えている訳でも後悔で泣いてる訳でもない、誰にも信じてもらえない絶望に打ちのめされている。初めて見る顔だ。罪状も知らなければ有罪か無罪か判断する材料もない。信じる理由は何もない。でも理屈じゃない。
「信じます」
ずるずる男の体が崩れ落ち、肩が小さく震え始めた。
「信じますよ。貴方は何もしてない」
本気だった。こんなに人を素直に信じたことは一度もないぐらい。一看守にすぎない八戒の信用など彼の人生には何の関わりもないはずなのに、たったそれだけで男は大人しく布団に戻り、八戒は彼の穏やかな寝息が聞こえるまでそこにいた。
人の気持ちなどと何の関係もないところで時間が流れて動いてく。信じても信じなくても彼の運命はどこかの誰かの手によって決定される。何となく寄ってきた女とつきあい何となく薦められた大学に入り何となくここにいる八戒とどこが違うだろう。初めて必死で欲しいと思ったのは悟浄だけ。
あの男は一から十まで自分のことは自分で決められると思ってる。それができると思ってる。誰にも自由なんてないのに、手に入るのはせいぜいたった一晩の帝国なのに、悟浄をみていると錯覚する。
彼にはできないことはないんじゃないかと。
どうせなら最後まで騙されたい。
八戒はその晩、第七房に行かなかった。
「最悪。あの強面だ」
後ろを通り過ぎざま耳元で囁いていった同僚に目で礼を言い、悟浄は目の前の金属屑をそっとはらった。中から出てきた針金と金属片は、仲間が磨いてここに隠しておいてくれたものだ。工場担当はさっきから壁際の機械の不調に気をとられていて、こちらには目も向けない。その不調も勿論仲間が仕組んでくれたことだ。検診場の身体検査も何かしら騒ぎを起こして甘くなるよう手はうってあるが、用心にこしたことはない。
悟浄が金属片を袖から押し込み肩のほうまで滑らせるのを、刺青は複雑な面持ちで眺めていた。
「…なあ、何が強面?」
「先生の代わりに今晩俺の送迎にくる看守は誰か調べてくれって頼んどいた。ほら、先生の後輩で空手5段だか6段だかの」
「ああ、あのゴリラ。俺もおまえと同房だったら、あの野郎を叩きのめせたのか」
「あんただったらせいぜい足ひっかけてもらうぐらいかな」
「ひでえ」
「独房入る覚悟もねえくせによく言うぜ」
後ろを通り過ぎた仲間が、悟浄の手に紙切れを押しつけた。
「次は何だよ。夜勤のタイムスケジュールか?」
「伝言。独房の組長さんから、健闘を祈るだってさ。さすが組長、手下が多いな〜。しかもすげ達筆」
悟浄はちょっと笑うと、紙片を丸めてぱっと口に放り込んだ。
今晩、悟浄が脱獄する。
今まで一度だって仲間を逃がすのに失敗したことはない悟浄だから、きっとうまくやるだろう。
でも、それなら何故独房に入ってからやらない。
さっきから何度も喉まで上がってくる疑問を、刺青はそのたびに呑み込んだ。そりゃあ独房のほうが鍵も頑丈だし、建物の奥だから外に出るまでの道のりも長い。だが看守は八戒ひとりだ。彼さえ突破すれば、一晩に何人も時間差で巡回している雑居房より余程楽だと思うのだが。
盗み見た悟浄の表情は、当たり前だがいつもと全く変わらない。
…こいつがいなくなったら。
刺青は工具を握り直して作業を再開した。
ここは、ほんとにムショみたいになっちまうな。
「なんか遠足の前みた〜い」
同房の連中が一斉に悟浄を見た。
「…いや、楽しみでワクワクするなあって意味だけど」
「やっぱおまえちょっと変だわ。こちとら関係ないのに心臓が破裂しそうだ」
送迎の時間は特に決まっていないが、だいたい全員が寝静まった午前1時か2時。悟浄に同房の連中が頼まれたのは、朝の点呼まで寝たふりをし続けることだけだ。脱獄を手伝ったことがばれればよくて独房、下手すれば自殺房行きだ。だが悟浄の気遣いなど、仲間は当然無視するつもりでいた。
悟浄がいて楽しかった。こんなところでも楽しかった。
「…なあ悟浄」
「ん?」
「もし先生が来たらどうする」
「何で?どうもしねえよ」
昨晩八戒が顔を出さなかったものだから、もしや夜勤を交代して今晩送迎に現れるのではという気もしていた。もちろん八戒相手でもやることは同じだ。ぶん殴って朝まで気絶させる。
改めて最後のお別れなんか、言えるはずも言うつもりもなかったが、流石にちょっと情が移った。遊びでもキスして抱き合った仲だ。あの綺麗な顔、じっくり見ておきたかった。
幸い、1時半を回った頃に聞こえた足音は八戒のものではなかった。ほぼ全員が意識明瞭なまま息を潜める中を、悠々と進んできた看守が第七房の前で立ち止まる。警棒でコンと格子を小突く音が響く。微かに、誰かの喉が鳴った。
「1024番。起きろ」
誰も動かない。看守は舌打ちすると、格子に額がつくほど接近して中を覗き込んだ。
「おい、赤いの!聞こえねえのか、独房に…」
途端に凄い力で中から両腕を引っ張られ、看守の体は凄まじい音をたてて格子に叩きつけられた。
手を延ばして看守の腰から鍵の束をベルトごと引き抜いた同僚が、悟浄が止める間もなくその束で看守の首の後ろを思い切り殴った。
「てめ、余計なことすんなっつったろ!」
「あんたが無事出てったら、悟浄がやりましたって言っとくよ!」
第七房の鍵が開いた。あとはこの館内に扉が4つ。その後、宿直室。表玄関。ゲート。
「行ってくる!」
「おう、元気で」
悟浄は小さく手を振ると、雑居房を抜け出した。監視カメラの位置が変わっていたら看守の制服で誤魔化そうと思っていたが、半年前に仲間を逃がした時から変わっていない。死角を狙って走ったほうが早い。いちいち応えてはいられなかったが、挨拶代わりに格子をカンとうち鳴らす音が聞こえた。
ここには山ほど鍵開けのプロがいる。針金とアルミ板で錠前の中のバネを弾くだけ。最初の三つは簡単だったが四つ目で手間取った。何度も人に指南はしたが、いざ自分でやるとなると心臓が痛いほど鳴る。
…一度はここで死のうと覚悟したんじゃねえのか。
そう思うと嘘のように指の震えが止まり、四つ目の鍵が気持ちのいい音を立てて外れた。そうだ、失敗したからって今更どうってことはない。うまくいけば儲けもん。
隣の四舎の夜勤は途中で腹が痛いの何のと訴えた囚人に引き留められているはずだ。三舎までは手が回らず、ちょうど行く手に懐中電灯の明かりが見えて慌てて身を伏せた。息が漏れないよう手で口を押さえて行きすぎるのを待つ。
これはゲームだ。ゲーム。
緊張が解けると、悟浄は埃を払って立ち上がった。宿直室にいたのは3人。見回りに廊下へ出てきた1人の鳩尾を殴り倒しておいて、腕を突っこみ部屋の明かりを切った。騒ぐ二人を後ろからパイプ椅子でぶん殴る。手元が狂って嫌な音がした。
「…うわ、やばい感じ」
骨折っちまったか。しかして躊躇している暇はない。壁際の基盤を跳ね上げ右から三本目と四本目、一番左の電極を引っこ抜く。これでカメラも全部死んでるはずだ。
外に出たら朝になる前に兄貴に連絡して着替えて女んとこで風呂入らせてもらって、ああ、炒飯食いたいな。ちゃんと卵も入ったやつ。悟空んとこ行くのはあと2,3年は無理だから、まず組長んとこ行ってパスポートつくってもらってどこか。やっぱ南だな。南の国。人がうじゃうじゃいるところ。俺はどこにいたって何をしたってきっと生きていける。
それから。それから…。
夜空が見えた。5年ぶりに見る夜の空。
「こんばんは、悟浄」
何故驚かなかったのか不思議だった。もうひとつ関門があるような気がしてた。
「今日の散歩は遠出ですね」
官舎と、夜間は見張りのいない裏ゲートの間、約20メートル。そのゲートの前に、八戒は別に気負ったふうもなく、いた。
ジーパンに長袖のTシャツ一枚の八戒は制服の時より随分若く見えた。寮の入り口は刑務所敷地内にもあって、八戒は本当に「夜風に当たりに」ふらっと寮から出てきたところでたまたま悟浄と会ったような出で立ちだった。
「先生の私服、初めて見たな」
悟浄は足を止めずに八戒に、いやゲートにずかずか近づいた。
「制服のほうが似合うって言われるんですけどね」
「そんなことねえよ。今のほうが俺、好き」
「それはどうも」
「警棒ねえもんな」
悟浄は後ろ手で小刀を握りしめた。掌に綺麗に収まる程度の小さな小さな刺青からの餞別。使いたくないが、いざとなったら仕方ない。
すれ違いざま、八戒が腕を掴んだ。咄嗟に首筋に刃先を押し当てたが、八戒は微動だにしなかった。
「…どうして独房に入ってから逃げなかったんです。そのために僕をたらしこんだんじゃなかったんですか」
「どーでもいいじゃねえかよ、んなこと」
風が気持ちいい。空気が澄み切ってしっとり重くて、昼間と匂いも温度も全然違う。毎日この空気が吸えたらどんなにいいだろう。知らなきゃ知らずにすんだものを、突然、何が何でも逃げたくなった。
「僕が貴方を逃がしたと思われないようにかばってくださったのかと思ったんですが、勘違いですかね」
「…何言わせたいんだか分かんねぇな色ボケ看守。いい暇つぶしになりました、どうもありがとう。悪いけど俺は今、生涯最高に急いでんだ。邪魔するなら骨の1,2本覚悟しろ」
八戒が、微笑んだ。
「ですよね。聞いてみただけです」
背後で小石の弾ける音。咄嗟に八戒を引き寄せた。振り向かなくても分かる。
数メートル先の三蔵は、当然のことながらきちんと制服だった。つまらなそうに煙草を捨てると、右手をポケットに突っこんだ。
「八戒。てめぇ何でここにいやがる」
「散歩の途中です。貴方は?」
しれっと応えた八戒に盛大に舌打ちすると、三蔵は銃口をぴたりと悟浄に向けた。
「そいつに人質の価値はねえぞ悟浄、とっとと離れろ。国家公務員の良心のかけらも残っちゃいねえ部下に用はない。離さないなら一緒にぶち抜く」
こいつ、ほんと頭いいな。
悟浄は人ごとのように感心し、刀を握った手に力を込めた。
刑務所内で発砲すれば役職付きでもただじゃすまないが、脱獄途中の囚人なら射殺しても堂々と書類を上に提出できる。そのために、部下も連れずにここで待っていたんだ。わざとここまで逃がしたんだ。
「俺は何人も仲間脱獄させていい事した気になってるてめえのその面がむかついて仕方ねえんだ。そいつらのうち何人が逃げ切れたと思ってる。大人しくここで刑に服してりゃ数年でシャバに出られたものが、逃亡途中に何人俺の部下に撃ち殺されたと思ってる。おまえは立派に殺人犯だ。おまけに只今脱獄途中だ。以上が発砲理由だが何か質問はあるか」
「…いや特に」
「ならこのへんで世のため人のため速やかに冥土へ行きやがれ人間の屑」
悟浄は八戒を盾にしたままじりじり後ずさった。
そっか。そうかもな。俺、どうかしちゃってたのかもしんねえな。
…そっか。あいつら死んじゃったか。
いい事したとは思わないけど悪い事したとも思わない。ここにいるか逃げるか決めたのはあいつらだ。俺はきっかけをやっただけ。でも、無駄だったか。
「そいつを離せ。刺せもしねえくせに」
「は。試すか?あんたこそ銃捨てろよ。撃てもしねえくせに」
まだ笑い返してやる余裕はあったが、背中はゲートに突き当たった。この鍵を外すのに15分はかかる計算なのに、八戒を捕まえてるおかげで片手が塞がってる。その間、三蔵が撃たずにじっと待っててくれるなんてあり得ない。八戒を離したら最後、息の根止まるまで全弾撃ち込まれるに決まってる。
「…面白いなぁ」
それまで無言で悟浄に引きずられていた八戒が、突然呟いた。
「やっぱり貴方といると退屈しませんね。生きてて良かった」
「てめぇはいったい俺を逃がす気か止める気か心中する気かどれだ馬鹿野郎!」
「どれでも一緒ですよ、もう」
逃がそうとしたら、三蔵は大義名分が整ったとばかりに自分ごと撃つ。脱獄を手伝った部下に同情するほど甘い男じゃない。止めたところで撃つ。悟浄を大人しく独房に繋いでおくだけじゃもう気がすまないはずだ。
自分をじりじり傷つけて、三蔵が銃を捨てるまでねばれないなら、悟浄はここで終わりだ。
やっていいですよ悟浄。貴方が三蔵なんかに負けるはずがない。貴方は何でもできるんだから。できないことなんか何もないんだから。貴方が教えてくれたんでしょう。ここは貴方の国でしょう。
その時だ。
業を煮やした三蔵が不意に一歩前に出た。
身構えたはずみにぶれた刃先が、八戒の首の皮一枚を削いだ。
「……っ」
「あ、悪ぃ!」
悟浄が思わず口走り、次の瞬間蒼白になった。
…悪い。
それで勝負あった。
悟浄には八戒を刺せない。
銃口を見詰めたまましばらく硬直していた悟浄は、ようやく苦笑して八戒にまわしていた腕をゆっくり緩めた。
「じゃあな八戒」
「八戒!とっととどきやがれ!」
ふたりの声がやけに遠い。
八戒は思わず目を閉じた。
誰か時間を止めてくれ。
色が薄れてきた空に鳥の群れが舞い上がって、高い塀を越えていく。
悟浄の腕が離れてく。
fin
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