コスモ・コロンブス
諦めの早い悟浄が止めるのも聞かず廊下へ出ようと手探りで扉まで辿り着いた八戒は、たちまち引き返した。
「だからやめとけっつったろぉ?」
ベッドの上で枕を抱いたまま壁に貼り付いていた悟浄の口調も、心なしか堅い。
「どお、気分は」
「…なんかもう最低です」
八戒はベッドに這い上がると、ぐっしょり水を吸った靴を脱いで床に放り出した。はずが、床からはボッチャンと室内にあるまじき音がした。
「…俺、もう絶対ココから降りねえ」
「賢明ですね。廊下の方が水面高いですよ。戸が開きません」
昼過ぎから降り出した雨が激しくなってきた。
と思っているうちに風が吹き雷が鳴り、日付が変わる頃には耳を覆わんばかりの大騒音になった。悟空は大喜びで窓に貼り付いていたが、大人はそうはいかない。はしゃぐ訳にもいかないし怖がる訳にもいかない。
「…悟浄、寝られます?」
「おや、お誘いですか?」
八戒の顔にありありと「言うと思った」の文字が浮かんだ。戦闘と豪雨でくたびれ果ててそんな元気もないくせに一応、言うのだ、悟浄は。
悟浄は冷ややかな眼差しを受けてキチンと姿勢を正した。
「ま、ジープでうたた寝してる時に耳元で猿が騒いでる状況だと思えば寝れないこともないです」
「リオのカーニバルの夢でも見そうですけどね。是非夢で会いましょう」
逢瀬の間もなくジープに頬を突かれて飛び起きた時には、部屋はすでに水深3センチの池と化していて、何度呼んでも外の轟音に掻き消されるもんだから、八戒は向かいの悟浄に思いっきり枕をぶつけて叩き起こした。ご機嫌なことに停電で灯りもつかない。
「やっすい宿だなーおい!俺んちだってボロだけど床上浸水はねえだろ!」
それは田舎で標高があったからだ。
「朝が来るまで待つしかないですね。三蔵達は2階だから平気でしょう」
よもや自分たちの下で仲間が漂流しているとは思うまい。何を喋っても言葉が湿気を含んで落ちていく感じ。
水音。
葉擦れ。
雷鳴。
闇。
閃光。
「…気分悪…」
八戒が無意識に呟いた途端、間髪いれず悟浄が二度と降りないはずの床に、いや池に飛び降りた。
「あ、違いますよ!雨のせいじゃなくて」
「先言え!濡れたわ!」
「なんか変な気分しませんか悟浄。平気ですか」
返事に間があった。
「…何が?」
状況を客観的に見れば、床に水が薄く張っているだけだ。心持ち雨足は弱まって、これ以上水位があがる様子もない。それじゃあ何だろう。この漠然とした圧迫感。
「八戒、黙るな」
驚くほど近くで悟浄の声がした。
「暗くて顔色分かんねんだよ。寒い?」
「…貴方の心配性、たまに鬱陶しいです」
悟浄は今更びくともしない。見えもしない顔色を指で探るように、額にごく軽く触れてくる。
「…水の中に立ってると風邪ひきますよ」
これも手探りで見つけだしたタオルを掴むと、悟浄は八戒のベッドに腰掛けて濡れた手足を拭きだした。
「あーなんかこれも湿ってる気がする…」
「…ここで拭いても戻るときにまた濡れますよ。あ、とび石作りましょうか。そのへんの棚倒して」
「…もういい。こっちにいる。どーせ寝れないし」
ジープはタンスの上に避難場所を定めたらしく、天井近くで微かに鳴き声がしたっきりだ。決して広くないベッドの上に何をするでもなく並んで座り込み、かえって部屋の中より明るいくらいの窓の外をぼんやり眺めていると、滝のようにガラスを伝う水流のせいで何もかもが歪んで見える。
子供なら、親にしがみつく。
大人なのに、途方に暮れている男がふたり。
「…ひょっとして俺らは今、途方に暮れているのではなかろーか」
「…まあ、そうですね」
「だから気分が悪いんじゃねえか?」
「ああ、なるほどね」
不本意な状況に手出しができない自分に腹が立ってるのか。他の部屋の住人もこうやって、膝を抱えて息をつめて、ひたすら朝がくるのを待っているのだろうか。無抵抗に。
自覚すると本格的に腹がたってきた。八戒は、決して三蔵や悟空の前ではしない舌打ちをひとつした。
「僕は思い通りにはなりませんよ」
「へ?何の?」
「雨とか嵐とか、何でもかんでも全部ですよ。やりましょう悟浄」
「…何を」
「セックス」
「何で!?」
「悔しいから」
意表をつこうと思って。嵐の。
平気なふりで。
返事がかえってくる前にと位置の見当をつけて八戒は腕を延ばしたが、思ったとおり空ぶった。
「…馬鹿」
宙に浮いた右手の掌を、悟浄が自分の頬に導いてくれる。
「あ、そう。そこ。さすが悟浄」
「おまえ、時々自分の目のこと忘れてるよな」
遠近感のうまくとれない眼は、キスまでの距離もうまく測れない。それでもはずしたことがないのは、悟浄のおかげだ。八戒が触れる一秒前、一秒前に体に触れて距離を教えてくれる。嫌がっていてもさり気なく唇を開けてくれ、凭れかかると自分から押し倒されてくれる。
「かわいそーで迫られても逃げられないじゃん」
「役得ですね。結構結構」
「うわ、無駄に前向き。同情なんですか!?とか聞けよ、おまえらしく」
「今日はそれどころじゃないです、愉しまないと」
両肩をシーツに縫いつけて首筋に唇を押しつける、その瞬間に漏らす悟浄の吐息が一番好きなので、窓を乱打し続ける雨音に滲まないよう耳をすませた。
悟浄が不意に呟いたのは、ちょうど八戒の舌が悟浄の肌を滑り落ちて、ストンと肉のおちた腹の辺りを丹念に這っている時だった。
「…確かに呑気にこんなことする奴がいるとは思わねえわな。嵐もびっくりだ」
「でしょう。これはある意味露出プレ…」
「もっと意表つくか」
言い終わやいなや悟浄は八戒を勢いよく床に跳ねとばした。
「………信じられない」
仰向けに耳まで水に浸かった八戒を、悟浄がベッドの上から身を乗り出して見下ろした。
「ずぶ濡れた奴ってどーしてこう色っぽいかね」
絶対に何の思い通りにもならないけど。
でもこの人だけはねぇ。
「…悟浄」
「なーに?」
「来て」
やっぱり延々焦らされる。
何だか楽しくなってきた。
スプーンで掬われるのを待っている瓶の底のよう。
八戒は、雷光が夜光虫のようにチラチラ光らせる水面の中で、前髪の滴をはらいながら、初めて笑った。
fin
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